第五集:君が良い
月が綺麗な夜。
皇帝の寝所では、睦言ではなく、穏やかな時間が流れていた。
「小紅、君はあの娘、朱草をどこで見つけてきたんだ?」
「私が見つけたんじゃないわ。あの娘の方から私の元へ来てくれたの。いいでしょ」
「羨ましい。実に興味深い存在だ」
禪貴妃は皇帝の幼馴染でもあるため、皇后含めた妃嬪の中でも一番年齢が高い。
皇帝との間柄も、もはや夫婦を通り越し、永遠の親友と呼べるほど仲が良い。
子供も六人もうけており、成人している公主たちは素晴らしい家へ嫁いでいる。
皇后になれなかったのは、単純に、皇后となった英氏の家柄が飛びぬけてよかったからである。
「姚黄も気に入ったのね」
「もちろんだ。俺を脅す女性はそうそういないよ。君くらいじゃないか?」
「ふふふ。ますます私好みね、朱草は」
「勘弁してくれよ。今以上に強い女性が増えたら、俺の心が休まらないじゃないか」
「あら、でも、強い女が好きでしょう?」
「……まぁね」
甘めの酒に塩辛いつまみ。
食の趣味も好きな書物も似ている二人は、言葉を交わさなくとも、お互いが何を考え、どう感じているかが手に取るようにわかる。
「そうだわ。えっと、徳妃と淑妃、それに賢妃の懐妊、おめでとう」
「ありがとう。今度こそ、男の子が生まれてくれるといいんだが……」
皇帝には皇子が三人しかいない。
禪貴妃が産んだ二人に、皇后が産んだ一人。
跡継ぎとしては十分なのだが、如何せん、健康なのは禪貴妃が最初に産んだ男児だけ。
他二人はちょうど流感が流行っていた時期に産まれたため、罹患し、その後遺症で肺や足に障害が残っているのだ。
これでは、将来の皇帝を支える強い柱が足りないと危惧しているところでの懐妊。
期待せずにはいられない。
それと相対するように、八人の公主たちはみな元気いっぱい。
五体満足健康で器量もよく、すくすくと育っている。
「皇后には悪いが、やはり棠梨を皇太子に冊封しようと思っている。健康で才色兼備。性格も穏やかで、武術も申し分ない。あえて欠点を上げるとすれば、少し優しすぎるところくらいだろう」
「私は嬉しいけれど……。英氏が納得するかしら」
「皇后の兄……、宰相か……。あいつは昔から負けず嫌いで口うるさいからな。揉めるかもしれん」
「皇后陛下もまだ二十八歳。妊娠は可能よ」
「ううん、そうだろうけれども」
皇帝も禪貴妃も今年で三十五歳。
十七歳で結婚し、すぐに棠梨が出来た。
そのあともとんとん拍子に子供が生まれ、六人目が生まれた時に禪貴妃から「暫く身体を休めて体力を回復したい」と打診し、現在に至っている。
「それに、いきなり皇太子に冊封したら、棠梨が治めている紫菂の民が悲しむわ」
「それもそうか……。棠梨は本当に愛されているからな」
紫菂は棠梨に与えられた封地。
その土地の名を冠し、紫菂王という号を持っている。
民からの信頼厚く、その善政によってとても愛されているのだ。
「そろそろ、孫の顔が見たいなぁ」
「早すぎるわよ。私はまだ御祖母様なんて呼ばれたくない」
「そう? 可愛いと思うんだけどなぁ、孫」
今日も今日とて皇帝は暢気だ。
これが本来の姿なのだろう。
それを引き出せる禪貴妃もまた、素晴らしい人間であり、妻である。
☆
「来てくれてありがとう、朱草」
「もったいなきお言葉です、陛下」
翌日、禪貴妃経由で皇帝から呼び出された朱草は、いつもよりもこぎれいな深衣を着て朝堂へと訪れた。
「頼みがあるのだ」
「何なりとお申し付けください」
「……ちょっと近くへ」
皇帝に手招きされ、朱草は不思議に思いながらも近づいて行った。
「朱草は棠梨のことを知っているかい?」
「もちろんです。陛下と貴妃様の長子であり、さらには皇子様方全体でも長皇子である紫菂王殿下です」
「その通り。それで、頼みと言うのは……」
皇帝は朱草の耳に小声でささやいた。
「棠梨に皇太子になる気があるか探ってきてほしいのだ」
「……え。直接お尋ねになればいいのでは?」
「それが……、まぁ、会えばわかる。とにかく、今は皇宮近くの紫菂王府にいるはずだ。頼む、行ってきてほしい」
「しょ、承知しました」
朱草は何をそんなにヒソヒソとする必要があるのかと思ったが、次の瞬間、室内へ入って来た人物を見て合点がいった。
「英宰相、はやいな」
精悍、という言葉が似あう、どちらかといえば武人のような顔と体格。
その目は鷹のように鋭く、頭頂で縛り上げられた髪は黒く艶やか。
たびたび女官たちの話題に上がる美丈夫だ。
「陛下に朝のご挨拶を、と思いまして。おや、君は……」
朱草は皇帝から距離をとり、姿勢を正して名乗った。
「貴妃様から宮正を任じられました、賀 朱草と申します」
「ああ、噂になっているのは君だったか。私は……、見ての通り、禮国宰相を任されている英 武央だ。君の活躍には私も期待している。後宮をよろしく頼むよ」
「はい。誠心誠意努めます」
朱草は包拳礼を二人にすると、その場を後にした。
(そりゃ、皇后陛下の兄君には聞かせられない内容だよね)
朱草は晴天の下、爽やかな空気を吸い込み、深呼吸をした。
「じゃぁ、行くか」
一度後宮へ戻り、禪貴妃が用意してくれた馬車に乗り込むと、紫菂王府へと向かった。
小窓から見える塀をぐるりと回ると、すぐに門が現れた。
近衛兵が四人立っている。
さすがは長皇子の邸といった感じだ。
(趣味が良いなぁ。貴妃様譲りの感性なのかな)
派手さはないが、落ち着いた雰囲気の調度品が目に楽しい庭園。
侍従たちの服装も品がよく、働いている姿も穏やか。
きっと棠梨の気質がそうさせているのだろう。
「皇帝陛下からの使いで、紫菂王殿下に御目通しを……」
「あ、君が母上お気に入りの女官だね?」
近衛兵の後ろから柔らかな甘い声と共に出てきたのは、朱草と同じくらい童顔の青年だった。
「初めまして。棠梨と呼んでくれて構わないからね」
「え、あ、滅相もございません。わたしは貴妃様から……」
「新しい宮正の朱草でしょう? 知ってる。さぁ、ここではなんだから、あっちでお茶でもしようよ」
あれよあれよという間に棠梨の柔和な誘いに乗せられ、茶器が用意された部屋へと通された。
「みんな、ここは私がもてなすから休憩していていいよ」
棠梨が優しく声をかけると、侍従の誰もが朗らかな笑顔になり、「かしこまりました」と部屋から遠ざかっていった。
「で、どこまで聞いているの?」
棠梨は流れるようなしぐさで好い香りの高そうな茶を淹れ、朱草に差し出した。
まさか長皇子に茶を淹れてもらえるなどとは思わなかった朱草は、あっけにとられながらも、丁重に碗を受け取った。
「あ、その、どこまで、と申しますと……?」
「なるほど。父上は本当に優しい。私を尊重してくれているんだなぁ」
棠梨は嬉しそうに微笑み、一口茶を啜った。
「どこから話そうかなぁ……。そうだ、朱草。友達になってくれる?」
「へあっ⁉」
高貴なる身分の存在からの突然の申し出に、素っ頓狂な声を上げてしまった朱草。
棠梨はそれを見て楽しそうに笑っている。
「あはは。可愛いね。きっと父上は朱草みたいな子を好きになってほしいんだと思う。でも、私には無理なんだ」
棠梨は碗を置くと、朱草をまっすぐ見て言った。
「私はね、女性を性的に好きにはなれないんだ」
朱草も碗を置き、棠梨の切なさに揺れる瞳を見つめた。
「自覚したのは七歳の頃。初恋は宸大統領なんだよ。かっこいいよねぇ」
どこか遠い国の出来事でも話すように、棠梨は青空に視線を移した。
「だから……、そう。皇太子にはなれない。子供を残せないから。養子をとって納得してもらえるような身分でもないしね。……え! だ、大丈夫⁉」
朱草は自分でも気づかなかったが、目から滂沱と涙が流れていた。
その量は、大袈裟に言って手が水没するほど。
「泣かないで? どうしよう。女の子を泣かせるなんて初めてのことで……」
「ず、ずびばぜん」
朱草は懐紙で目と鼻を拭い、茶を一気に飲み干した。
「わたしは国政にあれこれと口を出せるような、そういったものではありません。ですが、心から思います。棠梨殿下の治世で生きてみたい、と」
棠梨は「え、ええ⁉」と声を上げて驚いた。
今まで、説得に来た数名は「さ、左様ですか。では、仕方がないですね」と言い、みな足早に帰って行ってしまったからだ。
「しゅ、朱草……。本気なの?」
「両親に誓って本気です」
朱草の真剣なまなざしに、棠梨は胸が熱くなったのか、少し潤んだ目で言った。
「嬉しい。ありがとう。でも、子供はどうすればいいかな」
「いいんじゃないでしょうか、作らなくても」
朱草の言い分に、棠梨は戸惑った。
「え、それはちょっと……」
「今までの禮国の歴史の中でも、皇弟の世子が皇位を継いだ例はありますもの。問題ないのでは?」
あっけらかんとした朱草の言葉は、不思議と棠梨の心に素直にしみわたっていった。
「あ、あははは! 君ってすごいね! そうか、それもそうだね。なぁんだ、悩む必要ないじゃん、僕」
「そうですよ。それに、ほら、あの、名前が出てこなくて不敬なのは重々承知の上で申し上げますが、三番目の親王殿下は皇后陛下の息子ですから、宗室です。生まれる子の血筋には何の問題も無いと思われます」
「たしかに。それか、これから皇后陛下がご懐妊なさって生まれてくる子が男児なら、歳も充分離れているし、譲位するのも簡単だよね」
「そうです。その通りです」
「ふふふ。ありがとう、朱草。なぜ父上が君を僕のところへ寄こしてくれたのか、はっきりとわかったよ。そこで、最初の話に戻るんだけど、友達になってくれない?」
朱草は身分の違いを理由に悩んだことを後悔した。
今はもう、棠梨の力になりたいという気持ちで胸がいっぱいだ。
「わたしでよければ、謹んでお受けいたします」
「よかった! じゃぁ、これからもよろしくね、朱草」
「はい、棠梨様」
二人は互いに包拳礼をすると、目を合わせ、笑い合った。
「僕、もっと母上に会いに行くことにするよ。そうすれば、朱草にも会えるものね」
「それは素晴らしいことです。貴妃様も喜ばれますよ。もちろん、わたしも」
「ふふふ。ふぅ、朱草にもらった勇気を無駄にしないように、今から父上に会いに行くことにするよ」
「では……」
「うん。皇太子になってほしいという父上の希望を受け入れることにするよ」
「わあ!」
「三年間も断り続けてしまったからね。そろそろ、僕も戦わないと」
「応援しております」
棠梨は優しく微笑むと、「皇宮へ行く用意を頼む」と、声を張った。
すると、どこからともなく侍従たちが現れ、テキパキと用意をし始めた。
その目はどこか潤んでいるように思えた。
「みんな心配性なんだ。でも、これからはもっと心配かけちゃうなぁ」
「わたしと貴妃様がついていますよ」
「それもそうだね」
せっかくだから、と、皇宮まで棠梨の馬車で一緒に向かうことになった朱草。
他愛のない話をしながらだったので、あっという間についてしまった。
「じゃぁ、行ってくるね」
「はい。ご武運を」
「ありがとう」
大階段を上る棠梨の背中は、その優しく穏やかな性格とは裏腹に、力強く、自信に満ち溢れているように見えた。
次の世代も素晴らしい御代になることが伺える、そんな光景だった。