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第十四集:聖域

 清らかな風。

 澄み渡る空気。

 流れの穏やかな河川に、静寂を絵に描いたような湖。

 木々は艶やかにその緑をたたえ、土からは香ばしい甘い香りが立ち昇る。

「美しい場所ですね……」

 朱草(しゅそう)は初めて訪れた聖域に、どこか懐かしさを感じながら、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「そうだろう? 私の生まれ故郷だ。君を連れてくることが出来て最高の気分だよ」

「……変な意味じゃないですよね?」

「なんのことかな?」

 とぼける素采(そさい)の顔はとても嬉しそうだ。

「まったく……。かはっ」

朱草(しゅそう)!」

 足元の草に鮮血が落ちる。

 手は赤く染まり、口元はザクロをほおばった後のよう。

 素采(そさい)朱草(しゅそう)の背を何度も撫でながら、心配そうに顔を覗き込んだ。

「心臓を抜き取られたとき、肺も傷ついたのだ。体内に残っている禍人(まがびと)(のろい)煌仙子(こうせんし)の力がぶつかり、酷い副反応が起きているな」

 聖域(ここ)に至るまでの道中、素采(そさい)から『禍人(まがびと)』について説明してもらった朱草(しゅそう)は、痛む胸を押さえながら、頭の中でその悲しい存在について思い出していた。

 禍人(まがびと)は、大昔、双子が〈(いみ)子〉と呼ばれていた時代に、捨てられたり売られたりした片方の子供の怨念が集まって生まれた存在なのだという。

 産んだ両親を恨み、恵まれた片割れを妬み、産まれたことを(のろい)ながら死んでいく。

 そんな悪意の塊となった魂を、弱い悪鬼が取り込み、邪悪の権化として新たな力を得る。

 それが、『禍人(まがびと)』なのだ。

「だ、大丈夫です」

 朱草(しゅそう)は鞄から竹の水筒を取り出し、口に含んでゆすぎ、吐き出した。

 まだ赤い。

 素采(そさい)に支えられながら深呼吸を繰り返し、なんとか落ち着いてきた。

「この地で療養し、訓練すれば、すぐに良くなるだろう。さぁ、ゆっくりでいい。行こうか」

「はい。ありがとうございます」

 足取りは軽い。

 おそらく、身体の中にある宝玉が聖域の空気を、大地を、風を喜んでいるのだろう。

(空を飛んでいるあの鳥はなんというのだろう。あの花は? あの虫は? 湖に浮かぶ水泡のようなあのふわふわとしたものは何なのだろう。本当に、中原(ちゅうげん)にこのような場所があるなんて……。夢みたいだ)

 思わず、すべてに駆け寄り、手で触れ、においを嗅ぎ、確認したいと思うほど。

 木の実や草花にはどのような薬効があるだろう。

 虫たちが吸っている蜜はどんな味なのだろう。

 水は人間が飲んでいるものと同じなのだろうか、と。

 聖域は不可思議な美しいもので満ちている。

「ほら、着いた。ここが、私が生まれ育った地。西王母様が治める聖域の中で、戦神(いくさがみ)である九天玄女(きゅうてんげんにょ)様が護る(みやこ)だ」

 まっすぐ前を見て歩いていなかった朱草(しゅそう)は、目の前に現れた荘厳な壁に驚いた。

「これ、すべて翡翠(ひすい)なのですか?」

「翡翠と蛍石、孔雀石、水晶、玉髄(ぎょくずい)瑪瑙(めのう)月長石(げっちょうせき)緑柱石(りょくちゅうせき)金緑石(きんりょくせき)、それにわずかだが金剛石(こんごうせき)も城壁に使われている。すべて、西王母様から九天玄女様への、多大な武功に対する贈りものだ」

「武功……、戦神……」

 その時、朱草(しゅそう)の胸の中心が淡く光った。

「え、ええ!」

 光は集束し、一筋の強い光となってある一点を指示(さししめ)した。

「ほう。どうやら、九天玄女様がお呼びのようだ」

 素采(そさい)悪戯(いたずら)する前の子供のように笑った。

「こ、この状態で行くんですか?」

 胸から光を発するなど、恥ずかしくてたまったものではない。

「少し触れて良いなら消してやれるが……」

 究極の二択。

 素采(そさい)が胸に触れるか、光を出したまま街中を歩き宮殿へ向かうか。

「……すぐに手を離してくださいね」

「お、おお。もちろんだ。嫁入り前の女子(おなご)(よこしま)な気持ちを持って大切な場所に触れたりなど……」

「説明は結構です」

 朱草(しゅそう)は覚悟を決め、素采(そさい)へ身体を向けた。

 素采(そさい)は耳まで赤くしながら朱草(しゅそう)の胸元に手を添え、光を抑え、すぐに離れた。

 朱草(しゅそう)は意外と早く離れた素采(そさい)に少し驚きつつ、自身の胸元を撫でた。

 少しあたたかい。

「ありがとうございました」

「……うん」

 治療だなんだと言っては身体に触れて来るくせに、素采(そさい)は口元を手で押さえながら困惑しているように見えた。

「大丈夫ですか?」

「好いている女子(おなご)の胸部に、仕方がないことだったとはいえ、こう、触れて大丈夫な男がいるとでも思うのか」

「あ、あの、すみません」

 おかしい。

 特に、蘇生した日から。

 朱草(しゅそう)は、自分の気持ちに蓋をすることが酷く困難になっているのを感じていた。

 大切に想われているという心地良さが、怖い。

 一生をかける覚悟が、朱草(しゅそう)にはまだない。

「じゃ、じゃぁ、案内よろしくお願いします」

「うむ」

 素采(そさい)の頬がまだ淡く桃色に染まっている。

 なんと愛おしいのだろう。

 でも、それを口には出来なかった。

「どうだ、聖域の街もにぎやかだろう」

 碁盤の目状に整えられた街には、あちこちに大店(おおだな)があり、買い物客や走り回る元気な子供たちでにぎわっている。

 禮国やそのほかの中原にある国々と違うのは、歩いているのが〈人間〉ではないということだ。

 仙子(せんし)族や神仙の(たぐい)はあまり人と形が変わらない者もいるが、獣化種族は多種多様な格好をしている。

「わあ……」

「そうか。朱草(しゅそう)は獣化種族を見るのは初めてか」

「そ、そうですね」

「大丈夫だ。おおむね、気のいい奴らばかりだからな」

 白く輝く鱗に覆われた身体が朱草(しゅそう)よりも大きな蛇化種族。

 黒い甲冑を身にまとった狼化種族。

 美しい深衣(しんい)に身を包んだ天女のような鳥化種族。

 目に映るものすべてを説明していたら日が暮れそうなほど、色彩豊か。

「体調は大丈夫か?」

「は、はい。絶好調です」

「宮殿へ急ごう。その、たぶん催促しているのか、また光り始めているぞ」

「え、あ! 走りましょう、お師匠様」

「そうするか。まだ朱草(しゅそう)は飛べないからな」

 二人はひとの波の中を上手にかいくぐりながら宮殿まで急いだ。

 さすがは戦神、九天玄女。

 宮殿までの道はわかりやすく、「私と戦いたいなら直接かかってこい」と言わんばかりの門構えだった。

「九天玄女様はもちろんのこと、その近衛兵も恐ろしく強いからな。道を複雑にする必要がないのだ。そのおかげで、光り輝く前につけたな」

「は、はい。ふぅ、はぁ……」

 自分が病み上がりだということを忘れていた。

 宝玉の力がそうさせるのか、とてつもない速さで走ることが出来る楽しさに浮かれ、呼吸もろくに整えないまま走ってきてしまった。

「ふぅ、ふぅ」

「横抱きで連れて行ってあげようか」

「け、結構、です」

 素采(そさい)はいつもの破廉恥(はれんち)男に戻ったようだ。

 朱草(しゅそう)としても、照れられたままでは会話がしづらい。

「行けるか?」

「だ、大丈夫です。参りましょう」

 素采(そさい)が門番に(ぎょく)を見せると、すぐに太監(たいかん)のような男性が走り寄ってきた。

「おかえりなさいませ。素采(そさい)殿下」

「……え?」

 朱草(しゅそう)は耳を疑った。

「え? 言ってなかったか? 私は九天玄女様の弟だ。末子だから、あまり会ったことはないがな」

「聞イテイマセン」

 あまりのことに何故か言葉が不自由になる朱草(しゅそう)を見て、素采(そさい)は嬉しそうに微笑んだ。

「ふふ。私に興味がわいただろう」

「……少しだけ」

 素采(そさい)に聞こえなくくらいの声量でつぶやき、頷いた。

「殿下、その、九天玄女様が『早く来ないと斬る』と申しております」

「げ。朱草(しゅそう)、早く行こう。姉上は本気だ」

「ひぇっ」

 太監に駆け足で案内されるがまま、二人は玉座の間までの道のりを急いだ。

 本当ならば、美しく磨き上げられた宮殿内をもっとゆっくり見たいのだが、命がかかっているらしいために、そんな余裕はなかった。

 朱草(しゅそう)は初めてのことばかりで心が少し焦っているのかもしれない。

 自分が知らない素采(そさい)聖域(ここ)にはたくさんあるのだと思うと、少しだけ、胸が痛んだ。

 そして自分に待っているであろう運命の行先も、期待と不安が入り交じり、動揺が止まらない。

 駆け足のために深呼吸も出来ない。

 朱草(しゅそう)は無意識に素采(そさい)の手を握っていた。

 素采(そさい)が強く握り返す。

 ただそれだけでよかった。

 胸に、勇気が灯る。

 でも、身体はそういうわけにはいかなかったようだ。

 朱草(しゅそう)は口から血を吹き出し、膝から崩れ落ちた。


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