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第四集:奴が来た

 初夏の香りが漂い始めた爽やかな午後。

 朱草(しゅそう)は太医の詰め所で調薬を手伝っていた。

「いきなり、借りを返す時が来ましたよって言われたので、何をするのかと思ったら……。え、こんなことでいいんですか?」

「もちろんですよ。今、淑妃と徳妃がご懐妊中なので、ここもかなり大忙しなんです。薬術も出来るなんて、本当に朱草(しゅそう)殿は才能豊かですね」

「いえいえ。師匠が厳しかったので、覚えざるを得なかったというか。まぁ、自分から門戸を叩いて『弟子にしてください!』と言ったので、仕方がないんですけど」

「素晴らしい行動力ですね」

「あはは。次女という自由な立場を利用したんです」

「それで、お師匠様はどんな方なんですか? 私も知っている医師(くすし)でしょうか」

「名前は……」

 その時、詰め所の入口から清廉な薬草の香りが漂ってきた。

 それと同時に、朱草(しゅそう)の脳裏に浮かんだのは、まさに話題の人物だった。

「ごきげんよう、先生」

「おお! 素采(そさい)先生ではありませんか!」

 長い黒髪に少し薄い茶色をした目。

 涼やかな目鼻立ちは女人から熱い視線を向けられることが多い。

朱草(しゅそう)、先生の役に立っているようだね」

「お、お師匠様……」

 まるで油を刺し忘れた機巧(カラクリ)のような動きで身体を向ける朱草(しゅそう)の姿に、太医は「なんと! そういうことでしたか」と笑顔で頷いた。

素采(そさい)先生が朱草(しゅそう)殿の師匠なのですね」

「あはははは。師匠などと大それた存在ではありませんよ。朱草(しゅそう)は優秀でしたから」

「あ、あはは、あは」

 風邪をひいた時のような不快な浮遊感に苛まれながら、朱草(しゅそう)は無理やり微笑んだ。

「お、お師匠様はなぜこちらに?」

「陛下と(じん)大統領に呼ばれたのだよ。なんでも、軍医を育ててほしいとかでね」

 朱草(しゅそう)はひゅっと息を飲み込んだ。

 軍医を育てるということは、素采(そさい)が長い期間皇宮周辺にいるということに他ならないからだ。

「ああ、そうでしたか。本来ならば我らが行うべきところを……。お手を煩わせてすみません」

「いえいえ。妃のみなさまのご懐妊は喜ばしいことですから」

 素采(そさい)は人当たりが良い。

 彼と一度でも話した者は、その爽やかさと美貌のとりこになってしまうほど。

 ただ、朱草(しゅそう)は知っている。

 それが素采(そさい)の本当の姿ではないことを。

「もしよろしければ手伝いましょうか? 約束の時間までまだまだ暇で」

「本当ですか! 助かります。実は、賢妃の体調が思わしくなく、もしかすると懐妊かもしれないということで診に行きたかったのです」

「どうぞ行ってください。ここはわたしと朱草(しゅそう)でやっておきますので」

「ああ、本当にありがとうございます。では、急いで行ってまいります」

 太医は素早く準備を済ませると、何度も頭を下げながら後宮へと出かけて行った。

 沈黙が流れる。

 素采(そさい)が板間に腰かけ、手近にあった生薬を嗅ぎ始めた。

 朱草(しゅそう)が思い切って素采(そさい)の方を見ると、恐ろしいほどに美しい笑顔を浮かべていた。

「ひぃえっ」

「なんだその態度は。女人ならこの笑顔でときめくところだろう。失礼だぞ」

「だって! 怖いんですもん!」

「何がだ。わたしほど優しく丁寧で官能的な医師など他におるまい。嬉しいだろう? なぁ、一番弟子よ」

 そうは言っているものの、一番弟子を見つめる瞳ではない。

 熱く、どこかねっとりとした、艶やかな視線。

 朱草(しゅそう)は顔を真っ赤にしながら言った。

「何度頼まれても嫁にはなりません!」

「ちっ。十八歳になったらでよいと言っているのに」

 素采(そさい)は色仕掛けが不発に終わり、ぷいっと拗ねてしまった。

「十八歳になろうが百八歳になろうが、お師匠様と夫婦(めおと)になるなど、絶対に無理です!」

「贅沢だぞ。わたしが夫になるということは、この世の春を独り占めするようなものではないか。何がそんなに嫌なのだ」

「一、その自信過剰なところが怖い。二、もし結婚なんてしたら、夫が有能過ぎて、自分が矮小で取るに足らない存在に思えてしまうのがつらい。三、総合的に見て、自分よりも何億倍も美しい男性がずっと横にいるのは精神的に良くない。以上です」

「かあ! くだらん! なんてくだらない理由なのか! 朱草(しゅそう)、君は可愛い。優秀だし、将来有望だ。もっと自信を持て」

 朱草(しゅそう)は盛大な溜息をつくと、素采(そさい)を睨みつけ、とどめを刺した。

「本当は何歳なのかわからない超長命の仙子(せんし)族と結婚はできません!」

 素采(そさい)はまるで傷ついたとでも言うように身体を横に倒し、袖で涙を拭う仕草をした。

異類婚姻譚(いるいこんいんたん)などそこらへんにあるではないか。仙子(せんし)族など、ちょこっと神仙(しんせん)に近しいだけで、普通の、ごくごく普通の種族だぞ」

「何を言ってるんですか! そもそも、空を飛べる時点で全く普通ではないんですよ。それに、異類婚姻譚など、御伽噺(おとぎばなし)でしょう⁉ なんでわたしなんですか。お師匠様の側にはいくらでも美しい女人が寄ってくるではありませんか」

朱草(しゅそう)が好きだからに決まっているだろう。馬鹿か? 馬鹿なのか?」

「ぐっ……」

 まっすぐな瞳と素直な言葉が、胸に柔らかな刺激を与えて来る。

 素采(そさい)が営む薬舗の門戸を叩いたあの日から、ずっと求婚されている朱草(しゅそう)

 「弟子ではなく嫁にならないか?」と、開口一番に言われたのは怖ろしい思い出だ。

「とにかく。もっと長い長い時間をかけて考えさせてください」

「いいぞ。結婚したら朱草(しゅそう)もわたしの術で長命になって、ずっと仲良く暮らそうな」

「うげぇ」

 こと戦乱の世においては、パッと咲いてパッと散るがごとく生きるのが人間というもの。

 朱草(しゅそう)は若いながらも、寿命を受け入れて自分が選んだ場所で最期を迎えたいという、少し達観した死生観を持っている。

「手を動かしてください、お師匠様。薬、足りてないんですから」

「はぁい」

 素采(そさい)は久しぶりに朱草(しゅそう)と会えたことが本当に嬉しいようだ。

 黙っていれば格好いいのに、と、朱草(しゅそう)も思わなくもない。

 おおむね善人ではあるし、患者に対する接し方も穏やかで、料理も上手い。

 見た目は言及するのが野暮というほど整っているし、何より、心から朱草(しゅそう)のことを好いてくれている。

 でも、応える勇気はなかった。

 恋や愛によって自分が変わってしまうのが酷く怖いからだ。

 朱草(しゅそう)素采(そさい)にわからないよう小さくため息をつき、作業へと戻った。

 そうこうしているうちに太医が戻ってきて、「賢妃もご懐妊でした!」と素晴らしい吉報をくれた。

「では、わたしもそろそろ時間なので、陛下のもとへと行ってまいります。先生、朱草(しゅそう)をよろしくお願いいたします」

「なんと、こちらこそ朱草(しゅそう)殿にはお世話になっておりますので。またいつでもお立ち寄りください、素采(そさい)先生」

「ええ、そうします」

 柔和な笑顔を浮かべ、出来上がった薬を山盛りおいて素采(そさい)は朝堂がある方へと歩いて行ってしまった。

 いなくなるとそれはそれで少し寂しいと思いつつ、朱草(しゅそう)は作業を続けた。

 残り香が鼻をくすぐる。

 自分の気持ちに気付かないよう蓋をしながら、先ほどまでそばにあったぬくもりを感じないように目を逸らした。


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