第六集:種子
「おめでとうございます、貴妃様」
「あら、棠梨からはあなたのおかげだと聞いているわよ?」
「いえいえ」
国の祭祀を司る部署である太常寺が選んだ最も縁起のいい日に、棠梨が皇太子に冊封されることが決まった。
礼部尚書主導の元、儀式に使われる細かな道具の用意などが始まっている。
棠梨の冊封が決まった時、案の定、英宰相は顔を引きつらせていたらしいが、それとは反対に、皇后はどこかホッとしたような安堵の表情を浮かべたのだという。
一時でも、『健康な男児を産まねばならない』という重圧から解放されたからかもしれない。
「二か月しか時間がないのよ? もう。いろいろ急がなくっちゃ」
「ふふふ」
「笑っているけれど、あなたも頑張るのよ」
「え、え?」
「この功績がどれだけ大きいのかわかっていないのね。まったく、陛下といい朱草といい、私が好きな人はみんな暢気すぎるわ」
禪貴妃は頬を膨らませながらも、顔は喜びに緩んでいる。
「一足早く、陛下の御兄弟姉妹がそれぞれの領地や嫁ぎ先から帰郷なさるの。そのお出迎えも、後宮の仕事よ」
「わあ……」
「人の流入が多くなるということは、ここ後宮に入ってくる物にも余計に注意を払わなくてはならないってことよ」
「毒物や暗器が仕込まれた機巧ですね」
「その通り。棠梨の晴れ舞台を邪魔させるわけにはいかないわ」
「頑張ります!」
「よろしくね」
朱草はさっそく工部尚書の元へと向かうことにした。
工部は公共工事だけではなく、宮中で使う工芸品の製作や調達までを行う部署だ。
今はまさにてんやわんやだろう。
「こんにちは……、うわぁ」
いつもは整頓されている倉庫が、端から端までひっくり返されたように乱雑な状況になっている。
「え、あ、ああ! えっと、たしか宮正の……」
「はい。賀 朱草です」
「どうもどうも。工部尚書の宜です。すみません、足の踏み場もないですよね……」
宜は作業用手袋の甲で汗を拭いながら近づいてきた。
「いえいえ。お忙しいのは承知で参りました。その、後宮へ入ってくる物品の検査にわたしも立ち会うことになりまして」
「ああ、そうでしたか。そうですよね……」
宜は帳簿と照らし合わせながら何かを探していたようで、工部の他の官吏たちもどこか慌てている様子だ。
「どうかなさったんですか?」
「ううん……、その、実は……」
宜が話すところによると、花火に使うための火薬の数が合わないのだという。
「万が一と言うこともありますし、これから兵部にも確認に行こうかというところでして」
額に汗を浮かべ、宜は困ったように溜息をついた。
「あ、じゃぁ、わたしが行ってきましょうか」
朱草の提案に、宜は飛び上がりそうになりながら、顔を上げた。
「え! で、でも、宮正の方にそんな仕事をさせるわけには……」
「大丈夫です。火薬の在庫数が合わないのは後宮にとってもあまりよくなさそうですし」
「それもそうですね。では、すみません。よろしくお願いいたします」
本当に参っていたのだろう。
宜は深く深く頭を下げ、感謝の意を表した。
「はい。行ってまいります」
朱草はそう遠くない兵部の建物へと向かって歩き出した。
太陽がとても眩しい。
初夏の晴れ間は風が涼しい分、体調不良に気付きにくい。
水分補給と塩分補給が大切だ。
「朱草!」
「げ、お、お師匠様……」
晴れやかでありつつも強烈な初夏の陽射しをものともせず、その美貌と艶やかな魅力を放ちながら駆け寄ってきた素采。
「こんなところで会えるとは、運命かな?」
「仕事です」
「わたしだって仕事しているぞ。これから兵部へ軍医用の資材確認に行くのだ」
「え、お師匠様も兵部へ?」
素采はここぞとばかりに嬉しそうに微笑んだ。
「お、朱草もか。では、腕でも組んで共に参ろう」
「……横並びで談笑しながらでもいいでしょうか」
「譲歩しよう」
歩き出すと早速、素采が「そういえば、棠梨殿下のこと聞いたぞ」と少し口をとがらせて言ってきた。
「朱草の功績を又聞きするのは気分が悪い。なぜ好きな娘の話題をおっさん連中から聞かねばならんのだ」
むっとした顔すら美しいとは、罪な男だ。
許しがたい。
朱草はそっと溜息をつき、素采をなだめるように話を繋いだ。
「あ、ああ……。拗ねないでください。えっと、じゃぁ……。棠梨様には友人という光栄な称号を頂きました」
「お、それは初めて聞いた」
「棠梨様はまるで春の木漏れ日のような方ですね」
「まさに東宮と呼ばれるにふさわしいということだ」
「お師匠様もそう思います?」
「ああ。幼い頃、何度か診ていたからな。昨日挨拶をして、素晴らしい青年になられていて感動したよ」
「へぇ」
気付けば兵部の建物の目の前まで来ていた。
「では、ここで」
「えええ、もう少し一緒に……」
「仕事中です」
朱草はさっさと歩き出すと、建物の中へと入り、兵部尚書を探した。
「すみません、兵部尚書殿はいらっしゃいますか」
一番最初に目に入った、作業用手袋をはめている官吏に話しかけた。
「あ、えっと、倉庫にいます」
「わかりました。ありがとうございます」
倉庫、ということは、結局素采が行く場所と同じになってしまったということ。
案の定、素采はにやにやしながら外で待っていた。
「さぁ、行こうか」
「……はい」
倉庫はすぐ裏手にある。
二人で扉を開け、中へ入ると、そこは何者かに物色された後のような、酷い有様だった。
「禁軍を呼ばないと!」
「待て、まずは安全を確保してからだ。ここには開発中の兵器も多くある。暴発したらもっと悲惨なことになる」
倉庫の中へと進んでいく。
箱はすべてひっくり返され、書物は開いたまま床に散乱し、火薬が砂のようにあちこちに散らばっている。
まだ組み立て途中の金属製の兵器が転がり、ささいな偶然で火花が散れば、火薬に引火し、大惨事になる。
「火薬よりも人命を優先する」
そう言うと、素采は手の中で水流を作り出し、床や机の上を滑らせながら火薬をすべて巻き込んだ。
「もうこの火薬は使い物にはならないが、君が傷つくよりはずっとマシだ」
胸が高鳴る。
ずるい。
朱草は熱くなりかけた頬をパチンと叩き、さらに倉庫の奥へと足を進めた。
「あ……、しょ、尚書……」
そこには、頭から血を流し、すでに息の無い兵部尚書がいた。
朱草はすぐにしゃがみ込み、脈をとる。
「だめです。亡くなってます」
素采も遺体へ近づき、目や舌の色、爪や腹部の張りなどをたしかめた。
「まだ亡くなってからそう時間は経っていないようだ。今度こそ、禁軍と、それに、央廠を呼ばねばならんだろう」
朱草は頷くと、兵部の建物へ行き、「尚書のご遺体を発見しました」と報告し、すぐに倉庫へ向かってもらった。
その後、禁軍の詰め所と央廠の建物へ向かい、それぞれに状況を報告した。
そして再び兵部の倉庫へ戻ると、ちょうど遺体が運び出されるところだった。
「太医殿!」
「ああ、朱草殿。これは災難なことに出くわしましたね」
「やはり、その……」
「ええ。素采先生とも話しましたが、おそらくは殺人です」
素采は禁軍大統領に遺体を見つけた時の状況を詳しく話しているようだ。
太医と朱草が二人で話していると、そこへ、央廠の首席、魯 梔子が近づいてきた。
少し細い目が特徴的な整った顔立ちの青年。
見た目だけで言えば、朱草なら楽々倒せそうだ。
「お前か。新しい宮正の女官は」
「はい。賀 朱草と……」
梔子は手袋をはめた左手を嫌そうに振ると、朱草を品定めするように見回しながら言った。
「これは皇宮の事件だ。宮正は必要ない。お前はさっさと後宮に帰って貴妃様に報告でもしておけ。安全確保に努めればいい。以上だ」
敬意の欠片も無い物言い。
いくら央廠が皇帝直下の宦官だけで結成された諜報機関兼皇宮の自治組織だとはいえ、このような態度はあんまりなのではないだろうか。
その場から立ち去ろうとする梔子の背中に、思わず言葉が口から飛び出した。
「そんな言い方はないのでは?」
梔子はまたもや嫌そうに振り返ると、今度は朱草を明確に睨みつけながら言った。
「なんだと? たしか、朱草と言ったな。貴妃様に取り立てられているとはいえ、お前は所詮新人女官にすぎない。私から見ればただの小娘だ。こういった事件にはお呼びじゃないんだよ。早く失せた方が良い。でなければ、力づくで追い出すぞ」
央廠の下には錦鏡衛という、武力による自治を主な仕事としている組織がある。
梔子はそれを匂わせているのだろう。
「どうぞ? でも、他の人の手を借りるんじゃなくて、ご自身の武術でわたしを倒すんですね」
これにはさすがにそばで聞いていた太医が慌て、「さぁ、朱草殿は私と共に検死をしましょう」と、朱草の腕を優しくひいた。
「ふん! 生意気な小娘め。さっさと遺体と戯れてこい」
あと一言何か言われたら殴ってやろうと思ったが、太医が「抑えて、抑えて」と宥めてくれたので、今日のところはそれに免じて攻撃はやめることにした。
だが、許しはしない。
絶対に。
「感情的になってすみませんでした」
朱草は太医に嫌なところを見せてしまったことを謝罪した。
「いいんですよ。あの方は……、ううん、なんといいますか、難しい人なのです」
「いえ、ただの嫌な奴です」
「うっ。とにかく、検死をしましょう」
「はい。お手伝いします」
遺体の安置室へ着くと、すぐに素采もやってきた。
「では、三人で頑張りましょう」
三人は白い割烹着のような手術着を深衣の上に着ると、太医の手順に従い、身体全体の観察から始め、体表面を切り開き、骨を切断し、次々に臓器を取り出していった。
そして胃の内容物を確認した時、見覚えのある赤い実の欠片が出てきた。
「梯梧の種子……」
「用法容量を守ればとても優秀な生薬だが……、明らかに多い。これでは筋弛緩作用で動けなくなるだろう」
「どうしてこんなものを?」
「お二人、こちらへ」と、太医が二人を手招きした。
「ここ、歯を見てください」
兵部尚書の歯を見ると、その隙間に何かが挟まっていた。
「おそらく、人間の皮膚です。うっすらと掌紋が見えますので」
「では、無理やり口に入れたってことでしょうか」
「だと思います。麻痺が始まり、動けなくなったところを頭部殴打。去る前に仰向けにしていったといった、という感じですかね」
「ううん。今日見かけた官吏のみなさんは、全員作業用の手袋をしていましたよね……」
その時、安置室の扉の方から声がした。
「全員から手袋をはぎ取ればいいだろう。それがどうしたというのだ」
トゲトゲとした物言いに、人を見下した態度。
央廠主席の梔子だった。
「検死ご苦労だった。あとは我ら央廠に任せ給え」
もう我慢ならなかった。
「魯主席、あなたも手袋をとってくれませんか?」
梔子は目を見開くと、憎悪のこもった形相で朱草を睨みつけた。
「生意気だとは思っていたが、ここまで考え無しだとは。私を疑うだと? ふざけるな」
地を這う冷気のような声。
そんなもので怯む朱草ではなかった。
「手、見せられないんですか?」
顔を真っ赤にしながら震える梔子は、手袋を外すと、兵部尚書の遺体の上に投げ捨てた。
「これで満足か?」
手には傷一つない。
「ええ、どうも」
梔子はあくまでも優雅に、その場から立ち去って行った。
「嫌な奴」
朱草は扉の方を見ながら呟いた。
素采はどさくさに紛れて朱草の肩に手を置き、なでながら言った。
「仕方がないのだよ、朱草。彼は……、本当ならば、郡王だったのだから」
「……え?」
素采によると、梔子は先代皇帝の弟の子供で、今の皇帝にとっては従兄弟にあたる高貴な身分なのだという。
本当ならば郡王として父の領地を引き継ぐはずだったのだが、戦で下半身に重大な傷を覆い、生殖器はおろか、睾丸も斬り落とすしか助かる道はなかった。
それを不憫に思った現皇帝が即位と同時に梔子を央廠の主席に据え、活用しているという状況らしい。
「だから、まぁ、彼の態度は許してやってもらえると嬉しい。それに、手術したのわたしだし」
「え! お師匠様が……」
「命をつなぎとめるので精一杯だった。だから彼はわたしには複雑な態度をとるんだ。こちらが気にしなければ、挨拶すらしない。仕方がないと思っているよ」
梔子の態度には腹が立つが、朱草には少しの同情心が芽生えた。
「わかりました。言い返す回数を減らします」
「うん、それで十分だよ」
「それより、事件の方が大事ですね」
朱草は手術着を脱ぐと、手を洗い、扉へ向かった。
「協力してきます。要らないって言われるでしょうけど、消えた火薬の行方すらわかっていない以上、後宮も危険ですから」
「気を付けて」
「はい、お師匠様」
外へと出ると、太陽が傾き始めていた。
一番熱い時間帯は終わり、涼しい風が通り抜けていく。
「まずは兵部だよね」
そう遠くはない。
朱草は周りの目も気にせず、走って向かった。