第七集:未来
「あいつの息子に、うちの娘はズタボロにされて棄てられたんだぞ! もう、どこにも嫁にいけないんだぞ……!」
悲しい慟哭。
それでも、人を殺すことは許されない。
朱草が犯人の手から爆薬を奪おうと構えたその時、梔子が一歩前へ出た。
「やめろ。奪われたものだけを数えるな」
その言葉が、落雷のように朱草の胸を撃った。
痛い。苦しい。悲しい。つらい。泣きたい。
それでも、生きていかなければならない。
不快な身体から抜け出す手段も無いのに。
乾いた音が響き渡った。
それは、すべてが終わった音だった。
刻は三時間前にさかのぼる。
央廠の動きを知ったある人物が、仕事場から消えたのだ。
数名の官吏を手製の爆弾で脅しながら、逃亡を図ったのだという。
「まさか、工部尚書が犯人だなんて……」
人当たりのよさそうな顔。
一生懸命に働く姿。
あの時朱草が見たものは、すべてまやかしだったというのだろうか。
「悪い噂は一切ない。勤勉な官吏だ。だからこそ、一度キレると何をするかわからん。わかったなら……」
そう言って梔子が朱草を追い返そうと視線を向けると、すでに先へと歩いて行ってしまっていた。
「帰りませんよ。爆弾を持っている宜殿が見つかってない以上、後宮も危険なんですから」
「くだらん。もういい。勝手にしろ」
ついに梔子は観念したようだ。
「魯主席はどう考えてるんですか」
「……梔子でいい。理由など知りたくもない。戦場以外で殺人など、割に合わないことをするのは馬鹿だけだ」
口では突き放しているものの、その瞳はどこか悲しげだった。
「でも、理由がわかれば行き先も見当がつくのでは?」
「……一理ある。朱草、脳味噌あったんだな」
「失礼ですね、梔子殿は」
二人はひとまず工部尚書の家へと向かうことにした。
先に錦鏡衛が行き、安全を確認してから、挨拶もそこそこに家の中へと入って行った。
「しゅ、主人が何か……」
「爆弾をもって逃げているようです、奥方」
「あ、そ、そんな……。本当にやるなんて……」
そう言った後、宜の妻は急いで口を手で覆うも、遅かった。
「何をやるんですか?」
梔子の冷たい目に睨まれ、妻は膝から崩れ落ちるように泣き出してしまった。
これでは話を聞くのは難しいだろうと思ったその時、奥の部屋から顔面蒼白の若い女性が姿を現した。
「ち、父はきっと……、きっと、あの人を、家族もろとも殺すつもりなんです!」
口ぶりから判断するに、宜の娘のようだ。
「誰を殺すと?」
「殺された兵部尚書さんの、長男で……、桓です。私の……、私の元婚約者です」
娘はわっと泣き出し、自身の母と抱き合った。
「か、彼は、婚姻までの貞操を誓いながら、それを、や、破って、妓楼通いを、し、していたんです。それで、びょ、病気を……。怒り狂った彼は、『お前にも感染してやる』と、無理やり私を……」
(理性を失うほど脳に障害が出る性病、梅毒だな)
朱草は女性を観察しながら問いかけた。
「あなたは大丈夫なのですか?」
「わ、私はすぐに医師の所へ行きました。適切な治療を受けることが出来たので、表面上は大事には至りませんでしたが……。もう、子供は望めないだろうと……」
朱草と梔子は顔を見合わせると、頷き合った。
これが理由だ、と。
「お二人を錦鏡衛が保護します」
梔子の指示で母娘が安全な場所へと連れていかれる。
ただ、事件が解決した時、犯人の家族にどんな沙汰が下るかは、今はわからない。
「行くぞ。奴の行先は兵部尚書の家だ」
二人は錦鏡衛が連れて来ていた馬に飛び乗ると、すぐに駆けだした。
「馬に乗れるとは感心した」
「あなたほどではありません」
梔子はふっと口元を緩めると、「そうか。先生から聞いたのだな」と小さな声でつぶやいた。
風を切り、人々の間を縫うように駆け抜けていく。
刹那、最初の爆音がこだました。
「くそ!」
「煙が……。ただ、音からするに範囲は小さいようです。脅し用か何かでは?」
「それでも、陛下のおわす都で爆弾を起爆させるなど、到底許せる行為ではない!」
朱草の目に、不思議な光景が映った。
甲冑を着て駆ける、梔子の姿。
忠義を胸に戦場の大炎となる、武将の姿が。
「お供いたします、梔子殿」
「ふっ。好きにしろ」
速度が上がる。
兵部尚書の家はもう目の前だ。
馬から飛び降りた二人は、すぐに煙の上がっている方へと走って行った。
「殺してやる! 全員、殺してやる!」
叫び声。
興奮する宜の前には、侍従たちに挟まれるように兵部尚書の妻、娘、幼い息子、そして、変わり果てた顔をした桓がいた。
口からよだれを垂らし、視線もまばら。
梅毒の末期症状だ。
「宜殿!」
朱草が声を張った。
「……来たんですね。でも、もう遅いんです。何もかも……。だから、逃げてください。あなた方を巻き込むつもりはありません」
宜は一度も朱草たちの方を見ることもなく、ただただ桓を睨みつけながら言った。
それを聞いていた梔子は、大きく息を吸い込み、口を開いた。
「陛下のものを傷つける輩は、例えそれがどんなに高貴な人間だろうと放ってはおけんのでな」
「陛下の……、もの?」
「民は等しく陛下の、禮国のもの。何人たりともその命を奪うことは許さん!」
梔子の言葉に、宜はありったけの力を使って叫んだ。
「こ、こいつらは私の娘を傷つけたのだぞ! 娘から輝かしい未来を奪ったのだ! 殺す、絶対に殺す! 生きている価値などないのだから!」
朱草は隙を見て爆弾を奪おうと、周囲を見渡しながら構えた。
その時だった。
梔子が、話し始めたのは。
「娘に対し、生きているだけで良いとは思ってやれないのか」
宜の肩がピクリと揺れた。
「なぜ奪われたものだけを数える。言い方はふさわしくないかもしれないが、中原のみならずこの広い世界には、子供が出来ぬ者は多い、それでも、幸せになる方法はいくらでもあるだろう。どうして父親であるお前が諦めるのだ。大事な娘の人生を」
宜が桓から視線を外し、こちらへ身体を向けて振り向いた。
一瞬だった。
乾いた音。
漂う硝煙のにおい。
宜の身体は衝撃で後ろへ倒れ、その胸に開いた穴からは、ドクドクと血が流れ出した。
「あの世で償うがいい。お前の命をもって、陛下には頼んでやる。あの母娘に残された人生が、平穏であることを」
どうしようもなかったのだろうか。
これ以外の解決法はなかったのだろうか。
朱草には足りなさ過ぎた。
考えるに至る、数多の経験が。
陽もどっぷりと落ち、煌めく灯篭が美しい悠禪宮。
「そうだったの……。大変だったわね、朱草」
「いえ……。梔子殿がすべて解決してくださいましたので、わたしは何も……」
今日起きた恐ろしく、そして悲しい事件の顛末を、禪貴妃に報告に来ている朱草。
どう頑張っても元気は出ず、無理やりでも笑うことは出来ないでいた。
「ゆっくり休みなさい。しばらく休暇を取ってもいいのよ?」
「いえ。棠梨様の冊封まで時間はありません。働きます。その方が、もっと役に立てる人間になれると思うのです」
「朱草……。ありがとう。でも、ちゃんと寝てね? 身体を休めることも、大事な仕事よ。生きていくためのね」
「はい。自愛します」
「……今夜は暇なの。少しだけ、話し相手になってくれる?」
「わたしでよければ、もちろんです」
「ええ。あなたがいいの」
衣擦れの音。
禪貴妃がゆっくりと朱草に近づき、その小さな肩をそっと抱きしめた。
「よく頑張ったわね」
堰を切ったようにあふれ出した涙に、身体の震え。
病気や怪我で亡くなる患者ならたくさん見てきたはずなのに。
目の前で人が亡くなるのなんて、誤解を恐れずに言えば日常茶飯事だったのに。
消えてしまった。
思いも、記憶も、何もかもを内包した魂が、身体から一瞬で離れていく。
たった一つの鉛玉で。
儚い。
あまりにも儚い。
仕方がないことだなどと割り切るには、まだ心が追い付かなかった。
それでも、生きていくのだ。
たくさんの悲劇と苦悩を乗り越えて。