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第十八集:呪詛

「おはようございます」

 訓練を始めて二週間が経ち、聖域の後宮にも慣れてきた朱草(しゅそう)は、最近、よく通っているところがある。

「あら、おはようございます朱草(しゅそう)様」

 にこやかに微笑む白髪で背の高い老年の女性は、宮廷薬術師の仙子(せんし)で、年齢は秘密とのこと。

 着ている純白の深衣(しんい)がとても似合っていて、異国の王子様のような雰囲気があるとても格好いい女性だ。

「今日もとってもいい香りですね」

 ここは宮殿内にある薬草畑。

 人間界にあるものだけでなく、聖域やそれに準ずる場所でしか育たない珍しいものまで、数千種類が育てられている。

 人間界のものを聖域や神域に持ち込むことは可能だが、その逆は難しい。

 清らかすぎる空気の中で育った植物は、わずかな汚染でも生きることが出来ず、すぐに枯れるか腐ってしまう。乾燥させ、粉にして持っていくのがやっとだ。

「では、今日もちょっとした講義でもいたしましょうか」

「よろしくお願いいたします!」

 朝露に濡れ、キラキラと太陽の光を反射している薬草のいい香りの中、朱草(しゅそう)は聖域特有の薬草について教わっている。

「こちらの月花透晶(げっかとうしょう)も、仙術をもちいれば効果は倍増し、早くよく効くようになります。ただ、人間の体力次第では副反応も大きいでしょうから、お使いになる際は慎重に」

「はい。心得ます」

 聖域で育つ植物の中には、仙術によってその効果を増すものが多い。

 だからといって、それを人間相手に使いすぎると、効能が過剰になり、重い副反応、副作用を引き起こしてしまう。

 神仙の薬草は万能ではないのだ。

「さぁ、今日はこのくらいししましょう。素采(そさい)殿下が寂しそうにこちらを見ていますから」

「……ああいう、高貴な身分と恵まれた容姿をふんだんに利用してこちらの良心に訴えて来る戦法、どう思います?」

「そうですねぇ……。可愛らしいと思いますよ。まぁ、私の夫があんなことをしたら無視しますけどね」

「ふふふ。ですよね」

 朱草(しゅそう)は「では、訓練へ行ってまいります」と告げると、薬草畑を後にした。

「お師匠様、捨てられた小動物みたいな顔して見てくるのやめてくれません?」

「だって私といるよりも楽しそうなんだもの」

「わたしの態度を勝手に比べないでください」

「はぁい」

 二人が訓練場へ向かって歩いていると、侍女が一人不安そうな顔をして立っていた。

「あ、素采(そさい)殿下と朱草(しゅそう)様」

「どうしたんですか?」

 朱草(しゅそう)が声をかけると、侍女は周囲に人がいないことを確認しつつ、近づいてきた。

「あの、それが大変なことになっておりまして」

「大変なこと?」

「はい……。九天玄女(きゅうてんげんにょ)様が出立なさってから、その、妃嬪(ひひん)のみなさまが喧嘩を始めてしまいまして……」

「え、どうしてですか?」

「とても言いづらいのですが、その、朱草(しゅそう)様を嫉んでいらっしゃるようなのです」

「わ、わたしを⁉」

「九天玄女様がどこかへ行かれたのは、朱草(しゅそう)様を新たな妃として迎え入れる準備だと、そういう噂が……。帰っていらしてからも、自室でお仕事されることが増え、夜伽(よとぎ)が以前より減りましたのも原因かもしれません」

 朱草(しゅそう)は唖然としてしまったが、急いで否定した。

「まったくの間違いです! 九天玄女様は妃嬪の皆様に何かご説明などはされていないのですか?」

「お仕事のことはあまりお話にならない方なので、それで余計に噂に尾ひれがついてしまっているのやもしれません」

「こ、ここ、困りましたね……」

 朱草(しゅそう)はこういった色恋沙汰に巻き込まれるのは初めてのため、本気で動揺してしまった。

「ふむ。では、別の噂を流せばいいのでは?」

 素采(そさい)は喜色満面、とても嬉しそうにうなずいている。

「どんな噂ですか?」

「君が私の妃になる予定だと噂を流すのだ」

「……ややこしくなりませんか?」

「ならん! 大丈夫! これでいこう!」

 (いささ)か強引な気もするが、九天玄女の妃嬪から恨まれ続けるのはあまりに恐ろしい。

 なぜなら、幼少より仙術や呪術を使いこなしている仙子(せんし)族と対等に戦えるほど、まだ朱草(しゅそう)は強くないからだ。

「どうすれば、噂を信じてくれるでしょうか」

「それはもう、仲睦まじい様子を妃嬪たちに見せるのが一番だろうな」

「お師匠様の私利私欲ではなく?」

「……うん」

 歯切れの悪い回答だが、今はそれにすがるしかない。

「あの、それとなく噂を流していただけますか?」

「すぐに実行してまいります」

 侍女は早歩きで後宮の方へと戻っていった。

「ではさっそく手でも繋ぐか」

「誰の目も無いので無意味です」

「ちぇっ」

 素采(そさい)は不満そうだったが朱草(しゅそう)はまさかこんなことになると思わず、すでに精神的にぐったりとしていた。

「今日は呪詛返しを練習するぞ」

「よろしくお願いします」

 自身の特性である〈呪血操(じゅけつそう)〉に関してはかなり正確に使えるようになってきた朱草(しゅそう)

 素采(そさい)(いわ)く、「呪血操(じゅけつそう)の者はある意味自分自身が(のろい)の本体だ。呪詛返しは得意なはずだぞ」とのこと。

 素采(そさい)がかけてくる弱い(のろい)を返しながら特訓していると、首筋にピリッとした痛みがはしり、嫌な予感がした朱草(しゅそう)は、反射的に呪詛返しをした。

「きゃあああ!」

 その瞬間にこだまする悲鳴。

 素采(そさい)と顔を見合わせると、すぐに声が聞こえる方へと走って行った。

「……これはこれは、(れい)妃ではありませんか」

 素采(そさい)は、首から血を流しながら地面に倒れている妃に冷たい目を向けた。

「さっそく嫌がらせですか」

「え……。もしかして、さっきわたしを狙ったのは……」

 麗妃は痛みにあえぎながら朱草(しゅそう)を睨みつけた。

「あんたがここに来てから、九天玄女様は『朱草(しゅそう)は素晴らしい子だ』とか、『成長が楽しみだ』とか、あんたの話ばかり! こんな地味な子供のどこがいいのよ!」

 朱草(しゅそう)は、麗妃の手に握られている朱草(しゅそう)の形をした人形と、それに刺されている針の数に背筋が凍った。

「麗妃、好い機会なので申し上げますが……」

 素采(そさい)は怒りと侮蔑が籠った目で麗妃を見下しながら告げた。

朱草(しゅそう)は私の妃になる予定の娘です。もしまたこのようなことをすれば、姉上に上奏し、あなたを故郷へお帰ししますよ」

 麗妃は「そ、そんな……。勘違いだったって言うの……?」と、涙を流し始めた。

 朱草(しゅそう)はそっと近づくと、(くう)から止血の軟膏を取り出し、麗妃の傷口にそっと塗り、自身の袖を引き裂き、麗妃の首に優しく巻いた。

「恋が盲目的だということは、よくわかります。ですが、愛はそうではないはずです。後宮が異質な場所であることは重々承知のうえで申し上げますが……。妃ならば、恋の熱に浮かされるのではなく、愛情で大切なひとをあたためるくらいの気概はお持ちになってください」

 朱草(しゅそう)が笑いかけると、麗妃は「ご、ごめんなさい。わたくし、なんてことを……」と泣き崩れてしまった。

 素采(そさい)は近衛を呼ぼうとするが、朱草(しゅそう)に制止された。

「麗妃は怪我人です。我らが治療すべきひとですよ。罪人のように扱わないであげてください」

「……君がそう言うのなら」

 素采(そさい)は溜息をつくと、麗妃を抱き上げ、朱草(しゅそう)と共に診療所へと運んだ。

 宮廷医に預け、二人で訓練所へと戻る。

「何故怒らないんだ」

 素采(そさい)は悲しそうな、苦しみが浮かぶ表情で朱草(しゅそう)を見つめた。

「……後宮は魔窟です。どんなに清らかなひとでも、流れる空気の淀みに飲み込まれれば、嫉妬に狂い、狂気に走ることもあるでしょう。自分で風を呼び込める、貴妃様のような方ならば問題ないのでしょうが、ひとは誰もがそう強くは出来てはいません。心が見えないのは、余りに脆いから。隠さないと、護らないと、すぐ傷ついてしまうんです。もし壊れれば、流れるのは涙ではなく、血になります」

 朱草(しゅそう)は麗妃の血がついた自身の深衣(しんい)を見つめ、辛そうに息を吐きだした。

宮正(ぐうせい)になってから、様々なものを見たのだな」

「はい。心が死ねば、身体の健康など無意味だと知りました。だからわたしは強くなりたいのです。両手の届く範囲だけでも、掬い、救いたい。煌仙子(こうせんし)となり、それがより広範囲になったと思っていましたが、そんなことなかったですね」

 素采(そさい)は立ち止まり、朱草(しゅそう)の前に立った。

「抱きしめても?」

「噂の為ですか?」

「いや、君を愛しているからだ」

 この素直さが、羨ましいと思った。

 朱草(しゅそう)素采(そさい)が広げる腕の中へ飛び込んだ。

「……勘違いしないでくださいよ」

「わかってるよ」

 あたたかい。

 鼓動が耳に心地よく響く。

 少し速いのは、自分も同じだと、呆れてしまう。

 でも、それでいいのだと、それがいいのだと、朱草(しゅそう)は心の中で何度も思った。

 陽の光のもと流れる、穏やかな時の中で。


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