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第三集:血

 最初の事件は音もなく起こった。

 つまり、毒である。

 狙われたのは皇帝の妃嬪(ひひん)の一人、(おう)氏。

 酷い吐き気と腹痛で寝台から立ち上がることすら出来ない状態だという。

「行ってきてちょうだいな、朱草(しゅそう)

「はい、貴妃様」

 朝早く呼び出された朱草(しゅそう)は、事の次第を(ぜん)貴妃と女官頭から聞き、さっそく(おう)氏の(ぐう)へと向かった。

「すみません、宮正(ぐうせい)朱草(しゅそう)と申します」

 門前で声をかけると、女官が二人やってきた。

「ああ、あなたが新しい宮正(ぐうせい)ね……。まだ子供じゃない!」

「まあまあ。貴妃様が選んだのだから優秀なのでしょう。さぁ、こっちよ」

 少しとげとげしい態度が気にはなったが、後宮の女官はこういうものなのだろうと割り切ることにした。

 ちなみに、禪貴妃の計らいにより、朱草(しゅそう)の薄緑色の深衣は動きやすく機能的なものへと変更することを許された。

 女官には珍しく、筒状の下履き(ズボン)を許可されたのだ。

 靴を脱ぎ、室内へと入って行く。

 嗅いだことのある、とある生薬のにおい。

 背中に冷や汗が流れた。

 もしこれがわざとなのだとすれば、犯人は死罪に値する罪を犯したことになる。

「こっちよ。汪妃様、宮正が参りました。お加減はいかがですか」

 汪妃の側には五人の女官が入れ代わり立ち代わりに世話をしに来ている。

 汗が酷い。何度も清拭し、着替えさせているのだろう。

 微かな血と分泌物のにおい。

 師匠の薬舗(やくほ)で何度も目にした光景に酷似していた。

「常備薬を見せていただけますか」

 朱草(しゅそう)の言葉に、一番若い女官が急いで薬箱を取りに行った。

 汪氏の脈を測る。

 早い。

 そして、あるべきはずの反応が消えかかっている。

 薬箱が届いた。

「全員、外へ」

「は、はあ⁉ 汪妃様のお世話があるのに……」

「死なせたいんですか?」

 朱草(しゅそう)の言葉に、女官たちは口元を覆うように怯えると、すぐに外へと出ていった。

 (ぐう)の前には太監が三人控えている。

 念のためだ。

「汪妃様、妊娠何ヶ月ですか」

 汪氏の呻きが一瞬止まった。

「な、なんのこと……」

 朱草(しゅそう)が常備薬の中から取り出した一瓶。

 ふたを開け、中から数粒取り出した。

「一見するとただの整腸薬ですが、この一粒は違います」

 汪氏の顔がひきつる。

 それは痛みによるものではなく、罪悪感と、恐怖から来るものだった。

 朱草(しゅそう)はその表情から事情を察し、心に静かな怒りが湧くのを感じた。

「マチンという、はるか西方にある植物を使った薬。その毒性は強く、妊婦が飲むと、高確率で堕胎します」

 汪氏は先ほどまで真っ赤だった顔が蒼白になり、腹部を抱えながら、まるで悲劇の主人公のように泣き出した。

「こうするしか……、こうするしかなかったのよ! 陛下が夜伽(よとぎ)に来てくださらないのが悪いんだわ!」

「誰の子だったのですか」

「……言えない」

 この期に及んで汪氏は相手をかばいだした。

「もし言わないのなら、罰を受けることになります。死罪は免れても、寒扇廷(かんせんてい)行きは決まったようなものです。あなたに仕えている女官たちもですよ」

 汪氏は弾けるように顔を朱草(しゅそう)へ向けると、睨みつけた。

「な、なんであの()たちまで!」

(ちつ)から血が大量に出たでしょう? 月のものでもないのに」

「そ、そんなの、他の病気だと思ったかも……」

「あなたは後宮に勤める女官が馬鹿だとでも思っているのですか?」

「う……、ううう……」

 今度ばかりは本当に心から泣いているようだった。

「……宦官(かんがん)よ」

「宦官? でも、彼らは生殖器を失っているはずですが」

「紛れ込んでいるの。私が招き入れたのよ。夜の相手をさせるためにね。ただの妃でも、それくらいの優遇は出来るのよ。彼は……、ええ、そう。何も失っていないわ」

「名前は?」

「……(かく)

「何故そんな危険を冒したのです」

「あなたにわかる? 『一生をただ一人の男と添い遂げること。ただ、男は自由に女をとっかえひっかえできるものとする』最低な契約よ。私が陛下に抱かれたのは初日のただ一度だけ……。馬鹿みたいね」

 汪氏は涙を流しながら(わら)うと、諦めたように疲れた目で朱草(しゅそう)を見つめた。

「わかった? 後宮はこういうところなの。あなたがどんな理想を持って後宮(ここ)に来たのか知らないけれど、これからもっと見ることになるわよ。醜悪な女の意地をね」

 血が流れ出した。

 汪氏が痙攣している。

「お、おねがい……、死なせて……」

 朱草(しゅそう)は袖から紐を取り出して両袖を捲り結ぶと、汪氏の足をがばっと左右に開いた。

「絶対に死なせません。あなたは、生きて後悔するべきです。失った、この小さな命のために」

 「太医を呼んでください!」と、朱草(しゅそう)は叫んだ。

 女官たちは異変を感じ取り、泣き出している。

 今出来る最善のことをしなければ。

 朱草(しゅそう)は女官に向かって叫んだ。

「清酒を持ってきてください。早く!」

 泣きじゃくる女官たちの中で、先ほど薬箱を運んできた一番若い女官が涙を拭い、走った。

朱草(しゅそう)様、こちらを!」

 ふたを開け、においを嗅ぐ。

 混ざり物のない、高級な酒。

「上等です。次は(きん)で出来た簪をあるだけ全部持ってきてください」

「は、はい!」

 朱草(しゅそう)は運ばれてきた簪の中から飾りの少ないものを選び、清酒で清めた。

 そのあとは時間との勝負だった。

 堕胎の処置は、師匠のそばで何度も経験した。

 手順通り、正確に。

 太医の到着までに、出来ることを、可能な限り。

「あなたは汪妃の呼吸を確認し続けてください」

「わ、わかりました」

 若い女官は流れ出す涙も気にせず、汪氏の手を取り、話しかけ続けた。

 数分後、やってきた太医に場所を開け、素早く処置は行われた。

 気付かなかったが、朱草(しゅそう)の深衣は汪氏の血液で赤黒くなっていた。

 額の汗が目に入る。

 手も真っ赤。

 目を瞑っていると、誰かが汗を拭ってくれた。

「あ……。ありがとうございます」

 若い女官だった。

「うっ、うう……。ありがとうございました!」

 そう言って泣きながら、若い女官は何かを手渡して仲間の女官たちの元へ走り去ってしまった。

 何だろうと中を開くと、朱草(しゅそう)の目に汗以外の雫が浮かんだ。

『母を救ってくださり、ありがとうございました。この手紙は燃やしてください』

 膝から力が抜けた。

 そうか、そうだったのか、と、朱草(しゅそう)は座り込んだ。

(亡くなった赤ん坊は、男児だったのか……)

 朱草(しゅそう)にはまだよくわからないが、妊婦の中には、食の好みの変遷やつわりの強さで、孕んだ子供の性別がなんとなくわかる人がいるのだという。

(産むわけにはいかなかったんですね、汪妃様)

 不義の子が歩む人生は心身ともにとても苛烈で、過酷だ。

 彼女は子供をないがしろにするような母親ではなかった。

 それはあの若い女官の表情が教えてくれている。

 母親を思う、優しくあたたかな目。

「どうすればいいの……」

 何と報告すればこの母娘(おやこ)を救えるのだろう。

 正義とは? 正しさとは? 秩序とは?

 その時、禪貴妃に言われた言葉を思い出した。

――自由にやってごらんなさい。

 自由には大いなる責任が伴う。

 それでも、自分に出来ることがあるのなら。

 朱草(しゅそう)は立ち上がり、仕事を終えた太医に近づいた。

「おお、あなたが新しい宮正(ぐうせい)ですね。お見事です。まさか、医術にも明るいとは……」

「お話があります」

「……わかりました。貴妃様が選んだというあなたの言葉、しっかり聞かせていただきましょう」

 太医は神妙な顔で頷き、二人は宮の小さな中庭へと向かった。

「まずあなたが知りたいのは、汪妃がまた妊娠可能か、ということでしょうか」

「そうです」

「難しいでしょう。お飲みになった毒が強すぎたようです。この先、排卵があるかどうか……」

「わかりました。では、それを陛下へ伝えてください。なるべく、大袈裟に」

「え、でも……」

 太医は朱草(しゅそう)の表情からあることを察し、頷いた。

「ご実家へ帰すのですね」

「そうです。餞別として、女官を一人つけて」

「……いいでしょう。病名はどうしましょうかね」

「お任せいたします。どうか、どうか……」

 朱草(しゅそう)の悲痛な様子に、太医はその後の言葉を優しく手で制した。

「これは貸しです。といっても、すぐに返せとは思っておりませんので。この先、何かありましたら、お力添えをよろしくお願いいたします」

「もちろんです」

「あなたの正義、受け取りました」

 そう言うと、太医は仕事道具をまとめ、太監に付き添われて戻っていった。

「わたしには、足りないものが多すぎますね」

 天を仰ぎ、流れ出る涙をぐっとこらえるように口を引き結ぶ。

 懐から懐紙を出し、目元を拭うと、くしゃりと握りつぶした。

「まだ、やることが残っている」

 この騒ぎに乗じて逃げただろうか。

 いや、もし宦官として働いているのなら、皇宮にいるはずだ。

 それも、陛下の近くに。

 朱草(しゅそう)は宮の女官たちに包拳礼をすると、禪貴妃の宮、悠禪宮(ゆうぜんぐう)にある自室へと向かった。

 途中で会った女官頭には「湯浴みしなさいな」と言われたが、「着替えはします。ただ、消してはいけないにおいがあるのです」と、断った。

 顔だけ綺麗に拭い、新しい深衣に着替える。

 身体中から血のにおいがする。

 でも、そうしなければならないのだ。

 朱草(しゅそう)はすぐに悠禪宮(ゆうぜんぐう)を後にすると、皇宮へと向かった。

 (かく)という宦官はすぐに見つかった。

 なぜなら、宦官の中において一人だけ、髭の跡が濃いからだ。

「すみません」

「え、あ……、えっと、私に何か御用ですか?」

 鶴は一瞬顔をしかめた。

「これ、何のにおいかわかります?」

「え、ど、どういう……」

 朱草(しゅそう)は声を大きくして言った。

「お可哀そうに、汪妃様は御病気で……。もう妊娠できない身体となってしまったようなのです」

 周りにいた宦官や太監たちがぎょっとしたような顔で朱草(しゅそう)と鶴の方を見た。

 鶴は顔面蒼白になっている。

「そ、それは、あ、あの、た、大変で……」

「ええ、本当に。このままではご実家へと戻ることになりそうです。そこで、道中を共にしてくださる方を探しているのですが……」

「わ、わわ、私が同行いたしましょう! 陛下の大切な妃。お、おお、お一人では何かと大変でしょうから……」

「本当ですか! ありがとうございます! では、わたしは貴妃様に報告してまいりますね。良い同行人が見つかった、と」

「あ、は、はい……」

 朱草(しゅそう)は鶴に近づき、そっとつぶやいた。

「道中、汪妃様に何かあったら、あんたを探し出して本物の宦官にしてやるからな」

 鶴はひゅっと息を吸うと、何かがチクリと首筋に当たったのを感じ、朱草(しゅそう)を見た。

 その手に握られていたのは、汪氏が持っている簪の中の一本だった。

「そ、そそ、それは……」

「逃げようなんて思わないことです。ね?」

 朱草(しゅそう)は微笑むと、颯爽と次の目的地へと向かって行った。

 途中、慌てた太監たちに止められたが、笑顔で振りきった。

 長い階段の先。

 重い扉の中、禁軍の兵たちが慌てる中をかいくぐりながら入って行く。

「皇帝陛下に拝謁いたします」

 ちょうど休憩していたのか、玉座に座り何やら書物を読んでいた皇帝は、目を丸くして稽首(けいしゅ)する朱草(しゅそう)を凝視した。

「……楽にしろ。君は……、たしか、貴妃が迎え入れた新しい宮正の……」

() 朱草(しゅそう)と申します」

「それで、いったいなぜここへ?」

「恐れながら陛下。側近くによってもよろしいでしょうか」

 近くに控えていた太監と、禁軍大統領がにわかに色めき立った。

「二人とも、大丈夫だ。貴妃が気に入っている女官だぞ。安心しろ。朱草(しゅそう)と言ったな。近くに来ることを許す」

「ありがたき幸せ」

 朱草(しゅそう)はゆっくりと近づいて行くと、風を読み、風上に立った。

「……血か」

「左様です。これは憐れな女の血のにおいです」

 朱草(しゅそう)の言葉に、皇帝はいぶかしげに問うた。

「何が言いたい」

「ただ、覚えていてほしいのです。女が悲しみの果てに流すのは涙などではなく、血なのだと」

 皇帝は朱草(しゅそう)をじっと見つめると、「そうか」とつぶやいた。

「心に留めておくことにしよう。朱草(しゅそう)、その強さは親譲りか?」

「わたしの両親はどちらも心優しく、人を脅すなど絶対にいたしません」

 朱草(しゅそう)の何も隠さない言葉選びに、つい皇帝は噴き出してしまった。

「ふふ、あはははは。そうか。どうやら(ちん)も君が気に入ったよ。さすがは貴妃。見る目があるな」

「お褒めにあずかり光栄です」

「では、下がるといい。次はぜひとも好意的な会話をしようではないか」

「楽しみにしております」

 朱草(しゅそう)は微笑み、唖然とする太監と禁軍大統領に見つめられながら退室した。

「へ、陛下、あの者の態度はあれでよかったのですか?」

「いいではないか。なんせ、貴妃が選んだ宮正だぞ? 後宮で悪さをする者は、朕であっても許されない。彼女は自分の正義の元で動いたのだ。良い武人になりそうだな。そう思わないか? (じん)大統領」

「は、はぁ、まあ、そうですね。気骨のある女性だとは思います」

「ふふふ。楽しみだ。これから後宮がどうなっていくのか」

 玉座から見える青空は、なんと狭いことか。

 朱草(しゅそう)は大階段を降りながら思った。

「正義なんて、そんな重い言葉で言われても嬉しくないな」

 ただ、助けたかっただけ。

 手を差し伸べることが出来る距離だったから、そうしただけ。

 朱草(しゅそう)は小さくため息をついた。

 どんな言葉も、この大きな中原大陸では風にのまれてしまう。

 それでも話さなくては。

 伝えなくては。

 歩き続けなければ。

 朱草(しゅそう)はふと香ってきた自身のにおいに、「こりゃ、思っていたよりもひどいかも」と思い直し、湯浴みしに悠禪宮へと戻ることにした。

 爽やかとは程遠い、でも、どこか晴れ晴れとした気分だった。


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