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花堕つること

 無機質な階段を駆け上がる。息が上がるのを気にしている余裕はなかった。四階にたどり着く。清潔なはずの白い壁、消毒液の匂い。平時であれば安寧や平穏を象徴するはずのそれらは、今はただ無感情にあかりを見つめるだけである。杖をついて地面を擦るように歩く老人、点滴の付いたスタンドを転がして部屋から出ようとしている青年。代わり映えしない当たり前の世界の中にあって、彼女だけが異質だった。

 そんな平穏を掻き分けて進み、やがて目的の部屋の前にたどり着いた。深く息を吸って、吐く。次第に呼吸は整っていったが、それに反して心拍は加速していく一方だ。あかりは早鐘を打ち続ける鼓動は無視することにして、扉に手をかけた。念のため壁に掛かったプレートの名前と番号を確認する。


「0413 春野椿」


 間違いは無い。間違いであって欲しいという微かな期待も潰えた。それでもあかりは二度、三度とプレートを確認し必死の抵抗を試みる。その行為が全く無駄であることは、本人が一番自覚しているが、だからといって諦めてはいけないような気がしていた。


「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」

「0413 春野椿」


 九度目を迎えたあたりで、やっと現実を受け入れる決心がついた。なんだかずいぶんと長い時間こうしていたような気がするのに、触れっぱなしだった金属の取っ手は、それほど温くなっていない。あかりにとっては、ここだけ時間の流れが止まってしまったかのようであった。また、平穏な日常と信じがたい非日常とを隔てるこの扉は、まるで地獄への扉のように感ぜられた。

 そのような悠久とも思えた逡巡の後、あかりはその地獄の扉をゆっくりと横に引いた。重厚な見た目に反して、扉は存外簡単に横に流れていった。あかりはそのことに拍子抜けしながらも、確かな足取りで部屋の奥を目指す。門扉は開かれたのだ。もはやためらう理由は微塵もない。鼓動は変わらずうるさく鳴いていたが、息はすっかり整っていた。

 門から目的地は直ぐだった。その部屋の主はベッドに腰掛け、窓の外を眺めている。頭や足などには痛々しく包帯が巻かれているが、思っていたよりは元気そうだ。やがて背後の気配に気付いてこちらを振り向き、花の様な笑みを浮かべた。


「あ! あかりせんせー! 来てくれたんだ!」


 ❀❀❀❀❀


「糸原先生! 椿ちゃんが……」


 あかりは職員室でサンドイッチを片手に、理科のテストの採点をしていた。日常の崩壊というものは、大抵何の予兆も無く発生するものである。今回も例外では無かった。初めて赴任した小学校、そして初めて受け持ったクラス。当時三年生だった彼ら彼女らも五年生となり、来年にはもう卒業だと、喜びと寂寥が入り交じっていた、そんな春である。職員室に駆け込み、形式的な挨拶も忘れ、蒼白な顔で担任を呼んだ教え子によって、あかりの日常は終わった。

 それからのことはほとんど覚えていない。記憶の片隅にあるのは、微動だにせず担架で運ばれていく椿の姿と、椿の身を案じる五年三組の教え子達だけだった。そんなわずかな記憶も、その後の警察への対応や保護者への連絡等で、かなり曖昧なものになってしまった。

 口さがない者達は好き勝手なことを言ってきた。クラス内でいじめが横行していたのでは無いかと。その頃まで、あかりは教え子達のことを誰よりもよく見ていると自負していた。だからそんな噂に対して真っ向から立ち向かった。私のクラスにそんなことをする子は一人も居ないと。教え子達を疑うことさえ嫌だった。だが何か証拠を示さなければ、世間の疑いの目は消えない。当事者である椿はまだ目を覚まさないため、昼休み、現場に居合わせたとされた数名を個別に呼んで、話を聞いた。


 ❀❀❀❀


「それで、窓から飛び降りて死ねって言われて……それであたし……思わず……」


 足下がガラガラと崩れていく感覚だった。椿は身を捩りながら必死の様相で独白を続ける。


「もともとは、あたしがあかりせんせーとずっと一緒にいたのがいやだったみたいなの」


 クラスを受け持ってすぐの春、ひとりだけクラスの輪に馴染めていなかった児童がいた。それが椿だった。あかりはなるべく彼女を気にかけ、声をかけるようにした。実際話してみると、彼女はとても素敵な女の子で、どうしてクラスに溶け込めていないのか分からないレベルであった。あかり自身も椿と話をするのがだんだんと楽しくなってきて、なんとなく他の児童より贔屓に扱っている自覚があった。だが、だからといって、それが直接いじめの原因となろうとは。


「でも、みんなはいじめなんてなかったって……」


 実際、話を聞いた子供たちは口をそろえていじめを否定している。


「あかりせんせーは、あたしのこと信じてくれないの?」

「別にそういうわけじゃ……わかった、もう少し調べてみるわ」


 あかりは身が張り裂けそうだった。二年間、子供たちを見てきたという自負に、亀裂が入っている。完全に崩れ去ってしまう前に修復しなくては、もう二度と元に戻れないかも知れない。あかりは挨拶もそこそこに病室を後にした。コンクリートの駐車場まで出てきてから病棟を見上げてみると、窓の一つに、椿の顔が見えた。


 ❀❀❀


 あれから連日、学校には立ち入り調査が入っている。すべての始まりは、あの日現場にいた子たち以外にもひとりひとり話を聞いていったことだ。


「糸原先生。私は見ました。椿ちゃんはいじめられていました」


 そう告げたのは、あの日あかりの日常を破壊した児童。皮肉なことにあかりは、二度この子に無自覚の刃を振るわれたことになる。二度目の刃によって、あかりの自負はバラバラに切り刻まれた。自分が二年間見てきたものは、してきたことは、何だったのか。目眩を覚えた。もし座って話をしていなければ、そのまま倒れてしまっていたかもしれない。


「ごめんなさい。口止めされてて、怖くて言えなかったの」


 その先は相槌を打つので精一杯だった。自習室をどうにか脱出したあかりは、震えた足で職員室へ向かい、主任に事の顛末をどうにか伝えた。

 そこからは非常にスムーズだった。最初あかりの前ではいじめを否定していた子供たちも、生活指導教員との長い面談の末、真実を吐いた。あかりの前では絶対に認めなかった彼女たちが、あっさりといじめを認めた。そのこともあかりを苦しめる一要因となった。

 双方の証言が取れたことで、学校は正式にいじめの事実を公表、各保護者の家へ説明に行き、加害者となった三人の児童、クラスの他の児童への指導、その他各種報告、手続きと、目まぐるしく時が流れた。その間は担任であるあかりも右へ左へと奔走し、忙しなく働くことで、もはや欠片ほども残ってない教育者としての矜恃を維持していた。

 それでも精神は摩耗していく。三者面談では穏やかに言葉を交わしていた保護者からの罵声、どうしても通常業務を終わらせられなかった際に、協力してもらった先輩教員からの慰めと励ましの言葉、ベッドに入り目を瞑った後、頭に流れ込んで来る自虐。それらはあかりを苛み続け、あかりは日に日にやつれていった。


 ❀❀


 昨今の情勢のせいで、椿への見舞いに行けたのはあの一回きりであった。次に予約が取れたのは、一ヶ月後、葉桜が茂り始めた季節である。あかりは担任として、いじめ被害者である椿の心のケアをしなくてはならない。前回と異なり、今回は落ち着いた足取りで硬いコンクリートを踏み締め院内へ向かった。ただし心拍は前回以上に早かった。ここに近づいてはいけないと身体が訴えているようだった。

 春の陽気が心地よい。昨晩の雨が汚れをすべて洗い流してしまったからだろうか。院内は変わらず平穏であった。ここには子供たちから向けられるような心配の目も、同僚たちの憐れみの目も、近所、親戚、その他顔の見えない人たちからの侮蔑の目も無い。誰もあかりを見ていない。あかりは再び自分が日常に立ち戻れたかのような錯覚に陥った。そしてそれは、あかりが今最も欲しているものだった。どういう訳か、鼓動は警鐘を鳴らすように胸を乱打していたが。


「0413 春野椿」


 ここも一ヶ月前と何も変わりない。四階の、病院の正面側にある部屋。ただひとつ大きく異なるのが、あかりだ。前回異物であった彼女も、今日は単なる見舞いに訪れた訪問客に過ぎない。軽く扉をノックすると、


「はぁい、今出ますよー」


 間延びした声がする。あれほど開くのに勇気が必要だった門扉は、今回は向こうから開いた。


「あかりせんせーだ! ひさしぶりだね」


 椿は松葉杖を抱えて扉の先から現われた。包帯やギプスは相変わらずだったが、振る舞いや表情は以前より明るく、快方に向かっているのだろうとよく分かる。


「まぁまぁ、何も無い退屈な場所だけど、ゆっくりしてってよ」


 椿に促されて、ベッド横に置いてあった椅子に腰かける。警鐘は鳴り止んだ。どうやらあかりの杞憂だったようだ。それからしばらく、椿との歓談に耽った。


 ❀


(いけない、本来の目的を忘れるところだった)


 驚くことに、あかりは自分が教師であることさえ忘失しかけていた。あかりの仕事は椿の心のケアである。いじめ被害者である椿は表には出していなくても、きっとその内面に深い傷を抱えているはずだ。自分がいかに精神的に参っていようが関係ない。


「椿ちゃん。あの……」

「せんせー、ごめんね。あたし、勝手なことしてせんせーにいっぱい迷惑かけちゃった」


 椿はあかりの言葉を遮って吐き出すように語る。


「……そんなことないわ。誰も迷惑だなんて思ってない。あなたは何も悪くないのよ」


 やっぱり椿は努めて明るく振る舞っていたのだろう。一度堰を切ってからは止まらなかった。


「せんせー明らかに疲れてるじゃん! 前会ってから一ヶ月しか経ってないのに目の下真っ黒だし、めっちゃ痩せてるし……」


 ……全然気付かなかった。自分の見た目はそこまでひどいことになっていたのか。あかりは自分自身が椿に不安を与えてしまっていることを恥じた。


「子供たちのために頑張るのが先生の仕事だもの。むしろ今まであなたがこんなに苦しんでいたことに気付いてあげられなくてごめんなさい」


 最近はほとんど消えかかっていた矜恃を最大限に活用して、「教育者」として正解の答えを示す。


「あかりせんせー……」

「何?」

「……ありがとう」


 椿は笑った。それは、最初に見せていた空元気の笑顔とは明らかに異なるものだった。


「せんせーにはずっと感謝してるの。クラスに馴染めなかったあたしのことをずっと気にかけてくれてるし、こんな自分勝手なあたしのためにたくさん頑張ってくれて」


 椿はあかりに向き合うように姿勢を変える。背後の窓から差す陽光が、あかりの目の前に影を作った。


「本当に、ありがとう」


 あかりは自分の目頭が熱くなっていることを自覚する。でも、そんなことはどうでも良かった。初めて、感謝された。ずっと見下した視線ばかりを浴び続けて辟易していたが、椿はこんなに真っ向から、対等な目線からあかりを見てくれた。それが今のあかりにはたまらなく嬉しかった。


「……お礼を言わなきゃいけないのは、私の方ね。あなたを元気づけようと思ったのに、私が元気になってしまったわ」


 みるみる力が湧いてくるようだった。あんなに怖くて辛かった環境に、今なら再び立ち向かえる、そう思った。


「こちらこそありがとう、椿ちゃん」

「えへへー。あたし、あかりせんせーに感謝されちゃった」

 それからは再び和やかな歓談に戻った。ただし、先ほどより、雰囲気は明るかったように思えた。




 カラスが鳴き始めた。ふと我に返ったあかりはかなり時が経っていたのだと気付く。楽しそうに話す椿の影もすっかり伸びきってしまった。ちょうど雑談に一区切りが付いたので、


「じゃあ、私はそろそろ帰るわ」

「えー、せんせーもう行っちゃうの?」

「もう日も暮れてしまうしね。お見舞いにはまた来るから」

「そっかー。なら仕方ないね」


 あかり自身も、正直かなり名残惜しく感じていた。それでもさすがにいつまでも居るわけにもいかない。椅子から立ち上がり扉の前へ歩く。初めて訪れたときは地獄のように思えていたこの場所は、いざ入ってみたら素晴らしい天国だった。今ではここから出ることを惜しむほどである。


「あかりせんせー!」


 ベッドに座ったままの椿があかりの名前を呼ぶ。一度扉に背を向けて声のする方を見た。


「…………」


 そのとき椿が何と言ったのか、あかりには聞き取ることが出来なかった。聞き返すのも何だかな、と思い曖昧に微笑んで手を振った。そうしたら、向こうも大きく手を振り返してくれた。何と言おうとしたのかは次の機会に聞けば良いか、そう考えて部屋の外に出た。完全に扉が閉まりきるその瞬間まで、椿はこちらに手を振っていた。

 エレベーターで一階まで降りてきたあかりは、足早に出口の自動ドアを目指した。すっかり話し込んでしまった。これでは自分は教師失格だろう、などと考えながら、しかし気分は非常に爽やかだった。自動ドアは年季が入っているのか、なかなかあかりを認識せず、腕を上に伸ばして手を振ったりしているうちにようやく反応して開いた。初めてこの病院を訪れたときは、なかなか開かないことをもどかしく感じていたことなどを思い出す。外に出て駐車場の中を歩く。そういえばエンジンをかけ忘れていた。少し歩いたところで立ち止まり、鞄を漁って車の鍵を探す。


(あれ? おかしいわね、どこにやったかしら)


 しばらく探して、化粧ポーチの中から鍵が出てきた。全く覚えの無い所から見つかったことに苦笑してしまった。そして、


(あしたからまた頑張りましょう。椿ちゃんのために)


 エンジンをかけるためにボタンを押した、その直後、






 ぱちん






 背後で水風船の弾けたような音がした。

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