幸福の定義
微睡み。木漏れ日が射す草原で、鳥のさえずりを子守唄にうたた寝に耽る。それはどんなに心地よい時間だろうか。きっと何事にも勝る幸福に違いない。悩みも苦しみもない、何ものにも囚われない快楽に溺れながら、ここで、全てを忘れて、いつまでも眠っていたい──
【無私】
目を覚ました夏月は、自分が全く見覚えのない場所で眠っていたことに気がついた。背後には巨大な一本の樹木。見渡すと、ここは広場のような開けた場所のようだ。ただ、周辺は鬱蒼とした木々で囲まれており、その向こうがどうなっているのかはよく分からなかった。
とりあえずこの辺りを散策してみようと、夏月は立ち上がった。大樹の傍を離れると、枝葉によって遮られていた暖かな陽の光が惜しみなく夏月へ降り注ぎ、ほのかな熱と眩しさがもたらされる。
さて、まずはどこを目指そうかと夏月が思案していると、
「やぁ、随分と遅いお目覚めだったね」
突然、背後から声がした。
そこに居たのは二人の少女だった。先程まで巨木によってすっぽり覆われていたのだろう。夏月が木陰を抜け出るまで、その存在に気がつくことができなかった。どちらも制服を着ていたこと、またその背格好からして中学生ではないかと推測される。
「驚かせてしまってすまないね。私は六花。こっちは友人の小春だよ」
紹介されたもう一方の少女は、おずおずと会釈した。大人びた印象の六花と対照的に、小春は人見知りの子どものようだった。夏月もそれに応じる。
「アタシは夏月。守城夏月だ。会ったばかりのキミたちにこんなこと聞くのも何だが、ここが何処だか知らないか?」
挨拶もそこそこに、夏月は一番の疑問を口にした。
「ここかい? 見ての通りちょっとした公園だよ」
飄々と答えたのは六花だった。漠然とはぐらかされているような印象を受けた夏月だが、なんとなく、これ以上深く質問しても無駄なような気がした。
「夏月さん、だったかな。夏月さんはどうしてここに来たんだい?」
「……それが、よく覚えてないんだよ。さっきそこで目が覚めたんだけど、その前のことは全然記憶に無くてさ」
「……へぇ、珍しいね」
これまで掴みどころのなかった六花だが、夏月の返答に対してあからさまに目を輝かせた。それは年相応の可愛らしいものではなく、例えるならば猛禽類が獲物を見定めたときのような、鋭い瞳だった。
「だから夏月さんは、何も持っていないんだね」
「……? それはどういう……」
夏月は違和感と怪訝さのため背中に変な汗をかきながら、その言葉の真意を問おうとしたが、それは自ずから彼女の眼前に現れた。
六花がおもむろに右腕を上げると、呼応するように小春の左腕が持ち上がった。その過程において、シャラシャラと、鎖が擦れ合う音がする。
「手錠か……?」
どう見ても、この場に似つかわしくないそれに、夏月は無意識に声を漏らした。
「そう。見ての通り手錠だよ」
「……なんでそんなもんが……?」
「この公園にいる人たちは、みんなこういった『アイテム』を持っているんだ。どうやって入手したのか、何故こんなものが存在しているのかは私にも分かりかねるけれどね」
淡々と説明する六花。夏月は理解が追いつかなかった。心地よい日差しが、鳥のさえずりが、そよ風にゆらされた葉の音が、却ってこの場では異端であった。
「……」
言葉を発せない夏月を気にしているのかいないのか、六花の饒舌は留まるところを知らない。
「私が目覚めたときにはもうこの状態だったね。色々と試してみたけど、外すことは不可能と断言していいレベルだよ。鍵どころか鍵穴すら付いていないし、どんなに硬いものにぶつけても傷一つ付かないからね。でも別に困っている訳では無いんだ。むしろこの状況は受け入れている。察するにこの手錠は小春の『アイテム』のようだけど、小春は親友だから特段これといって不便は無いしね」
小春は六花の饒舌に付随して右往左往する右腕に振り回されていたが、抵抗するでも抗議するでもなく、なすがままであった。
「それに、私に与えられた『アイテム』はこれだったからね」
六花はポケットからゲーム機ほどの端末を取り出した。
「なんだと思う?」
久々に六花の目が夏月を向いた。夏月はここまで気圧されづくしであったが、その問いに答えるべく声を発した。
「……DSか?」
「残念。これは電子辞書だよ。しかもただの電子辞書じゃない。私のありとあらゆる疑問に的確に答えてくれる全能の辞書なのさ! 私は元々ひとつの事柄が気になってしまうとそれ以外が見えなくなってしまう質でね、我ながら難儀な性格だと思っていたけれど、これを手に入れて全てが良くなったんだ。私が検討、検証する間もなく迅速に解答をくれる。おかげで私は次の疑問へ即座に移れるって寸法さ。この公園はなんにもないけれど、全く退屈しないよ!」
おそらくこの少女は夏月が口を挟まない限り延々と話続けるのだろう。このまま聞き続けても、これ以上有益な情報が得られるとはお世辞にも思えない。それに六花は先刻、「この公園にいる人たち」と言っていた。つまり、この二人以外にもここには人がいるはずだ。そちらへ向かった方がより意義があるように思える。夏月は息継ぎのタイミングを見計らって、言葉を挟み込んだ。
「その『アイテム』? についてはよく分かったよ。教えてくれてありがとな。これ以上時間使わせるのも申し訳ないから、他の人にも話を聞いてみることにするよ」
「……そうかい? 別に遠慮する必要は無いのに。まあ確かに、幅広く意見を取り入れるというのは、重要なことではあるね。私の話ばかりでは、どうしても偏重になってしまう可能性は否めない。他の人の話を聞きたいのなら、遊具スペースへ向かってみるといい。あそこには古株が居るからね。私個人としてはあまり好ましい人物とは思えないけれど、この場所について、『アイテム』については誰よりも詳しいだろうさ」
「そうか、ならその古株に会ってみる。色々と助かったよ」
「いやいや、私も君のような興味深い人に会えて光栄だよ。暇だったらまた声を掛けておくれ」
六花はシャラシャラと、手錠のかかっている方の手を振ってくれている。呼応して小春の力無い腕も揺れる。相変わらずなすがままの小春だが、先程から一転、夏月を仇敵のように見つめていたのが印象的だった。
【悋気】
「……何してるんだ?」
夏月がこんな疑問を投げかけたのは、目の前にいる少女が明らかに奇異であったからだ。そこでは小春や六花よりさらに幼い、年齢で言えばおよそ十歳前後の少女が、その身に合わない巨大な望遠鏡を〝先端を地面に突き立てて〟覗いていた。古株というのは、まさかこの子のことだろうか。
「せんせーを見てるの」
にべもない返事が来る。どうやら詳しく話す気は無いらしい。
「……せんせーってのは?」
「あかりせんせー。あたしの一番大好きな人」
「……そ、そうか」
要領を得ない質問にやきもきしながらも、夏月はめげずに話しかける。
「アタシは夏月。さっきまでそこで眠ってたらしいんだけど、その前の記憶が無くて困ってるんだ」
「ふーん」
「……そ、それで六花って子から、ここについて詳しい人がいるって聞いたんだけど、キミ、知ってたりしないか……?」
「……さぁ?」
取り付く島もない。まずは少しでも関心を引かなくてはならなそうだ。
「……その、あかりせんせーって人は学校の先生か?」
「そうだよ。あたしのクラスの担任の先生。すっごく可愛いんだー」
少女は初めてこちらへ注意を向けてくれた。この路線で話を進めていくしかないと、夏月は質問を続ける。
「えっと、じゃあ、なんで望遠鏡を地面に?」
「決まってるじゃん。せんせーがこの先にいるからだよ」
事も無げに少女は言ってのけた。にわかには信じがたい、が、正直に言って、今経験している事象全ても同様に信じがたいのだ。これ以上どんなおかしなことが起こったって驚きはしないだろう。そう思うと、夏月は少々好奇心が湧いてきた。
「なぁ、良かったらアタシにもその望遠鏡見せてくれないか? そのあかりせんせーって人が見てみたいんだ」
「えー……? もし見てもせんせーのこと好きになったりしない?」
「しないしない! キミからせんせーを奪ったりしないって約束する」
ここまで一途に想われているとなると、教師の鑑のような人物なのだろう。ここまで慕われるあかりせんせーの人柄が、純粋に気になってしまった。
「うーんしょうがないな……ちょっとだけだよ! ほんとにちょっとだけだからね!」
そう言うと、少女はひょいっと顔を上げ、大きく背伸びした。その姿は年相応の、爛漫で愛らしい少女だった。
「ありがとう、えっと……」
「椿だよ。あたしの名前」
「そっか、ありがとう、椿ちゃん」
地面に突き立てられた望遠鏡を覗くには、少し前に屈まなくてはならない。椿は器用にこなしていたが、夏月には少し難しかった。身長を活かしてなんとかスコープを覗き込む。
映っていたのは、墓前に手を合わせる、かなりやつれた女性だった。髪や肌はかなり荒れていてまるで手入れがされていない。それほどまで一心不乱に彼女が手を合わせているのは、一体どんな人の墓なのだろうか。何気なくそちらを見やったとき、夏月は心臓が止まった錯覚に陥った。
──墓石の裏側には、間違いなく「春野椿 十歳」と、そう彫られていた。
「どう? すごく可愛いでしょ、あかりせんせー。こうやって毎日あたしのために来てくれるんだよ」
椿の上機嫌な声がする。
夏月は何も相槌を返せなかったが、椿は気にしていないようだ。
「せんせーは可愛いだけじゃなくてすっごく優しいからさ、すぐ色んな人を気にかけちゃうんだよ。ずーっとあたしだけ見てて欲しいのにさ」
椿の発する言葉は、確かに夏月の鼓膜を震わせているが、脳へするりと流れて来なかった。
「それで、いっぱいいっぱい考えたんだよ。どうやったらあたしのことだけ見ててくれるんだろうって。色々やってみたんだよ。わざといじめられてみたり、怪我してみたり、色々」
夏月は墓前で微動だにしない女性を眺めたまま、恍惚とした椿の独白を聞いていた。
「でもダメだった。途中までは良かったのに、やっぱりせんせーの心は他の場所に向いちゃう。でも、そうやって色々試していくうちに気づいたの! せんせーの心の中に引っ越しちゃえばいいんだって! そうすれば、せんせーの心がどこにあっても、あたしの方を見てくれるから! ……結局せんせーの心の中には行けなくてこんな場所に来ちゃったけど、でも今は満足してるんだよ。だってあたしはせんせーだけを見てて、せんせーはあたしだけを見てるから。結果オーライって感じ?」
……狂っている。この少女は、ひとりの人間からの関心を独占するためだけに、自らの全てを差し出せるというのか。自らの欲求を満たすためだけに、ひとりの人間の全てを奪えるというのか。
「……あはは、ごめんね。ちょっとお喋りしすぎちゃった。これじゃまるで六花ちゃんみたい。久しぶりにせんせーのこと他の人に話したからつい盛り上がっちゃった。……ねぇ、そろそろ変わってくれない?」
「……」
「……ねぇってば」
「……あっ、ごめんな。えっと、せんせーが素敵な人だからつい見入ってたよ」
慌てて望遠鏡から目を離し、一歩引いた。
「……ふーん、まぁいいや」
椿は怪訝な顔で夏月を暫く見つめた後、また器用に望遠鏡を覗き込む体勢をとった。
「あ、そうだ。多分六花ちゃんが言ってた人は篠崎さんのことだと思うよ。だいたいいつもこの先にいるから、行ってみたらいいんじゃない?」
出会ったときと同じ、望遠鏡に顔を押し付けたまま会話をする奇怪な状況だが、夏月はそれどころではなかった。聞きたくない、でも、聞かなくてはならない。
「椿ちゃんは、その……」
「なぁに?」
「亡くなったのか……?」
「……そうだけど?」
返事か遅れたのは、あまりにも当たり前の質問すぎて自分の耳を疑ったから、というように感じた。
「あたしだけじゃなくて、ここに居る人はみんなそうじゃん。六花ちゃんも、小春ちゃんもそうだし。お姉ちゃんは違うの?」
「……覚えて……ないんだ」
「あ、そういえば記憶喪失なんだっけ。まあでも、あたしがここで会った人はみんな死んでたし、多分お姉ちゃんもそうなんじゃないかな」
言葉が出ない。「あなたは死にました」と言われてすぐに「はいそうですか」と適応できる人がどれだけいるだろうか。
「……とりあえず篠崎さんの所に行ってみたら? あたしは案内してあげられないけど、そんな遠くには居ないはずだから。いつもならジャングルジムの辺り」
「……ああ、そうするよ……ありがとう」
全身を使って言葉を絞り出し、二人から推薦された篠崎なる人物を探すことにした。
***
ここは天国か、あるいは地獄か。いずれにしても、ここにいるのは死人ばかりだ。つまりそんな場所に居る自分は? 夏月の逡巡は尽きない。胸に手を当て、深く息を吸って、吐く。確かに生きているという実感はある。肺に溜めこんだ空気を再び大気へ返還する、という生者のみに許された行為を、自分は間違いなく行うことができている。胸元に置いた手が、本来あるはずの拍動を一切感じ取らないことに関しては、気が付かなかったことにした。
【愚昧】
歩みを進めていくと、視界の端々に遊具が映り込むようになった。ブランコ、砂場、滑り台、シーソー。奥まったところにはジャングルジムもある。どうやら目的地に到着したようだが、一帯に人影はない。
「篠崎って人が居るの、ここだよな……?」
「私に何か御用でしょうか?」
「うおっ!?」
死角から声をかけられた夏月は、咄嗟のことに驚いて思わず飛び退いてしまった。
「おや、失礼いたしました。驚かせるつもりはなかったのですが……もし貴方が篠崎をお探しになっていたのであれば、それは私のことでございます」
「ああ……アナタが篠崎、さんか」
自らを篠崎、と称したのは妙齢の女性だった。黒いスーツ、黒いネクタイ、後ろで結われた長髪も磨かれたように艶やかな黒である。どこまでも黒、という印象を受ける人物だ。そして、この場所に来て初めて出会った大人でもある。
「はい、改めまして篠崎と申します。どうやら今は私が年長者のようですので、僭越ながらこの広場一帯で管理者の真似事をさせていただいております」
「アタシは守城夏月です。目が覚めたら何故かここに居て、その前の記憶が一切ないんです。だから色んな人に話を聞いて回ってて、そしたら、アナタに話を聞くといいって」
「そうだったのですね。詳しくお話を伺っても?」
夏月は目覚めてからここまでにあった出来事を委細話した。
***
「────ふむ、事情はおおよそお察ししました。それでは、まず夏月様が最も知りたいであろうことをお教えいたしましょう」
篠崎は一貫して微笑を崩さない。それなのに、明らかに空気が変わった。
「半端に希望を与えないようはっきり申し上げますが、ここにいらっしゃる方々は例外無く、既に亡くなられています。私も、貴方も」
「ん……そうか……椿ちゃんに続いてここまでハッキリ言われちゃ、もう否定も拒絶もできないですね……」
胸が手に鼓動を与えてこなかったのも、案の定錯覚ではなかった。
「ええ、食事も、呼吸も、運動も、ここでは必要ありません。何せそれらは全て亡者には必要のない行為ですから」
夏月の考えていることを察したのだろう。そのような補足を篠崎はしてくれた。
「ただ、本来死者はこのような場所に留まることはありません。大多数は天国や極楽浄土といった、それぞれが望み、信じてきた世界へ流れていくようです」
篠崎の言は一聴して荒唐無稽だが、それを否定する明確な材料のない夏月には、賛同し聴講生となるより他の選択肢はない。
「つまりアタシたちはその大多数に含まれない例外ってことですよね」
「ええ、そうなります」
「じゃあなんでアタシたちは天国へ行けなかったんですか……?」
ここまでの前提から夏月がこのような疑問を抱くのは至極当然だろう。その問いにも篠崎は淀みなく回答を述べる。
「こちらへ来る少数派の方々は、〝何かに強い未練や執着を残し亡くなった方〟という点で共通しております」
「未練……執着……ですか」
「ここに来るまでに小春様、六花様、椿様にお会いになったのでしょう。なんとなく思い当たりませんか」
夏月は、ここへ至るまでに出会った彼女たちを思い出す。確かに、あの姿は、未練、執着といった言葉がよく似合うように思われた。
「そうですね、納得です。つまりアタシも、覚えてないだけであの子たちみたいに未練とか執着を残して死んだってことですかね」
「ええ。ただ、一口に未練、執着と申しましてもその形態は多様です。後悔、恋情、依存、怨嗟、殺意。性質も対象も皆様一様に異なります。もちろん、皆様それぞれに事情がございますから」
「まぁ、それはそうでしょうけど……でもいまいちピンと来ないんだよなぁ」
「すぐに思い出せなくともお気に病まれる必要はございませんよ。記憶というものは、得てして不意に蘇るものです。ここは時の流れがゆっくりですから、気長に生活しながらのんびり待ってみる、というのも手段のひとつですよ」
「そういうものですかね……」
それでいいのだろうかと頭を傾ける夏月を見かねて、篠崎は別の話題を持ち出した。
「では、気分転換も兼ねて夏月様がもうひとつお気になさっていた『アイテム』についてお話しましょう。広場の皆様は、初めから特殊な道具を持ってここへいらっしゃいます。私共はそういった特殊な道具を『アイテム』と呼称しております。また『アイテム』はその方の未練と深く連関し、その解消を図るための一助となるもの。蓋し重要な鍵となるやも知れません」
「……でも、アタシそんなもの持ってないんですよ。目が覚めたときに辺り一面見て回ったけど、それっぽいものは全然……」
「おや? ではお持ちになっているそれは違うのですか?」
篠崎は不思議そうな顔をしており、その視線は夏月の右手に集中している。それを追って右手を見てみると、いつの間にか竹製の棒が握られていた。その先端には細く切られた布が数枚貼り付けられている。
「ん? こんなもんいつから……」
「少なくとも私が知る限りでは、最初からお持ちになっていましたよ」
「……マジですか……まぁもう大抵のことじゃ驚かないけどさ……」
「現世の理が届かない場所ですから。こういったことも起こり得ますよ」
篠崎は苦笑しつつも、その『アイテム』らしきものに目をやる。
「これは、はたき、ですね。何か心当たりは?」
そう問われて夏月は思案してみるが、記憶の何処にも引っかからない。記憶に鍵がかかっているというよりは、その部分だけすっぽり抜け落ちているのである。必要なのは宝箱を開ける鍵ではなく、宝箱そのもの、もしくは宝の地図だ。
「……全然」
「左様でございますか……でしたら、申し訳ありませんが私がお手伝いできるのはここまでのようです。お恥ずかしながら、私が差し出せるものといったら知識、所見、アドバイスといった所詮間接的な道具に過ぎませんから。六花様、椿様に推薦していただいておきながらこのような体たらくで、誠にお恥ずかしい限りです」
「いやいや、篠崎さんは悪くないんだから謝ることないですよ! 篠崎さんの話めちゃくちゃためになったし、色々と考えるきっかけも貰いましたから!」
いきなり大仰な態度で頭を下げられてしまった夏月は、弱りながらそれを否定した。
「そう仰っていただけると、心が軽くなります……」
しばらく俯いていた後、篠崎は続けて言った。
「これはただの勘ですが、貴方が目が覚めた場所、大樹の側は、ここと現世との境界が最も希薄です。もしかしたら何かのきっかけになるやもしれません」
再び篠崎は微笑む。今度は先程とは違って温かさを感じる笑顔だった。
「大樹か……行くあても目的もないし、とりあえず見に行ってみます」
夏月は微笑をたたえた篠崎に会釈し、踵を返したときに、
「あ、そういえば」
ふと気になった。
「篠崎さんの『アイテム』ってどういう感じなんですか? なんとなく気になって……」
これまでの三人とは違って、篠崎は明確にそれらしきものを持っていた訳ではなかった。故に純粋に気になったのだ。
「……」
篠崎の表情筋が微笑のまま凍りついたのが傍目でも分かった。
「篠崎さん……?」
「できればそれは内緒にさせてください……」
これまでの大人びた雰囲気とは一転、篠崎は頬を染めて俯いてしまった。
***
「言えるわけない……! あれだけ偉そうに講釈垂れといて私の執着が誰よりも子どもっぽいことも、よりにもよって『アイテム』がアレなことも、言えるわけないって……!」
【夢境】
自分の死は、実感はなくとも、事実として認識できた。
そして、この場所のことも『アイテム』のことも、おおよそは理解した。足りないものは、なぜ自分がここへ来たのか、という自身の記憶のみである。夏月は右手に持ったはたきを眺めながら頭を捻るが、箸にも棒にもかからない。
「生前は掃除を生きがいにしてた、とか。いや、そんな気もするし、そうじゃない気もする……」
夏月は深海を孤独に遊泳するような気分で考え続けたが、有益な結果は得られず、とうとう目覚めた場所、すなわち大樹のもとへ到達してしまった。
大樹は変わらず一帯を見下ろすように聳えている。枝葉、木漏れ日まで一切の変化なく、夏月が目覚めたときと全く同じ様相でこの世界の中心に鎮座していた。
「ん? こんな溝あったっけ」
何気なく視線を下げると、何十にも複雑に絡まった太い根の中に、一部隙間が空いて洞のようになっている箇所があった。手を入れるには細すぎるが、覗くくらいなら差支えのなさそうなサイズである。
「よいしょっ、と」
片目を瞑り僅かな隙間を覗き込む。すると、奥の方に何か光るものがあることに気がついた。
「うーん、腕は入りそうもないしな……あ」
あるではないか。腕より細く、かつそこそこの長さの棒が。夏月は己が生み出した妙案を、早速実行に移した。
「お、ギリギリ入った。よしよし、なんとか届きそうだな」
細長い棒、換言すればはたきの柄の部分が洞の奥へと潜っていく。やがて目的地へ到達したのか、夏月の手に突き返すような感触が返ってきた。
〝カチッ〟
「……カチ?」
夏月が底だと思っていたものはさらに奥へと沈み、同時に小気味よいクリック音が鳴った。
それは、夏月が何らかのスイッチを押してしまったのだと気づいたのと同じタイミングである。大樹が、鯨のように大きく口を開き、夏月を飲み込んだのだ。夏月は悲鳴すら発せなかった。住民たちはそれぞれの執着に夢中であり、当然知る由もなかった。大樹自身ですら、何事も無かったかのように変わらず聳えている。従って、夏月はこの世界になんら影響を与えることなく、大樹の中へと消えていった。
微睡み。
──ねぇ、一緒に本屋へ行かないかい? 昔からある店なんだけど、品揃えがとても面白いんだ
──えー、本屋? アタシが行っても退屈するだけだって
──そう言わずにさ。君が本嫌いなのは、読むことが苦手なんじゃなくて、単純に良い本に出会えてないだけだと思うんだよ
──そーゆーもんかなぁ。ま、アンタからの頼みなんて珍しいし、暇だから付き合ってあげましょーかね
〝ノイズ〟
──じゃあ、色々見て回ってくるから、君も好きに散策するといいよ
──そうは言ったってなぁ……ん? このタイトル、どっかで聞いたことあるな……ちょっと読んでみるか
〝ノイズ〟
──お待たせ、って随分と夢中だね……それ、『スタンド・バイ・ミー』かい?
──ん、あぁお帰り。いやー、読んでみたら思いの外面白くてさ
──そうだろう、それは世界的な名著だからね。あ、でも立ち読みは程々にしておかないと……
──コラそこのガキども! いつまで読んでんだ! 冷やかしならさっさと出ていきな!
──うぇ!?
──ほら来た。さ、今日は潮時だ、逃げるよ!
〝ノイズ〟
──君がそんなに落ち込むことないじゃないか
──だって……かなり進行してたんだろ? 手術の成功率は絶望的だって……
──それはその通りだけど
──なんでそんな飄々としてられるんだ!? 死ぬかもしれないんだぞ!
──正直に言うと、死ぬのはあんまり怖くないんだよ。だって、君に出会えたんだから
──え……?
──一緒におしゃべりしたり、本屋で馬鹿やったり、寂れた喫茶店で苦いだけのコーヒーを飲んだり。こうやって君と一緒に過ごせて、もう人生に何も未練はないからさ
──は、はは。そっか。アンタ、強くて凄いな。治療の辛さも、手術の恐怖も絶対にしんどいはずなのに、それでもアタシのためにそんなふうに言ってくれるなんてな
──……そうかな
──よし! アタシも泣くのは辞めだ! アンタが弱音一つ言わずに頑張っているのに、アタシだけがめそめそ泣くわけにはいかないからな
──……君も、ちゃんと強いと思うよ
〝ノイズ〟
──目、覚めたのか!
──ん……
──あぁ、本当に良かった! あ、今はまだ無理するなよ。また改めて見舞い来るからさ。今日は顔を見に来ただけなんだ
──……生きてる
──うん、アンタはちゃんと生きてるよ! 元気になったら、また一緒に馬鹿やろうな!
──……
──じゃあ、お大事に!
〝ノイズ〟
──いやー、成功して本当に良かった。アタシがどんなに心細かったか! アイツが退院したらやりたいこと色々と考えないとな。あぁ、元気になってくれて本当に……
〝ノイズ〟
──即死だったそうよ
──えぇ、お気の毒にね。まだ若かったのに
──トラックの居眠り運転ですってね
─あそこでずっと泣いてる子はお友達かしら。本当に可哀想に……
〝ノイズ〟
──また癌の転移が見つかったんだ。もう手を合わせには来られないかも。あ、もしかしたら次は直接会えるかも、なんてね。君はあんまり自分の話をしてくれなかったから、ジュースとかお菓子とか、主観と偏見で選んで買っていたけど、今度答え合わせしてよ。他にも話し損ねたこと、聞き損ねたこと、沢山あるからさ。苦いコーヒーでも飲みながら、ゆっくり話そう。それじゃあ、また今度ね
〝ノイズ〟
【義侠】
意識が浮上する。短い夢だった。守城夏月の生涯、そして常に傍らにいた大切な友人。夏月は全てを思い出した。そして、理解した。自分自身の執着を。自分自身の未練を。いつの間にか夏月の首にはエプロンがかかっており、胸元にはゴシック体で「守城書店」と刺繍が施されている。見渡すと一面に棚が設置され、所狭しと本が並んでいる。形や大きさは様々だが、背表紙には全て『スタンド・バイ・ミー』と書かれていた。右手には愛用のはたき。この空間を清潔に保つため、そしてもうひとつの重要な仕事のために必須のアイテムである。
ガチャっとドアの開く音がする。ワンテンポ遅れてひとりの少女が入ってきた。
「いらっしゃいませー」
夏月はまるで今まで何度も行ってきたかのように流暢に挨拶をする。
「……は? もしかして夏月かい……?」
お客様は驚いたように尋ねる。
「ええ、そうですが」
「……もしかして、迎えに来てくれたのかい?」
「いいえ、アタシはしがない一書店員ですから。それよりお客様は本を買いに来たのでしょうか?」
「何をふざけているんだい夏月……? あ、分かった。新手の冗談だろう。君のセンスも衰えたものだね。そんなことよりさ、君には色々言いたいことがあるんだよ……!」
「お客様じゃないなら……つまり、冷やかしってことだよな!」
「夏月……? 何を言って……」
「冷やかしならさっさと帰りな! ここはアンタの来るところじゃないよ!」
夏月は右手に携えた武器を振り回しながら、冷やかし客に迫る。はたきはもうひとつの務めが果たせたことが喜ばしいかのように踊り狂っていた。すると、冷やかし客の少女はくるりと踵を返して店外へ走り去っていく。
「どうして……!? 身体が勝手に……!」
抵抗しているようだが、それによって事態が好転、いや悪転することはなさそうだ。
「ありがとうございましたー!」
夏月は決まり文句を告げる。
「待って、夏月! まだ話が……!」
「あ、そうだ」
夏月はひとつ伝えたいことがあったのを思い出した。守城書店員ではなく、友人守城夏月として。
「アタシはポテチとコーラが好きだから、次からはそれでよろしく! じゃ、もうしばらく来るなよ、沙優!」
【厭世】
全く、君は本当に人の話を聞かないよね。いつもそうやって僕の望まないことばかりする。だから、僕も君の望みを聞かないことにした。はいこれ、ショートケーキと紅茶。ちゃんと味わっておくれよ。結構並んで買ったんだからさ。
それで、今日はあのとき言えなかったことを言いに来たんだよ。色々と言いたいことはあったけど、どうせ君は聞いてくれないだろうし、一番大切なことだけ、端的に言うよ。
君の幸福の定義を僕に当てはめるなよ。僕の幸福は僕自身が決める。
看取らせ甲斐のある人も居ない、最大の友人も居ないこんな世界で生き続けることは、僕にとっては最大の不幸だ。それでも僕に生きるよう押し付けてくるんだったら、それは君の傲慢でしかない。僕が生き続けることは君の幸福であり僕の幸福ではないんだよ。
つまり何が言いたいかと言うとさ、僕は、僕のために幸福になることにしたよ。君がどんなに不幸になろうと、ね。
「……話は済んだかしら?」
はい、もういいです。残りは直接会ってからの楽しみに取っておくつもりなので。
「……そ。あ、そうだ」
どうかしましたか?
「もし向こうに篠崎って女がいたらよろしく伝えといて。わたしがそっちにいったら一発ぶん殴るから覚悟しておけ、ってね」
……分かりました、もし会えたら伝えますね。不破さん、こっちはいつでも大丈夫なので、手早くお願いします。
「はいはい、急がないの。さ、腕出しなさい。それにしても、わざわざ墓前を選ぶなんてよっぽどよね」
……彼女にはこれくらいしないと効かないだろうなと思って。
「……身勝手な友人を持つと大変ね。それじゃ、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
はい、今までお世話になりました。さぁ、思い知らせてあげるよ、夏月。真のわがままはどっちか、ってね……