第十九集:知らせ
朱草が聖域の後宮へやってきてから明日で一ヶ月。
使わせてもらっていた部屋の片付けも終わり、今日は訓練の後、九天玄女が宴を開いてくれるという。
寂しくも、爽やかな朝。
「え、嘘でしょ⁉」
部屋に届けられた手紙を見て、朱草は思わず叫んでしまった。
「なんだなんだ、どうした」
優雅に茶を飲んで朱草の支度が終わるのを待っていた素采は、朱草が差し出してきた手紙を読んで目を丸くした。
「姉君が後宮へ入るのか」
「相思相愛だった男性に他の女性の影があるとわかり、別れたのだそうです。でも、後宮に入る必要など無いのに、どうして……」
「この手紙……、貴妃様からではないか」
「そうです。姉からの手紙を添えて、急ぎ知らせてくださったみたいですね。姉は……、皇后陛下の侍女になるようです」
素采は眉を寄せ、「ううん」と唸った。
「姉妹で仕える者が違うのは少々厄介だな」
「はい。何もかも意味不明です」
朱草の姉、春碧は、巷でもよく話題に上るほどの美貌をもち、頭もいいため、よく見合いの話がきていた。
それでも、好いた男のためにすべてを断り続け、一途を貫いていたのだが、どうやらそれが男にとって安心材料となり果て、「何をしても好いていてくれる」と勘違いされてしまったらしい。
「姉は柔和で穏やか、とても優しい女性ですが、根は頑固でさっぱりしています。もう、未練も何もないでしょうね。姉の婚約が解消されたとなれば、噂を聞き付けた男どもがこぞって求婚に来るはずなのに、わざわざ後宮へ入るのは何故なのでしょうか……」
手紙によると、両親ともに了承済みとのこと。
実家は弟が継ぐから良いとはいえ、腑に落ちない。
本当に、春碧の意思なのだろうか。
「まあ、明日後宮へ戻れば、少しくらい話す時間はあるんじゃないか? 君は宮正だから後宮内をある程度自由に歩く権限はあるのだし。貴妃様が知らせてくれたということは、会えるよう融通もしてくれるだろう」
「ううん……。それはそうかもしれませんけど……」
朱草は心のどこかに言い表せない不安を感じながら、今日を過ごした。
宴の間も、春碧に容姿の似た女官を目にするたびに思い出してしまい、どこか上の空だった。
そして翌朝。
聖域を発つ朱草と素采を見送るために、宮殿の外へたくさんのひとびとが見送りに出て来てくれた。
「いつでも戻ってきていいのですよ、朱草。あなたはもうわたくしの家族なのですから」
九天玄女から抱きしめられ、つい涙ぐんでしまう。
身体を離し、そのぬくもりを忘れないよう心に刻みながら微笑んだ。
「これを朱草に」
九天玄女の合図で太監が運んできたのは、翡翠の鞘に納められた美しい銀の剣だった。
「この銀の剣は人間界のものとは違い、鋼よりも強く、羽根のように軽い。それでいて、鋭く、しなやか。あなたにしか扱えないよう、仙術をかけてあります。どうか、どうか朱草が歩む道が安寧で光り輝く花道であるよう、心から祈っています」
涙がこぼれた。
袖で拭い、剣を手に取ると、それは内側から煌めきながら、扇へと形を変えて朱草の手の中へと納まった。
「あちらの皇宮や後宮では、帯刀してはいけない場所もあるでしょう?」
まるで悪戯を思いついた子供のような笑顔を浮かべる九天玄女は、美しく、そして可愛かった。
「ありがたく、頂戴いたします」
翡翠の扇を胸元へしまい、包拳礼をした。
「元気でね」
朱草と素采はみんなが見えなくなるまで振り返り、手を振り続け、禮国に向けて歩みを進めた。
「泣き止んだ?」
「泣いてなどいません」
「ふふ。もし、視界が良いようなら、飛んで帰るかい?」
「……そうですね。姉のことも心配ですし」
朱草は目元を拭うと、両手で頬をぱちんと叩いた。
「行こう」
素采が宙に浮かぶ。
朱草も地面を蹴り、身体を浮かべると、二人ではるか上空へ飛んでいった。
「この高さなら、鳥にしか見えないだろう。ま、いざとなったら姿を消そう」
「そうですね」
自分は本当に〈人間〉ではないのだと、足元に広がる風景を見て改めて感じた。
「そういえば、家族に怪我をしたという趣旨の手紙は書きましたが、人間ではなくなったという説明はしていません。どうすればいいでしょう」
「ううん、どうだろうか。以前は伝えた方が良いと思ったりもしたが……」
素采は言いづらそうにちらりと朱草を見た。
「姉が皇后陛下の侍女になったことがひっかかるのですね」
「その通り。別に、煌仙子が侍女になってはいけないなんて決まりは無いが、それはそもそもそういう存在が人間界では珍しいからだ。つまり、なんというか……」
「人間の恐怖心をあおるような悪評を流されれば、後宮のみならず皇宮、ひいては国中が混乱し、面倒なことになるといったところでしょうか」
「そこまで大袈裟には考えていないが、あの宰相殿はきっと利用するぞ。朱草が〈人間〉ではないという事実を」
「それはたしかに」
しばらく、家族には伏せておいた方がいいだろう、と、朱草は伝えないことに決めた。
そうすることで、護れるものもあるだろうから。
二人であれこれと話しているうちに、禮国の都を囲む壁が見えてきた。
「ここで降りて後は歩こう。城壁の兵に射られても困るからな」
「そういう可能性があることに、今言われて気付きました」
都から一番近い林の中に降りると、そこから行商人がよく使う道に出て、門目指して歩き出した。
たった一ヶ月離れていただけなのに、朱草には全く違う、知らない土地に感じた。
それはきっと、自分が〈人間〉ではなくなったことに起因しているのかもしれない。
(いや、違う。どうなろうとも、わたしはわたし。この胸騒ぎは、別のことが原因な気がする)
それは素采も感じているようで、皇宮がある方向を見つめながら顔をしかめた。
「気を付けよう、朱草」
「貴妃様と棠梨様の安全を確認しなければ」
「あのお二人はとても賢く、行動力もある。大丈夫だろう。ただ、何かがおかしい」
「早く行きましょう」
二人は急ぎ足で門へと向かった。
幸いにも、門番が素采の顔見知りだったため、特に引き留められることもなく中へ入ることが出来た。
「では、わたしは後宮へ。お師匠様はどうしますか?」
「私は棠梨様の元へ向かうよ。その方が君も安心だろう?」
「よろしくお願いいたします」
門前で二手に分かれ、それぞれ目的地へと足を進める。
嫌な気配は皇宮へ近づくにつれて強まってきた。
朱草は手をぎゅっと握りしめ、胸元におさめた翡翠の扇に触れた。
使うことが無いよう、願いながら。




