第4章 シロ、のぼる
その日の昼下がり、動物園のにぎわいが少しおさまったころ。
風がふわりと吹いて、シロの檻の上を抜けていった。遠くから、ちいさな子どもの声が聞こえる。
「わあ、あのクマ、木の上にいる!」
シロは、ひょいと後ろ足で立ち上がると、頭上を見あげた。木の枝に吊るされた、丸いカゴ。その中には、リンゴが入っている。
「また、あんなところに置いちゃって……」
飼育員さんたちはときどき、遊びのつもりで高いところにごはんを隠す。
でも、それを「遊び」と感じてうれしがる動物もいれば、「めんどうだな」と思う動物もいる。シロはどちらかというと、前者だった。
「ちょっとしたパズルみたいで、悪くないんだよね。」
そう言いながら、太い木の幹に前足をかける。シロのからだは大きいけれど、足のうらはやわらかく、枝の感触をじっくり確かめるようにのぼっていく。
「シロくん! 木に登ってるのかい?」
となりの檻のフェンスの向こうから、コンドルのフライが叫んだ。フライは翼をひらいてはいるけれど、檻のなかで地面をぴょんぴょん歩いている。
「うわぁ……ぼく、そんな高さ……ムリだな……」
「見てるとけっこうこわいもんだよ、フライくん。」
ふり返ると、チーターのランも下から見上げていた。長いしっぽを左右にゆらしながら、口をポカンと開けている。
「え? シロって木登り、得意なの?」
「うーん、子どものころから気がついたら登ってたかな。あんまり意識したことないけど。」
「それ、すごいってば……」
ランはそう言って、ちょっとうらやましそうな顔をした。
そのときだった。
「それ、本当にシロクマなの?」
ふいに聞こえた声に、シロはぴくりと耳を動かした。ユキだった。
彼女はプールのそばで、ふかふかの芝生に腰をおろしていた。遠巻きにシロを見つめながら、小さく首をかしげる。
「泳げないし、木登りなんて……まるで、ツキノワグマみたいじゃない。」
シロは、枝のうえで立ち止まると、苦笑いした。
「シロクマらしくないよね、ぼく。」
「べつに、悪いって言ってるんじゃないのよ。ただ……不思議なの。」
ユキは立ち上がると、すこしだけ歩みよってきた。
「わたし、シロクマってみんな、プールにどぼんって飛び込んで、お魚をバクバク食べて、お客様をわっと沸かせる、そんな生き物だと思ってたの。」
「へえ、ずいぶんにぎやかなシロクマ像だね。」
「わたしのパパがそうだったの。」
その言葉に、シロはすこしだけまじめな顔になった。
ユキの声は、ほんのすこしだけ、遠くを見ているようだった。
「だから、なんだか変な気分なの。あなたを見てると、シロクマじゃないみたいで……でも、なんだろう、ちょっとだけ、気になるっていうか……」
シロは枝のうえで、にこっと笑った。
「ユキちゃん、ありがとう。なんか、そう言ってもらえるとうれしいかも。」
「うれしいって……なんで?」
「だって、気になってもらえるなんて、めったにないからね。」
ユキは目をぱちくりさせたが、やがてすこしだけ笑った。
その後、シロはリンゴをゲットして、するすると降りてきた。
ランとフライが拍手のように羽としっぽをばたばたさせた。
「すげー、やっぱりおまえ、木登り名人じゃん!」
「い、いっそのこと“木登りクマ”に改名すれば……!」
「それはちょっと……」
そう言って照れるシロを見ながら、ユキはもう一度だけつぶやいた。
「ほんと、変わったクマ……」
でも、その声は、すこしだけやさしくなっていた。