第九集:心
「遅くなってごめんなさいね、朱草」
禪貴妃と会えたのは、昼を少し過ぎてからだった。
「いえいえ。棠梨様とたくさんお話しできたので、有意義な時間を過ごすことが出来ました」
背負っていた百味箪笥を降ろし、すすめられた座布団に座った。
「そうそう。息子の体調管理までしてくれて、本当に助かっているわ。何かお礼を……」
「それには及びません。ただ、棠梨様の提案で、行商人との商談に参加させていただけることになりそうです」
「それは素敵! 朱草がいたら良い戦いができそうだわ」
少女のように頬を染めながら、禪貴妃は微笑んだ。
「え……、た、戦い、ですか?」
「値段交渉よ」
禪貴妃は腕に力を入れて拳を前に突き出した。
「貴金属や反物の価値ならばはっきりとわかるのだけれど、薬草となると……。太医は今回参加出来ないし、困っていたのよ。薬効の説明も難しくて……。そうよね、朱草に頼んでしまえばよかったんだわ。あ、でも、それではご褒美にならないわよね」
「最高の褒美ですよ、貴妃様。ふふふ」
「それならよかったわ。素采先生もお忙しそうだし。いっぱい買ってちょうだいね」
「はい! お任せください!」
現在、素采は軍医の実地演習に同行している。
一週間ほど帰ってこないらしい。
寂しいと言えば寂しいが、口説かれず穏やかな時間を過ごせると思うと、とても清々しい気分だ。
「本日はどのようなお仕事がありますでしょうか」
「ちょっと耳を」
禪貴妃に手招きされ、いそいそと近づき、耳をその艶めかしい口元へ寄せた。
「どうやら、淑妃の侍女の中に不穏分子がいるようなの」
朱草は驚き、禪貴妃の口から耳を離して「どういうことなのでしょうか」と小声でたずねた。
「それがね、いつも飲んでいるお茶の味が少し変だったり、お気に入りの点心の食感がおかしかったりするのだそうよ。ほら、妊娠すると味覚が変わったりするじゃない? 最初はそれなのかと淑妃も思ったそうなの。でも、そうじゃない確証があるようなのよ。あまり詳しく聞く時間が無くて……。心配だから、淑妃のところへ行ってきてくれる?」
「わかりました。淑妃様と、そのお腹の子を護ってまいります」
「頼んだわ」
朱草は包拳礼をすると、すぐに悠禪宮を後にした。
淑妃の宮はそう遠くはない。
小型の百味箪笥を背負っていても、大丈夫だろう。
太監の誘導に従い、後宮内を歩いて行く。
「あの、朱草殿」
太監が立ち止まり、小さな声で話しかけてきた。
「なんでしょう?」
太監は言いにくそうな、とても辛そうな顔をして、ポツリとつぶやくように言った。
「お気を付けください。貴妃様の類稀なる優雅な御人格と、皇后陛下ののんびりとした気質のおかげで、表向き、後宮の秩序は保たれております。ですが……。内側はあまりに醜く、血のにおいが絶えません。朱草殿、どうか、どうか、忍び寄る悪意にその身を傷つけられぬよう、用心してくださいませ」
背筋に冷たいものが流れた。
あの時、汪妃も言っていた。
――あなたがどんな理想を持って後宮に来たのか知らないけれど、これからもっと見ることになるわよ。醜悪な女の意地をね。
太監は前を向くと、再び歩き出した。
何事もなかったように。
数分なのに、やけに長く感じられた道中。
淑妃が住まう宮にたどり着いた。
「では、私はこれで」
太監は朱草の到着を侍女に告げると、すぐに立ち去ってしまった。
「まぁ、可愛い宮正さんね。たしか、朱草だったわよね?」
「はい。よろしくお願いいたします」
「案内するわ」
靴を脱ぎ、中へと通された朱草は、さっそく違和感を覚えた。
(薫香に何か混ぜられているのかな)
喉にわずかな痛み。
(これじゃぁ、喉が渇いたと錯覚して余計に水分を摂ってしまう可能性がある。もし毒が混ぜられたお茶を飲まされているとすれば、危険だ)
弱い毒ならば、常人には「ちょっと胃の調子が悪いかも?」くらいで済んでも、妊婦ではそうはいかない。
(疑われないために自分も同じお茶を飲んでいるのか。それなら、この薫香も納得できる。最低だ)
淑妃ともなれば、仕えている侍女の数は相当数いる。
そこから犯人を絞るのはかなりの時間がかかるだろうが、そんな猶予はない。
お腹の子の命がかかっているのだから。
「淑妃様、宮正の朱草が来ましたよ」
侍女が声をかけると、引き戸が開いた。
「ようこそ。私はここの侍女頭よ。何かあればすぐに言ってちょうだいね。お二人でごゆっくりどうぞ」
驚いた。
侍女頭と名乗った女性が、淑妃と瓜二つだったからだ。
違いといえば、多少侍女頭の方が化粧が濃く、首元に特徴的な瘤があるていど。
「近くにいらして、朱草」
声も似ている。淑妃の方が少し高いくらいで、そこまで違いはない。
朱草は案内してくれた侍女と侍女頭に包拳礼をすると、百味箪笥を床に降ろし、淑妃の前まで進み出て、稽首した。
「淑妃様に拝謁いたします」
「そんな、堅苦しい挨拶は嫌よ」
淑妃は朱草の腕を優しく引き上げると、微笑んだ。
「貴妃様に色々聞いているのよ。あなた、とっても優秀だそうね」
「ありがとうございます。もったいないお言葉です」
「謙遜しないで。汪妃のことも聞いているわ。さぁ、まずはお茶にしましょう。座布団はこれを使ってちょうだい」
淑妃が茶器を手に持とうとしたので、朱草はすぐに「わたしが」と手を伸ばした。
急須の中を見る。
新しい茶葉なのだろう。まだ乾いている。
手で覆い、においを確かめた。
「淑妃様、こちらのお茶はどなたがご用意してくださったのですか?」
「姉よ。あ、えっと、侍女頭なの」
「……姉妹なのですか?」
「ええ。双子なのよ。本当は姉が妃になるはずだったのだけれど……。その、月のものが早々にこなくなってしまって。妊娠は絶望的だろうって、太医が……」
朱草は心の中で大きく頭を殴られたような、酷い悲しみを覚えた。
淑妃の姉は早期閉経なのだ。
四十歳よりも前に生理が来なくなり、妊娠できなくなるもの。
女性特有の美貌を保つ分泌物も出なくなるため、通常よりもほんの少しだけ老けるのも早まる。
片や美しく淑妃として取り立てられた妹。
片や、結婚も遠く、一度も妊娠することなく老いていく姉。
身内に抱く嫉妬は、愛憎渦巻き、時に異常な行動を生む。
「淑妃様、本当はお気づきなのでは?」
朱草の言葉に、淑妃は顔をこわばらせ、弾けるようにはらはらと泣き始めてしまった。
「誰にも言えなくて……。だって、私は何をされても姉を憎めない。愛しているのだもの。でも、お腹に宿っているのは陛下の子。このまま姉の行動を許し続ければ……、私も罪を背負うことになる。それに、姉を罪人にしたくないの。どうにか、どうにかならないかしら……」
朱草は頭の中で大きなため息をついた。
(淑妃はお人好し過ぎる。でも……、家族を大切に想う気持ちは理解できる)
「わかりました。ここは赤の他人の出番でしょう。時には家族から離れることも大事ですから」
淑妃は朱草の手を取り、ぎゅっと握った。
「姉を、よろしくお願いします」
冷えた手。
毒が巡っている証拠だ。
「まずは淑妃様から毒を出しましょう。何度も排泄することになりますので、動きやすい衣服にお着替えになってください」
「わかったわ。なんでも、言うとおりにする」
朱草はその場で百味箪笥を開き、調合を始めた。
薬研ですり潰し、茶漉しに移し替えると、茶碗に乗せ、薬缶からお湯を注ぐ。
「さぁ、飲み干してください。一週間は続けていただきます」
言われた通り、淑妃はゆっくり飲み干した。
「侍女を呼んでください。お姉様にはわたしを見送るよう、指示を」
淑妃は頷くと、手を叩き、侍女たちを呼んだ。
「あなたたちは私の着替えを。姉上には朱草の送迎をお願いできる?」
「わかりました」
笑顔の裏に隠れている人格が恐ろしい。
朱草は百味箪笥をたたんで背負うと、侍女頭の後に続いた。
「あの、お庭を見学しても?」
「いいわよ」
侍女頭とともに庭へと出た。ここならば、誰にも聞かれまい。
「淑妃に毒を盛るのをやめてください。あなたは心の病気です」
侍女頭は不意打ちを喰らったように震えながら朱草の方へ振り向き、青ざめた。
「治療しましょう。弱い毒を選んだのは、妹への大きな愛情が邪魔したからでしょう? 薫香に刺激性のある異物を混ぜたのもそう。あなたの立場なら、もっと簡単に犯行は進められたでしょうから」
侍女頭は地面に膝をつき、花を引き抜きながら声を押し殺して泣き始めた。
「わ、私は、なんてことを……」
悲痛な叫びが、土を濡らしていった。
「後悔しているんですよね。あなたの辛さは想像を絶します。本当ならば、憎しみで満たされてもいいほどなのに、あなたは愛することを選ぼうと、醜い心と戦っています。勝ちましょう。あなたの人生のために」
朱草はしゃがみ、侍女頭の肩に手を置いた。
「苦しみで自分を傷つけないでください」
身体が冷えている。
侍女頭にも、毒が回っている証拠だ。
それも、淑妃よりも濃く。
数日後、淑妃から貴妃経由で朱草に手紙が届いた。
「回復しているようね。よかったわ」
「安心しました」
「でも、寂しいわよね。お姉さんが出家してしまうなんて。仕方がないことなのはわかるけれど。あの二人、本当に仲が良かったから」
「そうですね……」
淑妃の姉は、朱草が素采に厳選してもらった尼寺へ行くことになった。
そこで、心身ともにゆっくりと治療するのだ。
笑顔の裏に泣き顔を隠さなくても良いように。
「今回も御手柄よ、朱草」
「あの、陛下には……」
「もちろん秘密にしてあるわ。私、あの人を煙に巻くの得意なのよね」
「さすがは貴妃様」
「ありがと」
朱草は貴妃の悪戯っ子のような笑みを見ながら、ふと考えた。
自分には、結婚願望や子供を持ちたいという強い気持ちはない。
でも、「もたない選択」と「もてない現実」は全く違う。
選択肢の無い悲しみは、心を壊す。
治療が必要なのは、身体だけではないのだ。
「あら、雨が降りそうね」
空が曇ってきた。
きっと、毎日どこかで誰かが、泣き顔を隠すために無理やり笑っている。
どうか遥か遠い未来では、心の治療がもっと進んでいると良い。
そう、朱草は祈った。
人間の代わりに泣く、空を見上げながら。