黒い工場
そして聖は、煌煌たる灯りに満たされた無機質な空間に突っ立っていた。頭上で輝くその灯りは、直視するのを躊躇うほど明るい。
「ああ、ここか……」
見覚えのある景色に、思わず落胆の呟きが漏れる。壁面に並ぶファイルの詰まったキャビネットに、幾つもの事務機器。そして質素な事務机の向こうに座る若いビジネスマン風の男。前回二度と行きたくないと思った、ラインdeバイトの世界だ。
「ん?ああ、君は確か……直江さん。直江聖さんだったね」
聖に気付いた男性が顔を上げる。
「あっ、はい、そうです」
反射的に返事した聖に、男性は嬉しそうに笑いかけた。
「いやあ、いいタイミングで来てくれたよ。丁度、シフトに穴が開いちゃってねぇ。どうしたものかと思案していたところなんだよ」
あれだけ劣悪な労働環境だといくらでも開くだろうと思う聖だが、顔には出さない。
「やってくでしょ?ライン」
イエス以外の答えを聞く気が無さそうな男性の態度だったが、聖は即答を避けた。前回見た医療レベルからして、高坂を助ける手段を見つけられるとは到底思えない世界である。さっさと諦めて還るのも手だ。
「うちは未経験者大歓迎だけどね、経験者は超歓迎なのよ」
そんな聖の乗り気で無さを感じ取ったのか、男性は翻意させるべく言葉を重ねる。
「特に直江さんは前回の勤務が超優秀だったからね。今回は特別に三階級特進でスタート!」
それは単に難易度が上がるだけなのではと眉を顰める聖だったが、男性は構わず話し続ける。
「勿論、スキップしたレベルの業務目標達成ボーナスは勤務開始と同時にゲット!いやあ、これはラッキー!」
確かに、と聖の心が大きく揺らぐ。前回の手応えからして、この世界の目標を達成するのはなかなか大変そうなのだ。それが自動でクリアとなるならば、ラッキーと言うしかない。この先何が必要になるか分からないのだから、手札は多いに越した事は無い。
「後は……これは大きな声では言えないんだけど……」
男性はそう言って聖を手招く。聖が何事かと首を傾げつつ近付くつと、男性は机を乗り越えるかのように身を乗り出し、小声で耳打ちした。
「労災を見て見ぬふりも可能」
恐らく次の業務目標にも労災をゼロに、が存在するのだろう。見て見ぬふりをしてもらう事で目標達成に近付けるという事なのだろうが、それはそれで諸刃の剣のような気もする。
「だからさ、少しでいいから働いていってよ」
よっぽどの事が無い限り、京平も穂波もすぐに還るという事はないだろう。つまり、今ここで還ったところで半日ほど一人で暇する事になるだけである。ならば、せっかく来た異世界。ラインで働いた方がいいに決まっている。
「……分かりました。やります」
その答えに男性は破顔一笑すると、テキパキと事務手続きを始めた。
「あっりがとうございます。それでは、直江さんには今回も17番から20番迄のラインを担当してもらいます。宿舎も前回と同じく2046号室です。この辺は前回と同じなので大丈夫ですよね?」
聖は頷く。場所が前回と同じなのは文字が読めない身としては非常にありがたい。
「達成扱いの業務目標に関しては、後で目録を部屋の方に送っておきますので確認してください。えっと、こちらからは以上になりますが、何か質問はありますか?」
聖が何もないと首を横に振ると、男性は机の上の妙な機械を操作し、前回と同じく扉になっている壁の一角を開いた。
「それでは、よろしくお願いいたしますね」
前回とは違い、満面の笑みで聖を送り出す男性。聖は少し表情を引き締め男性に会釈すると、扉から戦場となるラインへと歩き始める。待ち受けているのは限りなくブラックな環境での労働だが、十日の期限が切られた短期バイトだ。自分なら気合と根性で乗り切れるという謎の自信と共に、聖は久しぶりのラインに立つのだった。
そんな聖が己の誤算に気付いたのは、疲労困憊しつつも十日間の激務に耐え抜き、いざ元の世界に還ろうとした時だった。
「えっ?聖さん、もう還るんですか?」
疲労で頭が働いていないせいか、不思議そうに訊いてくる神の言葉の意味がすぐには理解出来なかった聖。十日経ったんだから還るに決まっているだろうと思いつつ、何か忘れているのかと考え込む。
「……えっ?そりゃ、還るだろ」
結局何も思い当たらなかった聖は、神に負けず劣らず不思議そうに答えた。
「そうは仰いますがね。京平さんも穂波さんも、マックス延長されてるんですよ」
想像していなかった事態を告げる神の言葉に、聖の理解はまだ追いつかない。
「……は?」
「三千五百転生石をお納めいただいて、きっちりかっちり二十日間。魅惑のもふもふライフを延長エンジョイ中」
「……まじかっ?!」
ようやく事態を把握した聖は天を仰ぐ。どんな世界を引いたのか分からないが、二十日の延長を選択したという事はそれなりに手応えがあるに違いない。
「……ブラックバイトとの差よ……」
聖もきっちり十日働き切り業務目標を達成してはいるのだが、本来の目的に対しては何もない。当然、延長など選択肢にも上がらない。だが……
「いいんですか、延長しなくて。せっかくのもふもふライフ、勿体なくありませんか?」
神が訊いてくるが、せっかくだからと乗っかれるほどここは魅力的な世界ではない。
「……別にもふもふしてないしな……」
そもそも神が連呼しているもふもふライフすら送れていないのだ。ラインに配置されている謎の生物ミニワと触れ合ってはいるが、その感触はぶよぶよだ。
「……そうですか。まあ、別に私は構いませんけどね……」
あからさまにがっかりした口調になる神だったが、その程度では聖の心は揺るがない。
「せっかくボーナスステージが開催されるというのに……とは言え、聖さんが還るというのでしたら仕方ありません。では……」
「待て待て」
一転して思わせぶりな神の言葉に、還らされかけた聖が慌てて止める。確かに業務目標の報酬にボーナスステージ参加権とやらはあったが、当然の如く詳細は知らされていない。
「何だよ、ボーナスステージって」
「……ボーナスなステージなんじゃないですか?」
いつも通りの適当な答えを返す神。
「そりゃボーナスステージだからな」
言わずもがななツッコミを返しつつ、聖はどうしたものかと頭を悩ませる。せっかく開催されるのにという神の言葉が真実だとすれば、ボーナスステージとやらは時限性なのだろう。昇進という名のレベルアップのように、次またこの世界に来てしまった時に有効とは限らないのかもしれない。ならば、延長して参加するのが良いのだろうが、所詮はこの世界のボーナスステージとも言える。ロクでもないステージの可能性も捨てきれない。
「……」
聖が渋い顔で考え込んでいると、神は急かすように言葉を投げつけてくる。
「どうします?還ります?残ります?還ります?残ります?」
そんな神の声を無視しつつ、聖は考えを巡らせる。ここで自分がどう選択しようと、後の二人が延長した事実は変わらない。つまり何事も無ければ約一日還ってこない訳で、今自分が還ると一日暇が出来るという事になる。
「……仕方ないか」
勿論それはそれで有りなのだろうが、それならボーナスステージとやらに賭ける方がいいだろう。もしかしたら、一発逆転的な何かが手に入るかもしれない。
「……マックス延長で」
「あっりがとうございます!それでは三千五百転生石をお納めいただきまっす」
間髪入れず返ってきたウキウキな神の声にイラっとしつつも、気合を入れ直す聖。延長したからにはボーナスステージとやらをクリアしなければならない。
「ボーナスステージは明日から開催との事ですので、是非とも頑張ってください!」
薄っぺらい応援を最後に、神の声は聞こえなくなる。聖は大きなため息をつくと、あてがわれている部屋のベッドに身を投げ出した。体力は既に限界を迎えていると言ってもいい状態だけに、明日までにどれだけ回復できるかが鍵だろう。何としてもクリアしなければという覚悟を胸に抱きつつ、すぐに眠りにつく聖であった。




