第二十四集:倫理
「そうか。犯人を捕まえる過程で、玄天とかいう禍人を見つけた……、というか、見つかった、と言った方が正しいか」
陽が落ち始めた夕刻。
診療所の椅子に座り、空を眺めながめている素采。
朱草は長い一日にあった出来事をすべて話して聞かせた。
「はい。突然現れたんです。おそらく……、わたしでは敵いません」
「禍人にも格というものがある。彼は流暢に人の言葉を放し、名前まであるとなると……。ううん、私でも手を焼くかもな」
「そ、そんなに強いのですか?」
「強いというか、邪悪なのだ。それなのに、ある一定の倫理観を持っている。知性が養われたからこそなのだとは思うが……」
倫理観、という言葉が、朱草にはひっかかった。
「倫理観、ですか? わたしを殺したのに?」
「そこが厄介なのだ。ある一点においては、禍人よりも人間の方がよっぽど醜悪だ」
素采は溜息をつきながら、隣に座る朱草の髪を指で掬い、接吻した。
「ちょ、ちょっと! ここは診療所ですよ!」
「すまない。でも、そろそろ何かしら返事が欲しいのだが?」
素采の美しい顔に柔らかな夕陽の光が降り注ぎ、余計に艶やかで。
朱草の胸は甘い痛みに鼓動が早まった。
「も、もう少しだけ、準備期間を頂けませんか」
夕陽など関係ないほどに真っ赤な顔の朱草を見て、素采は嬉しそうに微笑んだ。
「いくらでも待つよ。ちょっとだけ、君の困った可愛い顔が見たくて。意地悪をしてしまった」
「そ、そそ、そうですか」
家族からの愛とは違う。
家族への愛とも違う。
足元がふわりと浮かぶような、柔らかな焦燥。
一緒になれたなら、永遠の安心を得るだろう、そんな気がする。
ただ、そのあたたかな空気を一度知ってしまえば、夢にたどり着きたいという意思が弱ってしまう気がして怖い。
(わたしは、武功を立てたい。春雷隊に入って、武人として認められたい)
涼しい風が通り抜ける。
火照った頬は、それでも熱がひくことはなかった。
☆
皇宮から出て、街を歩く。
一見、明るく活気のあるように見える。
仕事終わりの人々が、屋台や店先にある机と椅子だけの簡素な場所で、食事や酒を楽しんでいる。
上長の愚痴や、家族の悩み、街行く女性の艶やかな色気など、話題は尽きない。
子供たちが走っている。
それを嬉しそうに眺める老人たち。
その横を、影となって通り抜ける。
少しずつ、少しずつ。
街の影は濃くなっていく。
「嫌! やめてください!」
甲高い悲鳴。
声のする方へと歩いていくと、そこには皇宮でよく顔を見る高級文官の息子と、その護衛。
そして、男たちに囲まれて怯えている女がいた。
埃くさい、お世辞にも清潔とは言い難い、人気のない場所。
「おい、俺が誰か知ってるだろ?」
そう言って高級文官の息子は、護衛に提灯を持ち上げさせた。
「言侯の長子で跡継ぎ……、つまり、世子だぞ? そんな俺に遊んでもらえることを光栄に思うがいい」
言世子は「お前たちは見張ってろ」と護衛に言い、女を押し倒してその胸部の布を引き裂き、足を押し広げた。
護衛の男と目が合う。
「何だお前……」
弱い。
簡単に首が落とせた。
「こんなので、よく護衛を名乗れますねぇ」
玄天の声に驚いたもう一人の護衛が、反対側の路地の見張りから走って来た。
「う、うわあ!」
目の前で血を流し死んでいる仲間の姿に驚いたのだろう。
怒りに任せて殴りかかってきた。
「遅いですね。あの娘の方がよっぽど速かったですよぉ」
玄天は男の拳を掴むと、身体が浮くほど持ち上げ、地面に叩きつけた。
男の口から血が溢れ、折れたあばら骨が肺に刺さってひゅーひゅーと音を立てている。
あぶくとなって流れ出る血が汚らしい。
「な、なんだ……」
女の身体に夢中だった言世子は、粗末なものをいきり立たせたまま、こちらへ振り向いた。
女は泣きながら「いや……」と言っている。
その頬は赤く腫れ、足には無理やり開かれたために打撲のような青い痣が浮かんでいる。
「ふむ、宰相様のほうが立派で美しいですね。ニンゲンの男の局部は、地位と比例すると思っていましたが、あなたのは違うようです」
言世子は顔を真っ赤にしながら深衣の前をしめ、絹の筒下履を履くと、地面に置いていた剣を拾い上げた。
「おやおや、あなたの護衛でも勝てなかったワタシに挑む度胸があるのですねぇ。素晴らしい!」
「馬鹿にするな!」
玄天は少しだけ考えた。
この男は殺してもいい存在だろうか、と。
(宰相様から渡された『不殺人物表』を確認しないと)
玄天は言世子の、お世辞にも美しいとは言い難い太刀筋をひょいひょいと避けながら、懐から取り出した表を眺めた。
「舐めるなよ! このガキ!」
「おっと、お父上の名前はありますが、あなたの名前はないみたいですねぇ」
その瞬間、玄天は言世子の、剣を持っている方の腕を掴むと、へし折った。
「うああああ!」
ぶらりと揺れる腕。
すぐに色が変わり始めた。
「な、何を……」
玄天は落ちた剣を拾い、言世子の首に刺した。
「心臓を引き抜くまでは、死なないでくださいよ」
手をまっすぐ言世子の胸へと差し込み、命を刻む甘い心臓を取り出した。
「ふむ、不摂生のせいでしょうか。それとも性病? どちらにせよ、不味そうですね」
玄天は口を大きく開け、一口でそれを食べた。
「うん、不味いですね」
残ったのは成人男性三人の遺体と、まだ泣いている女。
「あの、一人でここから帰れますかぁ?」
女は自分も殺されると思っていたのか、驚いたような顔で「え、はい……」とつぶやいた。
「貞操の方は大丈夫でしたか?」
「い、一応、未遂でした……」
「それはよかったです。あ、申し訳ないのですが、もしまだ元気がありましたら、ここでのことを黙っていてもらえますかね? 錦鏡衛のみなさんたちには良い感じの嘘をお願いします」
「も、もちろん、そうします」
「どうも。では、さようならお嬢さん」
玄天は黒い煙となってその場から消えていった。
路地には悲鳴を聞きつけた野次馬が少しずつ集まり、さらに悲鳴がこだまする事態となった。
女は玄天との約束通り、やってきた錦鏡衛に「手籠めにされそうだったところを、見知らぬ武侠の方が助けてくださいました」と話した。
人相を聞かれると、「言の世子様に目隠しをされておりましたので、何も見ておりません」と答え、詳しいことは何も知らないという態度を貫いた。
錦鏡衛は女の破れた衣服や数々の打撲痕から、言っていることは真実だと判断し、事件はこれ以上捜査されることなく終わりを迎える。
ただ、事件の報告を受けた梔子はあることに気付き、頭に浮かんだ人物のもとへと急いだ。
「先生、見ていただきたいものがあります」
梔子の真剣な表情に素采はすぐに緊急なのだと悟った。
そして二人で遺体安置所へ向かうと、そこには遺体は無く、血の一滴も落ちていなかった。
「やられた……」
「ここに不審な遺体があったのですね?」
「そうです。おそらく、朱草を襲った犯人と同じ人物の仕業だと思われます」
素采の鼓動が跳ねた。
「何故そう思われるのです」
「心臓が抜かれていたからです」
梔子はあのとき、朱草の遺体だったものを目撃している。
なぜなら、現場は皇宮。
通報を受け、最初に到着したのが梔子だったからだ。
「貴重な情報、ありがとうございます」
「棠梨様は今も朱草を傷つけた犯人を捜しておいでです。しかし……」
「ええ。危険な相手です。近づけさせるのは得策とは言えないでしょう。私から、棠梨様にはお話いたします」
「感謝します」
そう言うと、梔子は頭を下げ、立ち去ってしまった。
「まだ普通の会話は無理か……」
それでも、哀しい思い出がよみがえる素采の元へ、わざわざ来てくれたのだ。
梔子はとても器が大きく、優しい。
彼にも傷ついてほしくないと、素采は願っている。
「さて、朱草にはどう伝えよう……。そうか、一緒に棠梨様の元へ行けばいいのか」
素采は自分の考えに満足しながら遺体安置所を後にした。
夜がやってくる。
それはこの世ならざる者たちの時間。
生よりも、死が語り掛けて来る。
それをどう振り切るかは、生ける者の永遠の課題だ。




