ありふれた雑談と
「ただいまぁー」
「おかえり。今日も遅かったね」
いつも通りの我が家、いつも通りの出迎え、そして、いつもとは少し違うスパイシーな香り。
「むっ、この匂い、もしかして今日のお夕飯はまさか……」
「ご明察。今日はカレーだよ。そろそろ恋しくなる頃合いだと思ってね」
「ぐぬぬっ、まさかバレていたとは……」
「何年の付き合いだと思ってるのさ。ほら、早く手洗って来なよ」
大学を卒業した私が、就職に伴ってこの大都会へやってきたのが三年前。そして彼女は一緒に地元を飛び出した同級生であり、小説家の卵。現在は持ち込みや賞への応募を続け、なんとかその殻を破ろうと奮闘中である。
三秒で手を洗い、シャツを脱ぎ捨てて放り投げた私は、ヘッドスライディングせんばかりの勢いで食卓についた。
「またそんな格好して……風邪ひくよ」
「大丈夫だって〜、私が風邪ひいてるの、見たことないでしょ?」
「まあね、何とかは風邪ひかないって言うくらいだしね」
「……よくわかんないけど、褒められてるんなら悪い気はしないね。もっと褒めていいよ!」
「……カレー冷めるよ」
「そうだった! いただきます!」
彼女の作る料理はとても好きだ。初めの一年で、彼女は私の味の好みを完璧に把握し、二年目には私がちょうどその日食べたかったものが毎晩用意されるようになった。三年目の今となっては、見事に彼女無しでは生きていけない身体にされてしまったのである。早速、この宝の山にスプーンを差し込み、マッハで口に放り込む。
「これは……! この辛そうで辛くない少し辛いバランス、そして多分色々入っているであろう隠し味! シェフを呼んでくれ」
「はいはい、わたくしがシェフでございますよ」
「何か褒美を遣わそう。欲しいものをいいたまえ」
「そんな滅相もございません。わたくしはしがない小説家ですので、好きなだけ執筆に没頭できる今の環境があるだけで十分でございます」
「ほう! お主はなんと無欲なのだ、気に入った! では褒美に冷凍庫のダーゲンハッツを食べる権利をやろう」
「ははー、ありがたき幸せ」
くだらないコントを続けている間も私は一切手を休めなかったので、皿の中身はあっという間に空になってしまった。
「おかわり!」
「見ていて気持ちの良い食べっぷりだねぇ、はいどうぞ」
「不思議なことに食べれば食べるほどお腹すいてくるんだよね」
「それは本当に不思議なことだね……そんなに食べても全く太らないし、なにか人間とは別の生命体なんじゃないかい?」
「フッ、まさか気づかれてしまうとはな……そう、私はカロウ星からやってきたシャ・チク人。エネルギーの消費量が貴様ら人間の三倍は多いのだ!」
「……今日は何時にも増して疲れてるね。ご飯食べたらさっさとお風呂入って、早く寝ちゃいなよ」
「……バレちった?」
「君が空元気を振り回すのは、大抵嫌なことがあったときか、よっぽど疲れてるときにそれを誤魔化すためだからね」
この同居人は、小説家なだけあって観察眼が鋭い。きっと私以上に私のことを熟知しているのだろう。こういうときは、大人しく従っておくのが賢明である。私は残りのカレーをサクッと完食した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
いつも通りの日常、いつも通りの彼女、昨日とは違うやり取り。この代わり映えしない、全く退屈じゃない日々が、私は大好きである。食後は風呂に入ってダーゲンハッツをかき込み、爆速で寝た。
翌朝、目が覚めると時計は六時半ジャストを指していた。訓練された社畜は、目覚ましなどなくても決まった時間に自然と目が覚めるのである。それは休日とて例外ではない。社畜の朝は早いのだ。
リビングでは、既に同居人が朝食を用意して待っていた。
「おはよう、今日はのんびり過ごす日かい?」
「んー、そうするかなぁ」
彼女の目の下には中々立派な隈がある。これは間違いなく完徹だな。
「また徹夜したの?」
「筆が乗ってしまってね。書けるときに書かないと、私は書けないときにはとことん書けないからさ」
「そーゆーもんかぁ」
スクランブルエッグはよっぽど私の口に入るのが嫌らしく、箸の間を何度もすり抜け、抵抗してくる。
「……スプーン使うかい?」
「いや、いい。私はやれる」
「……そうかい、頑張ってね」
彼女はしらけた顔をしてテレビをつけた。この時間帯はどのチャンネルも朝のニュースをやっている。私はいつも通り「Zap!」にチャンネルを合わせるよう要求した。そこではいつも通り顔なじみのアナウンサーが今週のニュースを報じている。
「次のニュースです。先日未明、■■県■■■市の自宅で、二十五歳の女性が殺害された事件で、県警は同市在住の■■■■容疑者、二十五歳を殺人容疑で逮捕しました。警察によると二人は同級生で……」
「ひぇー、これ私たちと同い年じゃん。恐ろしい事件だねー」
「そうだね」
年齢もそうだが、関係性なんかも非常にそっくりである。そうなると、純粋にひとつ疑問が生まれる。
「それにしても、なんでクラスメイトを殺しちゃったんだろうね。よっぽど嫌いだったのかな?」
「さあ、どうだろうね。私には分かりかねるよ。でも」
「でも?」
「殺す理由が、相手が嫌いだからとは限らないんじゃないかな」
「……どゆこと?」
「例えばほら、好きが高じて思い余った、とか」
「んー……大好き過ぎて殺しちゃったってこと?」
「そんな感じだね。あ、そういえば最近そういった類の小説を読んだんだ。だからそう思ったのかもね」
「そうゆうこともあるのかぁ」
凄惨な事件だって私たちの間では会話の種でしかない。数百キロ先の、誰とも知らない人の事件など、推理小説の事件とどれほど差があるだろうか。少なくともこの平穏を壊しうる存在ではないのだ。
「ふぁぁ、私は仮眠をとってくるよ。昼食前には起きてくるから、食べたいものを考えておいてね」
「はーい、おやすみ。休日だしどっか食べに行こうよ」
「のんびりするんじゃなかったの」
「気が変わった」
「……いいね。楽しみで眠れなくなりそうだ」
彼女はまたひとつ大きなあくびをして自室へ向かっていった。私はといえば、かねてより気になっていた路地裏のカフェへの道順を思い出しながら午前を浪費した。
……迂闊だった。まさか店主が老齢で店が不定休だとは。
「まぁ仕方ないよね。こればっかりは予測できない事態だ」
「うぅ……ごめんよ……」
「君の落ち度じゃないさ。人生万塞翁が馬、ってね。上手くいかないことも楽しんでこそさ」
優しい、うちの同居人が優しすぎる。言葉の意味はよくわかんないけど多分慰めてくれてるんだと思う。惚れそう。
……コホン、気を取り直して美味しいごはん屋さんを探さなければ。
「じゃあ、何か食べたいものある?」
「うーん、特にないなぁ。強いて言うなら、やっぱりコーヒーは飲みたいね」
「確かに、私もコーヒー飲みたいかも……そのつもりで出てきたし」
「じゃ、適当に歩きながらカフェでも探そう。幸いこの辺りは老舗が多くあるそうだからね」
「ほぇー、詳しいね」
「前に気になって調べたことがあるんだよ。確か今から150年くらい前に──」
その後彼女は懇切丁寧にこの街とコーヒーの歴史について、解説してくれた。が、私のミジンコブレインは途中でエラー落ちしてしまったので、そのデータは一切残っていない。ごめん。
「でね、江戸時代には侍たちが薬代わりにコーヒーを飲んでいて、今でもそれを提供している店があったりとか……大丈夫かい?」
「ウン、ダイジョウブダヨー」
「……まあそういうことにしておこうか。あ、ここなんでどうだい? なかなか趣のある店じゃないか」
彼女が指し示した先には、古民家を改築したのであろうレトロな喫茶店があった。くすんだ木製の扉には「営業中」の札が下がっており、メニューの書かれた立て看板も設置されている。てかこの「本日のランチセット」はやばい。何がどうやばいかというと、メインが明太子パスタ、サラダ、冷製スープで、これだけでも豪華なのに、なんと食後に季節のフルーツケーキとブレンドコーヒーまでついてくる。おまけに価格もリーズナブルときた。実家の姑みたいに粗探ししても何ひとつ悪い所が見つからない。私の天才的ジーニアスブレインが導き出したところによると、ここでお昼を食べるのが最も良い選択だ。ちなみにこの間0.2秒である。
「てことで、ここにしよう!」
「なにがてことでなのか、文脈が掴めないんだけど」
「いーじゃないのそんなことは! さ、行こ行こ!」
先陣を切って、私は重そうな扉を開ける。カランカランと、心地よい音域の鈴の音が響いた。その音に反応して、店の奥から優しげなご年配が
「いや、あの子はご年配なんて言葉知らないか」
薄暗い部屋。キーボードを打つ手を止めれば、場を支配するのはエアコンの動作音とPCのファンの回転音のみである。事務イスに座ったまま身体を伸ばしてみると、そこに関節の鳴る音も加わった。
「うーん、可愛らしいおじいちゃん、とかかな……いやでもあの店主は可愛いって感じではなかったし、それにあの子、あれでいて目上の方にはしっかり敬意を払っている節があったから……」
バックスペースキーを長押しして書きかけの文章をまるっと削除し、
「それにしてもさ」
その音に反応して、店の奥から優しそうなおじいちゃんがやってくる。
「我ながら馬鹿らしい真似だよね」
言葉を紡ぎ直したところで、静かにエンターキーを叩く。
「まさか自分がこんなに未練がましい女だったなんて、夢にも思わなかったよ」
「わぁ〜、内装も素敵だ!」
「こんなものはあの子の贋作でしかない」
メニュー表を開けば、ランチセット以外にも魅力的な料理が沢山あり、つい浮気してしまいそうになる。
「いくら似せて創ったって、あの子じゃない。あの子そのものじゃない」
「ねぇねぇ、あなたは何頼む? 私最初はランチセットにしようと思ったんだけどさぁ、このナポリタンも、オムライスもどれも美味しそうすぎて……いっそ全部頼んじゃうか」
「あはは、君は結構な健啖家だけど、流石に後で後悔することになるんじゃないかな。また一緒に来よう。何度も通えば、いずれ全メニュー制覇も夢じゃないだろう?」
「確かに! やはりお主、天才じゃったか……」
「なのに私は、この手を止められない。書くのを辞められないんだ」
あの子がいて、私がいる。そんな当たり前の日常。
「本当に、底なしの馬鹿だ」
私はただ、そんな世界を憧憬していた。
「また一緒に来ようね! 約束!」