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第二十九集:愛

 空には白い月が輝き、秋を感じさせる涼しい風が吹いている。

 漂う血のにおい。

 包帯を変える春碧(しゅんへき)の手に血が移った。

「何もここまでしなくても……」

 その声の先にいるのは、痛みに顔を歪める武央。

「春雷隊と朱草(しゅそう)もそうだが、(そう)国の武人がどれほどの強さなのかも見極める必要があったのでな」

 武央は自身の肌を滑る春碧(しゅんへき)の手を取り、指先に口づけをしてその身体を引き寄せた。

「宋国側には、私に協力すれば異民族からの脅威がなくなるという条件で交渉している。こちらも命を懸けているのだ。あちらにも、犠牲を払ってもらう。それに……」

 腕の中でうっとりと見つめて来る春碧(しゅんへき)の頬に触れ、その温かさを確かめる。

()氏が皇位を取り戻した暁には、宋国内に散らばる同胞たちが全員(れい)国へ戻ってくる。大国同士の絆は強固なものとなり、いずれ浸食していく……」

 唇が触れ合う寸前、春碧(しゅんへき)が大きく咳き込んだ。

「うっ、うう」

 武央は苦しそうに顔を歪める春碧(しゅんへき)の顔を優しく包むと、接吻(キス)をした。

 すると、春碧(しゅんへき)の身体は脱力し、また恍惚とした表情へと戻っていった。

「今日はもう戻ると良い。部下に送らせる」

「そんな、まだ一緒に……」

 武央は春碧(しゅんへき)の細い体を支えながら立たせると、まるで宝物を包み込むように抱きしめた。

「またすぐに時間を作るよ」

「……わかりました」

 名残惜しそうに離れる身体。

 偽りだとしても、熱い眼差しが胸の柔らかな部分を掴んで離さない。

 春碧(しゅんへき)は武央の部下に付き添われるように部屋を後にした。

「おい、玄天(げんてん)

 武央が呼ぶと、中庭にある灯篭の揺れる影から玄天(げんてん)が姿を現した。

「言氏世子の遺体なら、ちゃんと返してきましたよ」

「話はそれじゃない」

 武央の目が不思議な光を含みながら揺れた。

「ああ……、なるほど。催眠薬の効き目が弱まってきましたねぇ。あのニンゲン、さすがは朱草(しゅそう)殿の姉。内功(ないこう)が強い。きっと訓練すれば相当の武術の使い手になれますよぉ」

「操り続けるにも限界があるということか」

「まぁ、もっと強い催眠薬を使えばいいだけですが。あの内功の強さなら……、あと二段階は耐えられるでしょう。ただ、三段階目に到達すると、あのニンゲンはそれこそ壊れてしまうでしょうねぇ。武央殿にとっては一つの駒にすぎないから良いのかもしれませんけど」

 玄天(げんてん)は小首をかしげながら微笑んだ。

「そうか。今の薬ではあと何日持つ?」

「長くて一週間でしょうねぇ」

 武央は唇に残る甘い痺れを指でなぞりながら、ふっと笑った。

「では、次の段階の薬を用意しておいてくれ。一週間後から使い始める」

 玄天(げんてん)は目を見開き、「ああ、はい」と珍獣でも見るような目で武央を見た。

「すぐに強い薬を使わないのは……、気に入られたからでしょうか」

「お前には関係ない」

 武央はそれだけ言うと、桶に入った湯で傷口を拭い始めた。

「地下室には勝手に行ってくれ」

 玄天(げんてん)は「そうします」とつぶやくと、いつものように棚の隠し戸から地下へと降りていき、食事を始めた。





 晴れて春雷隊隊員となった朱草(しゅそう)だったが、日々の仕事は変わらず、宮正(ぐうせい)として駆けずり回っていた。

「えっと、次は……」

 後宮を出て、皇宮に向かう最中。

 ふと、風が動いた。

(みんな頑張ってる。わたしもしっかり仕事をこなさなきゃ)

 この間起こった商談での襲撃事件の余波は大きく、春雷隊の隊員たちは昼夜問わず、ずっと後宮と皇宮のあらゆる場所に配置されている。

 新参者の朱草(しゅそう)の「熱中症対策を徹底していただきたい」という提案を快く取り入れてくれた先輩隊員たち。

 身体を壊してしまっては、元も子もないからだ。

(それにしても、いくら商人の付き人に変装していたからといって、禁軍の厳しい検閲をどう潜り抜けて皇宮内に……?)

 あの場にいた全員が傷ついた。

 太監の中には命を失った者もいる。

(怪しいのは英宰相と皇后陛下の兄妹。あの二人なら、御林軍(ぎょりんぐん)に間違った情報を伝えて、到着を遅らせられる。実際、皇帝陛下の危機だったのに助けに来なかったし)

 ただ、わざわざ自分たちの命を危険にさらすだろうか。

 あと数秒でも禪貴妃と朱草(しゅそう)の登場が遅れていたら、武央は身体の一部を失っていてもおかしくなかった。

「わかんないや」

「何がわからないのだ?」

 突然顔を覗き込まれ、ひゅっと息が止まる朱草(しゅそう)

「おおお、お師匠様!」

「診療所に行ったら、今日は来ていないと聞いたから、探していたのだ」

 優しい笑顔。

 薬草の清廉な香り。

 何もかもが、愛おしく思える。

「そうだ。朱草(しゅそう)、これを君に」

 素采(そさい)が懐から出したのは、綺麗な白い木で作られた細長い箱だった。

「なんですか?」

「春雷隊、入隊おめでとう。少し前から用意しておいたんだ」

 受け取り開けてみると、中に入っていたのは、純白の金属に、揺れる紅梅の花をかたどった飾りがちりばめられている簪だった。

「綺麗……」

「季節は過ぎてしまったが、君と、君の名に敬意を示してそうしたんだ」

「え、わたしの名前ですか」

朱草(しゅそう)。朱き強くしなやかな植物。紅梅はぴったりだろう? 薬術的に重要な花だし」

 朱草(しゅそう)は驚いた。

 目の前で嬉しそうに微笑んでいるひとは、『草』を『花』だと言う。

「まあ、君はもっと美しい花になるだろうから。将来が楽しみだな」

 今かもしれない、と、思った。

 朱草(しゅそう)素采(そさい)の袖に触れ、「あ、あの……」と、気持ちの一端を伝えようとした瞬間、ある人物が近づいて生きた。

「これはこれは、朱草(しゅそう)殿と素采(そさい)先生ではありませんか」

「英宰相。ごきげんよう」

 朱草(しゅそう)素采(そさい)は少しだけ距離をとり、素采(そさい)がにこやかに応える。

「軍医の質が向上し、戦場での感染症罹患率が大幅に下がったとか。さすが先生です」

「ありがとうございます」

 その時、武央が何かを落とした。

 それを拾い上げる素采(そさい)

「どうぞ。素敵な筆ですね」

「すみません。まだ怪我の痛みで上手く腕が動かせず。朱草(しゅそう)殿に救っていただいたこの命。国のために一生懸命尽くすつもりです。では、私は妹……、皇后陛下に呼ばれておりますので」

「はい。ではまた」

 武央は素采(そさい)から受け取った物を懐へ戻すと、そのまま後宮へと歩いて行った。

「……お、お師匠様、その手!」

「ううん、わざとだろうな。これは、私の正体が露見しているかもしれない」

 素采(そさい)の手のひらにはくっきりと火傷のような痕が残っていた。

「あの筆の持ち手、純鉄だ」

 仙子(せんし)族をはじめとする多次元波長をもつ幻想種族は、退魔の力を持つ〈鉄〉に弱い。

「で、でも、この暑さで煙は……」

「いや、わずかに立ち昇ったものを見逃さなかったさ」

「どうなるんでしょうか」

「ううん、追い出されないとは思うが……。さて、どういうつもりなのだろうな」

 素采(そさい)はこの状況を少し楽しんでいるようだ。

 不敵な笑みを浮かべている。

 ふと目が合うと、素采(そさい)はまたあの優しく甘い眼差しに変わった。

「それはそれとして……。朱草(しゅそう)。さっき、何を言おうとしてくれていたのだ?」

「えっ」

 涼しい風。

 頬が熱くなっていくのを感じる。

 鼓動が胸を強く打ち、言葉が詰まる。

「聞かせてほしい」

 期待のこもった瞳。

 いつまでも機会を待っていたら、言いそびれるかもしれない。

 朱草(しゅそう)は深呼吸をすると、素采(そさい)の目をまっすぐと見つめた。

「十八歳になったら……、お師匠様の願いを叶えます」

 素采(そさい)は息を大きく吸いこんだ後、これまでにないくらいの輝いた笑顔で頷いた。

「嬉しい。ありがとう、朱草(しゅそう)。間違いなく、私は今、この世界で一番幸せだ」

「お、大袈裟ですよ」

「真実だよ」

 素采(そさい)朱草(しゅそう)の手をそっと握ると、持ち上げ、甲に口づけした。

「ちょ、ちょっと! ここは往来ですよ……」

「誰も見ていないが、本当なら、みんなに見せつけたいくらいだ」

「う、うう。相変わらず、恥ずかしいひとですね」

「ふふ。何と言われても、今はただただ幸せだ」

 もうすぐ夏が終わりを告げる。

 それでもこんなにも身体が熱いのは、きっと、二人を包む穏やかな愛のせい。

「まだこうしていたいけれど、仕方ないから今日も働いてくるよ」

「わたしも、後宮と皇宮の平和を護ってきます」

 素采(そさい)朱草(しゅそう)の手を名残惜しそうに離すと、禁軍の詰め所へと向かって行った。

 朱草(しゅそう)は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出しながら天を仰いだ。

 晴れているのに、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

 気温が下がっていく。

 それはここ、皇宮も同じだった。

 朱草(しゅそう)が心の底から感じているあたたかな幸せとは裏腹に、冷たい気配が、ゆっくりと浸食を始める気配がした。


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