第八集:一族
「おい、どういうことだ莅陽。後宮の主人はお前のはずだろう!」
ここは禮国宰相が皇宮内に持っている執務室。
怒鳴られているのは、禮国国母であり、皇后である妹、莅陽。
「そ、そんな大きい声を出さなくとも、聞こえておりますわ、兄上……」
「聞こえているのと理解できているのとでは、雲泥の差があるのですよ、陛下」
英 武央は一週間ほど前の出来事を思い出し、額に青筋を浮かべ、今にも握っている筆を折ってしまいそうだった。
椅子に座っているのが奇跡のように思えるほどの怒りが莅陽にまで伝わってくる。
「棠杏の具合はどうなのです」
「太医の話によると、過度な運動さえ控えれば、常人と変わらず生きていけるそうです」
「過度な運動か……。戦での武功は望めませんね。勉学の方は進んでいるのですか」
「ええ。でも、その……」
「なんですか」
「棠杏は……、棠梨ととても仲が良く、よく教えを乞いに行っていますわ」
莅陽の言葉に、武央はまた声をとがらせた。
「なんだと⁉ 政敵同士で仲良くしてどうするのだ!」
硬いものが折れる嫌な音が響いた。
武央の手の中では、見事な装飾が施された筆が真っ二つに割れていた。
「くそう! これでは、祖霊に顔向けできん」
「あ、兄上。そんなに焦らずとも、吉報もございます」
「なんでしょうか、陛下」
「棠梨に子を成す気はないようです。その証拠に、棠杏にこう言ったそうですわよ。『お前に子が出来て、その子がとても良い子に育ったならば、いずれ譲位をしたいと考えている』と」
莅陽は無理にでも微笑みながら兄を上目遣いで見つめた。
「……は? おこぼれで得た皇位で何が嬉しいのだ」
「で、でも……」
武央は机を殴りつけると、立ち上がり、莅陽に詰め寄ってその肩を掴んだ。
「歴史を忘れたわけではあるまいな」
凍結した湖が地底からの瓦斯で割れる音のように冷徹な兄の声。
その目は猛禽のように鋭く、血走っている。
「英は先祖が逃げ延びるために名乗った仮の名。我らの本当の名は颶。かつて禮国一帯のみならず遥か東方地域まで手中におさめていた一族なのだぞ。祖霊たちが、一族を絶やさぬよう歩んできた惨めな時代を忘れるな。必ずこの国を、そして中原を颶氏一族の手に取り戻すのだ」
莅陽の顔は恐怖に歪み、額には汗がにじんでいる。
それでも、武央はやめなかった。
妹の肩から手を放し、目の前に立つと、見下ろしながら言った。
「子を成せ。健康な男児だ。もしそれが出来ぬのならば……、あの秘術を使いますよ、陛下」
莅陽の目に、絶望が浮かんだ。
「そ、それだけは! それだけはご勘弁を! 息子を鬼になど出来ようもありません!」
「仕方がないのですよ、陛下。もし今年中に懐妊しなければ、棠杏には鬼になっていただきます。そうすれば、肺の病などきれいさっぱり消えることでしょう」
「そ、そんな……。ひ、ひどい……」
武央は口の中でその低い声が漏れないよう笑い出した。
「くくく……。この国は、颶氏のものだ」
夕闇に吹く初夏の香りが混じる風は、やけに冷たく、部屋の中を駆け巡って行った。
☆
晴れ渡る空の下。
大きな木箱を担いで棠梨の邸を訪れた朱草は、中へ通されると、さっそく診察を始めた。
「脈は正常。白目に異常もなく、舌の色も綺麗。爪にも貧血の症状は無し。腹部も膨張しておらず、頬には不自然な赤味はない。むくみは……、少し。一番気になるのは肩こりですかね」
状態を見極めると、テキパキと準備を始めた。
「白芷、羌活……、それと荊芥に防風、薄荷葉、甘草、細茶、川芎、あとは香附子」
朱草は持ち運び用の小型百味箪笥から生薬を取り出すと、薬研に入れ、細かくなるまでゴリゴリと砕いた。
粉になったそれを緑茶と一緒に茶こしへ入れ、お湯を注ぎ、程よく抽出されるように蒸らす。
「ごめんね、朱草。こんなことで来てもらっちゃって」
「何をおっしゃいますか。友人が体調を崩しかけているのならば、それを阻止するのも、知識を持った人間としては当たり前の行動ですよ、棠梨様」
「ふふ。ありがとう」
棠梨は痛む頭に顔をしかめながらも、優しく微笑んだ。
皇太子となることが決まり、連日その準備で大忙し。
ついに不調が出てしまったようで、頭痛を伴う不快感が身体の中にこもっている気がする、と、朱草に連絡が来たのだ。
「さぁ、出来ましたよ。あまり強い薬ではありませんが、頭痛や、身体の不快感を緩和してくれる働きがあるので、幾分、楽になると思います」
「助かるよ」
棠梨は朱草からあたたかい薬湯茶を受け取ると、ゆっくり飲み始めた。
「あんまり薬の香りはしないんだね」
「棠梨様がお持ちの緑茶がとても香り高く良いものなので、そちらの方が勝ったのだと思います」
朱草は茶葉の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、うっとりとした。
「朱草を前にして言うのもあれだけど……、薬苦手だからこういう美味しいのは嬉しい」
「薬が好きな変人などこの世界では少数ですよ。わたしも調合や開発は好きですが……、飲むのはあまり好きではありません」
「そうなの? あんまりにも手際が良いから、普段から何か飲んでいるのかと……」
「最近、太医を手伝うことが増えまして。棠梨様に御兄弟姉妹が増えますでしょう? 人手が足りないのだそうです」
「あ、そうかぁ。そこらへんも、ちゃんと考えなきゃなぁ……」
棠梨は茶碗を脚つきの盆、膳の上に置くと、なにやら筆をとり、紙に書き留め始めた。
「それはなんですか?」
「これはねぇ、政策だよ。父上の治世に不満は何もないのだけれど、改善点は色々とあると思うんだ。みんながよりよい環境で生きていけるようにね」
「おお……」
「皇宮ですら医師不足なのだから、市井ではもっと深刻だと思う。どうにかしたいなぁと思って」
真剣な表情と、民を想うあたたかな気持ち。
柔和な優しい人物かと思えば、戦場へ出れば大将首を一つはとってくるという武勇ももっている棠梨。
朱草は関わることが多くなるにつれ、憧れを強く抱くようになっていた。
自分も、こうなりたい、と。
「素晴らしいです」
「治水工事も、海運都市の防潮林の植樹も……。ううん、やることいっぱいだね」
「棠梨様ならすべて上手くいきますよ」
「ふふふ。朱草と話していると本当にそんな気がしてくるよ」
「信じておりますから」
「ありがとう。なんか身体が軽くなってきた気がする」
「三日分作っておきましたので、緑茶と一緒にお飲みください」
「わかった。今日は母上からの指令はないの?」
「午後から御用聞きに行く予定です。午前中は棠梨様のことで皇后陛下と打ち合わせがあるとか」
「ああ、あれかぁ……」
棠梨は礼部から何度もたたきこまれた儀式の内容を思い出し、頷いた。
「あれ、ですか?」
「えっとね、ややこしいんだけど、嫡母ってわかる?」
「……すみません。お教えください」
「皇子皇女にはそれぞれ妃嬪の母親がいるでしょう? でも、全体としての嫡母となると、それは皇后陛下ってことになるんだ。だから、皇太子になる儀式のときに母親として席に着くのは皇后陛下なんだけど、どうもこんがらがっているみたいで」
「そうなのですか?」
「母上を皇貴妃として席につかせ、嫡母として儀式に参加させようとかなんとか……」
「……英宰相が怒り狂いそうですね」
「そう! そうなんだよぉ。だから心配で……。どうしてそんな話が出たのか……」
棠梨は形のいい眉を下げ、桜色の唇から小さくため息をついた。
「探ってみましょうか?」
朱草が提案すると、頬が桃色に染まり、ぱっと表情が明るくなった。
「本当⁉ そうしてくれるととっても助かる」
「まかせてください!」
笑顔で難題を引き受けてくれる友の姿に、棠梨は心がきゅっとしめつけられた。
「私も朱草の役に立ちたいなぁ。どうすればいいだろう……」
朱草が「そんなぁ、いいですよ」と断ろうとしたとき、棠梨に手を掴まれた。
「そうだ! 貿易! それだよ!」
「……へ?」
「今度、皇宮と後宮に異国の商人たちが来るんだけど、朱草の席も設けてあげる! 珍しい薬草とか買えるかも!」
「お、おおお! い、いいのですか⁉」
朱草は興奮気味に言った。
「もちろん! お金は気にしないでね。経費にしちゃうから」
「きゃはぁ!」
二人は手を取り合ったまま立ち上がり、床をぴょんぴょんと跳ねた。
「楽しみです!」
「いっぱい買おうね!」
その様子を庇から見守っていた侍従たちは、にっこりと微笑みながら二人の真似をして飛び跳ねた。
みな嬉しいのだ。
大好きな棠梨に、心から信じることが出来る友人が出来たことが。
あたたかな風が吹く。
花吹雪が舞い、初夏の空気が濃くなってきた。
幸せな時間を、そっと包むように。