第一集:姉のために
「ちょ、ちょっと! どういうことなの?」
朝早く父、沙餳に呼ばれ、食堂に集められた朱草と春碧。
いつも身の回りを世話してくれている侍女や侍従たちもいない。
どうやら、沙餳が人払いしたようだ。
母、松花は心苦しそうな顔でお茶を淹れている。
芳醇な茉莉花茶の香りも、今の状況にあってはとても心が休まるものではない。
「だから、その……。春碧には後宮に入ってもらおうと思っている」
父の提案は朱草の怒りに火をつけるのには十分だった。
「なんでよ! お姉ちゃんにはもう好き合っている人がいるって知ってるでしょう⁉」
「朱草、ちょっと黙りなさい。私だって辛いのだ」
「嘘だよ。お姉ちゃんの想い人の家柄が大して良くないからなんでしょ!」
朱草の言い分に顔をしかめつつも、うっすらと汗をかく父親の顔は、まさに図星といった様相。
「この賀家は、私の母上が大長公主、松花の父君が一品軍侯ということで、それなりの尊敬を集め、良い地位にいるが、それだけではダメなのだ。末の息子はまだ八歳なんだぞ? それでも長男だ。より良い将来の為には、皇族との強いつながりが必要になるんだよ」
沙餳の沈痛な表情は、昨今の目まぐるしく変わっていく国内情勢の苛烈さを憂いているようだった。
どこの国も領土拡充富国強兵を目指し、国境線では常に小競り合いが続いている。
大きな戦も、ここ十年で三度もあった。
賀氏が住むここ禮国も例外ではない。
それでも、朱草は姉の恋路を護ろうと、父親に食って掛かろうと身を乗り出し、今にも噛みつきそうなほどの形相で言葉を放とうとするが、それを、優しく悲しげな表情で春碧が止めた。
「朱草、いいのよ。仕方がないわ。父上、私、後宮へ……」
その時、朱草が食卓を力いっぱい叩き、立ち上がった。
「わたしが行く」
「……え?」
まだ寝ている弟を抜いた家族全員の顔が朱草へ向き、目を丸くしている。
「だから、わたしが行くってば。つながりとやらが出来ればいいんでしょう? じゃぁ、わたしでもいいじゃない。わたしには好いている人も好いてくれている人もいないし、幸い、許嫁もいない。だから自由よね?」
朱草の言葉に、沙餳は眉根を寄せて腕を組み、思案し、そして再び口を開いた。
「……たしかに、そうではある」
「父上! 朱草は成人したとはいえ、まだ十五歳なんですよ。これからたくさんの出会いが……」
今度は朱草が春碧を止める番だった。
「いいんだよ、お姉ちゃん。それに、後宮ってわたしよりもずっと幼い子たちがたくさんいるでしょう? 年齢なんて振る舞いでどうとでも出来るよ」
「で、でも……」
朱草は姉を抱きしめると、心を込めて言った。
「姉上、幸せになってください。この世の中で本気で愛し合っている二人が結婚できる確率はそう高くありません。どうか、どうか素晴らしい人生を」
春碧は朱草を抱きしめ返すと、堰を切ったように涙を流した。
名家の長女という重責と戦い、いつも凛と涼やかにあらゆることをこなしてきた春碧。
その姉の背中を見ていたからこそ、朱草はいつだって味方でありたいと実用的な薬草学や武術を磨いてきた。
それが今、発揮できるのだ。
朱草は居住まいを正し、まっすぐ前を向いて行った。
「父上、母上、朱草は後宮へ参ります」
沙餳は目を潤ませながら頷いた。
なんだかんだと言いつつも、やはり大事な娘を陰謀の渦中へ行かせるのはつらいのだろう。
「あなただって、幸せになるのよ」
松花は我慢できなかったようで、思わず朱草に駆け寄り、その背を優しく抱きしめた。
「もちろん。わたしはわたしの力で幸せになってみせる。武功を立ててね」
朱草の発言に、今の今まで感傷に浸っていた家族がまたもやその目を丸くした。
母は身体を離し、口元を手で覆っている。
「貴妃様が、宮女だけで結成した皇宮守護の部隊を持っているっていうのを聞いたことがあるの。わたしはそこに入る。それで武功を立てて陛下に気に入られれば、弟も立派な武人として取り立ててもらえるようになるかもしれないでしょう?」
父、母、姉の三人は、「朱草らしい……」と、もはや何も言葉が浮かばないようだった。
「あんまり危険なことには関わらないでね?」
春碧の美しい顔が心配そうに陰った。
「大丈夫よ、お姉ちゃん。わたし、結構強いのよ?」
朱草の瞳はすでに未来へと向き、輝きを放ち始めていた。
「はぁ……。顔の傷には気を付けるんだぞ。お前は美人ではないが、その幼い顔立ちがとても可愛いのだから」
「ありがとう、父上。でも、背中に傷がつくよりは勇敢よね」
「またそういう……」
父と母は顔を見合わせると、盛大に溜息をついた。
いつもの光景だ。
朱草は春碧と向き合うと、吹き出すように笑い合った。
少し冷えてしまった茉莉花茶の香りが部屋を満たす。
春の柔らかな風が通り抜けた。