・「小さな世界」とおじさん、の巻
居酒屋『はちまん』。
最寄りの民営鉄道の駅から徒歩で18分。
駅前繁華街の喧騒を少し離れ、小さな橋を渡り、住宅地への寂しい道の途中に、チョコンと位置する小さな居酒屋。
駐車場なし、立地悪し、店主愛想なし。
グルメ情報サイト『来るナビ』の評価は3.3。店の最終評価日の日付は2年前である。
若者が訪れないので、店の評判がネット上で広まる訳もない。
しかし、「店に若者が訪れない」ということに、むしろ価値を見出す者達がいる。
会社の中で、年下社員や、若者社員や、女子社員に気を使いすぎて疲れた男性中間管理職達。
所謂、『おじさん』達である。
≈≈≈
「めずらしいじゃないか!おまえの方から誘ってくれるなんて」
言いながら、わたしは自分のビールのグラスを、カウンターの上の笠原のお湯割りのグラスの縁に軽くカチン…と重ねる。一杯目から焼酎を飲む笠原のスタイルは学生時代から変わらない。尤も、最近は昔のような水割りではなくお湯割りに変わってはいるが。
「…たまにはな。安子ちゃん元気か?」
笠原は、わたしの乾杯に自分のグラスに手を添えて応えながら、社交辞令的なことを口にした。娘の安子と笠原は、もう10年は会っていない。若い頃は会社帰りにお互いの家を行き来し、よくお互いの御細君に御迷惑をお掛けしたものだった。
「ああ、…最近反抗期でな。色々言われるよ。口くちゃくちゃするなだの、体くさいから風呂最後に入れだの…」
身振り手振りを交えながら、わたしは滑稽な調子で笠原に話す。
「あの、おまえにべったりだった安子ちゃんがね…」
ちなみに、『安子』の読みはヤスコではなく『アンコ』である。女の子らしくて可愛らしい響きの名前だと思って、一生懸命考えた上でわたしが名付けた。しかし、名付けられた当の娘の方は、自分の名前を最近嫌がっているらしい。
妻から伝え聞いた話によれば、アンコという言葉の響きと、『子』が付いていていかにも女の子の名前という感じの、安直な感じが嫌だ、と本人は言っているらしい。
たまたまその場にいた長男の話によると『女の子らしい』という表現が、いまは差別になることもあるということだった。女の子に女の子らしい名前がダメなんて、わたしには訳が分からない。今後、親達は自分の子供になんと名付ければ正解なのだろう…
「…最近は、少し世の中が難しくなりすぎて、わたしなんか、ちょっと住みにくさすら感じるよ」
わたしが、笑いながら冗談交じりに笠原にそう言うと、
「…おじさんには住みにくい世の中だ」
と、笠原は少し寂しげに笑う。
この男にこんな表情は、似合わない。
「なに、きっと原始時代からこの世はおじさんにとって住みにくいのさ。おばさんにも住みにくいかも知れないが、おばさんにはランチタイムのレディースデーがある。おじさんにランチタイムのメンズデーは、ない!」
カッカッカッと、わたしはわざとおじさんらしく笑う。
「…そうかもしれんな。この世は元々おじさんには住みにくい、…か」
笠原は、わたしの話を黙って聞きながら、時に相槌を打ち、時に驚いて見せ、時に笑顔を作ってみせた。カウンターの方を向く笠原の横顔はいつもと変わらないように、周りには見えていただろう。しかし、わたしには分かっていた。
笠原は、なにかは分からないが、なにか言いにくいことをわたしに言わなくてはならないのだ。
…会社の中では、よくあることだ。
この時のわたしには、これより数カ月後に会社員としての自分の身に何が起こるかも、笠原との関係性が変わってしまうことも全く想像だにできなかった。
学生時代から38年も付き合った親友との『別れ』など、誰に予見できるというのだろう。
『笠原の話が何の話かは分からないが、笠原の方から話し出すまで待とう…』
この時のわたしは、まだ事態を楽観的に考えていた。
続
なぜ、おじさんには『メンズデー』がないのでしょう?