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第二十集:姉

 太監(たいかん)たちに「淑女が走ってはなりませんよ!」と注意されながら皇宮を駆け抜け、後宮へ入り、悠禪宮(ゆうぜんぐう)にたどり着くと、すぐに靴を脱いで禪貴妃の元へと向かった。

 早歩きで(ひさし)を進むと、途中で侍女頭の桜蓮(おうれん)に会い、何か事情を知っているのか「落ち着いて話をしなさいね」と言われた。

 (ぜん)貴妃の居室の前で(ひざまず)こうとすると、中から「朱草(しゅそう)、入りなさい」と言われ、中へ入る。

「お、お姉ちゃん……」

 禪貴妃に挨拶するのも忘れてしまうほど、その姿は衝撃的だった。

 女官装束に身を包んだ春碧(しゅんへき)は、宝石がちりばめられた百合の花のように美しく、そして、何かがおかしかった。

朱草(しゅそう)、まずは貴妃様にご挨拶でしょう?」

 話し方に違和感はない。

 それでも、姉妹の絆が警鐘を鳴らしていた。

「す、すみません」

「いいのよ、朱草(しゅそう)。だって久しぶりの姉妹の再会だもの。ここでゆっくり話していいわ。私は賢妃にお茶しましょうとお呼ばれしているから、行ってくるわね。戻ってきたら、私ともお話ししましょう」

 そう言うと、禪貴妃は優雅な所作で立ち上がり、衣擦れの音だけを響かせながら侍女たちと部屋を後にした。

 気まずい沈黙。

 いや、気まずいと感じているのは朱草(しゅそう)だけかもしれない。

 春碧(しゅんへき)は今も微笑みながら、朱草(しゅそう)を優しく見つめている。

「怪我をしたと手紙にあったけれど、もう大丈夫なの?」

「う、うん。一ヶ月療養させていただいたから、もう元気だよ」

「そう。よかったわ。元気になったよって、実家に手紙を書いてね」

「うん。あとで書いて出しておく」

 当たり障りのない会話。

 そういう返事しかできなかった。

「……聞かないの?」

「な、何を?」

 朱草(しゅそう)のこわばった表情に、春碧(しゅんへき)は困ったように微笑んだ。

「どうして後宮に来たのか」

「あ、えっと、その……。聞いてもいいの?」

「もちろんよ。姉妹だもの」

 春碧(しゅんへき)は立ち上がり、悠禪宮の庭に咲く季節の花々を眺めながら話し始めた。

「先月の初めにね、御祖母(おばあ)様の使いの方が、私に素敵な反物(たんもの)を持ってきてくださったの。婚約のお祝いって」

 先帝の姉であり、今上(こんじょう)帝の伯母にあたる朱草(しゅそう)たちの祖母は、祖父と共に長子家族とその領地で穏やかに暮らしている。

 孫たちのことを常に気にかけており、誕生日や成人祝いなどの人生の節目のみならず、頻繁に贈り物をくれる。

「父の提案で、その使いの方にお泊り頂いたの。御祖父(おじい)様の領地は遠いじゃない?」

 春碧(しゅんへき)はゆっくりと歩いて朱草(しゅそう)の前へ戻ってくると、先ほどと同じ場所に腰を下ろした。

「庭を案内していたの。そうしたら、使いの方が『妹にお土産を買いたい』とおっしゃって。近くにある(かんざし)屋さんにご案内したの……」

 春碧(しゅんへき)の顔が曇っていく。

「そこでね、見てしまったの。婚約者が、私の全く知らない女性と仲睦まじくしているのを……」

「し、姉妹とか、従姉妹(いとこ)とかじゃなかったの?」

「婚約者の家は……、いえ、元婚約者よね。その、ご実家はね、驚くほどの男系で、女性の親族はお嫁さんたちしかいないわ」

 春碧(しゅんへき)の目に一瞬だが、憎しみの炎が燃えた気がした。

「私、思わずその場で問い詰めてしまったの。みっともなかったわ。でも、元婚約者は開き直ったのよ。『お前みたいに純真無垢なお堅い女、つまんないんだよ』って」

 目の端で何かが落下した。

 視線を移すと、咲いたばかりの花が、まるで()ぎ取られたように地面に横たわっていた。

「私は彼の頬に平手打ちして、その場から立ち去ったの。とてもみじめで、哀しくて、暴力をふるってしまった自分も信じられなかったわ……。ただ、心が砕けてしまったの」

 気のせいだろうか。

 空気が冷たくなったように感じた。

「使いの方には申し訳なかったわ。でも、使いの方はとても紳士で優しくて……。私に後宮へ入ることを勧めてくださったの。『皇后陛下が、美しくて聡明な女性を探している』って。だから私、その場で決めたの。私も、もう自由になるべきだって。朱草(しゅそう)みたいに」

 心臓が跳ねた。

 攻撃的な言葉でも、強い口調でもないのに。

 春碧(しゅんへき)の何かが、朱草(しゅそう)の胸に突き刺さる。

 心が痛い。

「これからは、同じ侍女としてよろしくね。仕える女性(ひと)は違うけれど、仲良く頑張りましょう?」

 背に冷たい汗が流れた。

 目の前にいるのは春碧(しゅんへき)だが、春碧(しゅんへき)ではない。

 それは次の言葉で確信に変わった。

「あまり、宰相様の邪魔はしては駄目よ、朱草(しゅそう)

 どんなときでも味方だった姉、春碧(しゅんへき)

 世界中の人々が朱草(しゅそう)を疑っても、たった一人信じ続けてくれるような、そんな絶対的な存在だった。

 でも、今目の前にいるのはそうではない。

 姉の皮を被った別人だ。

 だが、恐ろしいことに、煌仙子(こうせんし)の目に映る春碧(しゅんへき)は、朱草(しゅそう)の姉本人。

 いったい、どうなっているのか。

 朱草(しゅそう)にはわからなかった。

「お姉ちゃん……」

「ふふ。また話しましょう。私はもう行くわ。貴妃様によろしくね」

 春碧(しゅんへき)が立ち上がり、目の前を通り過ぎていく。

 聞こえるか聞こえないか、小さな声で「皇后陛下のお庭の方が美しいわね」とつぶやく春碧(しゅんへき)が恐ろしかった。

 以前の姉ならば、絶対に口にしないであろうことだからだ。

 朱草(しゅそう)も立ち上がり、見送ろうとその後を追うが、足が凍ってしまったようにうまく動かない。

「またね、朱草(しゅそう)

 春碧(しゅんへき)が遠い。

 こんなにも近くにいるのに。

 遠のいていく背中を見つめることしかできない自分の中で、大切なものが零れ落ちていく。

「わたしは、どうして失ってしまったの……?」

 春碧(しゅんへき)が立ち去った後の残り香も、全く知らないにおい。

 朱草(しゅそう)はその場に立ち尽くした。

 涙すら、流せないまま。





「どうだった? 久しぶりの再会は」

「相変わらず天真爛漫で……。可愛いけれど、腹立たしい存在でしたわ」

 皇宮内にある武央(ぶおう)の執務室。

 用意された椅子に腰かけ、春碧(しゅんへき)は武央を見つめながら妹との出来事を話した。

 武央は頷き相槌をうちながら、聞き入った。

「彼女は(いささ)か目障りでね。君が来てくれて本当に良かった、春碧(しゅんへき)朱草(しゅそう)を傷つけることが出来るのは、君しかいない」

 武央は椅子から立ち上がると、ゆっくりと春碧(しゅんへき)の背後にまわり、その身体を優しく抱きしめた。

「それに、こんなにも美しい女性(ひと)だとは、思いもしなかったよ」

 春碧(しゅんへき)は頬を桃色に染めると、身体を少し傾け、武央の頬に自分の頬を寄せた。

「私も、宰相様のような素敵な殿方に出会えるなんて思ってもいませんでしたわ」

 武央は「春碧(しゅんへき)……」とつぶやき、耳と頬に口づけした。

「どうか二人きりの時は武央(ぶおう)と呼んでくれないか」

「あら、いいのですか? 奥様が嫉妬されますわ」

「あれとはもう終わっている。こんなにも身体が熱くなるのは、君だけだ」

「武央様……」

 春碧(しゅんへき)は身体の位置を変え、武央の頬に接吻した。

 見つめ合う二人。

 その直後、むさぼり合うように唇が重なり、艶めかしい音と共に、武央の手が春碧(しゅんへき)の胸元や腰にまわった。

 甘く、刺激的な睦事(むつみごと)

 切ない吐息だけが部屋に響いた。

 どれほどの時間抱き合っていただろう。

 春碧(しゅんへき)は女官装束を正しく着直すと、しゃがみこみ、板間でそれを眺めていた武央に口づけをした。

「もう行ってしまうのか」

「侍女頭に怒られてしまいますわ」

「そうか……。またすぐおいで」

「ええ。すぐに」

 手を握り合い、そして名残惜しそうに腕を伸ばしながら、春碧(しゅんへき)は立ち上がって部屋を後にした。

「……玄天(げんてん)、いるのだろう」

「ええ、もちろん。宰相殿は本当に女性をだますのがお得意なのですね」

「人聞きの悪いことを言うな」

 武央は素早く深衣(しんい)を羽織ると、腰紐を軽く結んだ。

「男は処分したんだろうな」

「ええ、もちろん。なかなか美味しい心臓でした。遺体の残りは豚にあげちゃいましたよ。それよりも、ワタシの変化の術と催淫(さいいん)の術、見事だったでしょう?」

 玄天(げんてん)は少年のように飛び跳ねながら微笑んだ。

「ああ。()い女に見えたから、男が簡単になびき、春碧(しゅんへき)に怒りを植え付けることが出来たのだ。ただ、私まで別人に変身させられるとは思わなかったがな」

「だって、他の人に頼むのは不安でしたでしょう? それならば、春碧(しゅんへき)というニンゲンを連れ出すのはご自身でやった方が良いと思ったので」

 玄天(げんてん)は板間に座り、春碧(しゅんへき)が忘れていってしまった(かんざし)を持ち上げた。

「まあな」

 武央は自身の唇に残る女の刺激を指でなぞりながら笑った。

「女は乱れるとすぐに本性を表す。春碧(しゅんへき)も、心の奥底に相当の怒りを溜めていたのだろう。くくく……」

「あのニンゲンには、簡単な赫怒(かくど)の術しかかけていませんからね。まだまだ宰相殿の好きなように操れますよ」

「愉快だな、玄天(げんてん)。地下に十二人捕まえてある。好きなのを勝手に食べてくれ」

「おやおや、少し前まではあんなにも嫌がっていらしたのに」

「もう何とも思わんさ。順調にいっているときは特にな」

 武央は高らかに笑うと、玄天(げんてん)から(かんざし)を受け取り、それを指で(もてあそ)び始めた。

「では、食べてきます」

「ごゆっくり」

 玄天(げんてん)は触れることなく棚を動かし、地下室へと降りていく。

 地の底から聞こえる音の無い悲鳴。

 それすらも、今の武央にとっては歓声のように聞こえた。

 これから始まる、勝利につながる戦いへの賛歌として。


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