荒野の妖精 24
「っ!!!」
何処へ跳んだのか、京平は鈍い衝撃に襲われた。痛みは然程でもなかったが、背中を強かに打ち付けたせいで息が詰まる。慌てて大きく息を吸おうとするが、口を開けるなり大量の何かが流れ込んでくる。
「っ!?」
状況が把握出来ず遮二無二もがこうとする京平だったが、何かにまとわりつかれたかのように身体は重くそれもかなわない。辺りは薄暗く近くにいたはずのバルドファルグリムの姿も見えない。息をする事もままならず焦りだけが募っていく状況に、京平はパニックに陥りかける。
「ぉぃ」
そんな京平の耳に微かな声が届いた。ゴボゴボと空気が漏れる音のせいで聞き取りにくいが、バルドファルグリムの声だ。地獄に仏とばかりに声の方へと向かおうとする京平だったが、なかなか上手くいかない。それでも何とかしようとジタバタしていると、その腕がグイッと引っ張られた。
「落ち着けって」
今度は彼女の声が耳元ではっきり聞こえた。咄嗟に振り返ろうとした京平だったが、バルドファルグリムは意に介した様子もなく掴んだ腕をどんどんと引っ張っていく。これはもう彼女に任せるしか助かる道は無いと悟った京平は、上下の感覚すら失いつつも為すがままに引っ張られていく。程なくして、頭が何処かの境界を越えたのを感じ、まとわりつくような違和感も消える。頬に感じるのが空気だと察した京平は、貪るように新鮮な酸素を取り込む。ようやく人心地ついた京平が辺りを見回す。真っ暗で隣にいるはずのバルドファルグリムも見えないが、自分が水に浸かっている事は分かった。どうやら水中に跳び、そして溺れかけたらしい。そう気づいた京平はいつまでもバルドファルグリムに引っ張ってもらっている訳にもいかないと、立ち泳ぎを始める。それに気づいたバルドファルグリムはそっと腕を放すと、すっと放れていく。
「えっ?あの?バルドファルグリムさん?」
微かに水面が揺れる音は聞こえるものの、暗闇の中では本当に彼女が泳いでいる音かも分からない。思わず不安気な声を上げた京平に、バルドファルグリムは訝し気に問いかける。
「ん?ああ、そうか。、オマエ、見えないのか?」
「ええ。と言うか、バルドファルグリムさんは見えてるんですか?」
「まあな……悪い、一人だと問題ないもんだからつい、な」
そんなバルドファルグリムの声が聞こえてきたかと思うと、短いフレーズの詠唱が聞こえ、そして遠くに薄っすら明るい光が灯る。目を凝らしてみてみると、バルドファルグリムの肩で一匹の蟹が光っていた。
「……エスさんですか?」
「いや、こいつはさっき捕まえた蟹」
そう答えたバルドファルグリムは再び泳ぎ始める。
「まだ全然回復してないから、いつ消えるか分からないぜ」
不穏なその言葉に、京平は慌てて後を追う。幸いにも蟹が光を失う事は無く、二人は無事に岸へと辿り着いた。
「ふうっ……全く、散々な目に遭ったな」
薄明りの中、バルドファルグリムはそう言いつつ笑いかけてくるが、京平の表情は浮かない。彼女に何と言われようと、自分の迂闊な行動で窮地に追い込まれたのは事実だ。
「ったく、何回言えば分かるんだよ」
そう言って乱暴に京平の額を突く。
「オマエの選択で叡智の墓場を引けたんだぜ。十分じゃねぇか。まあ、どうしても悪く見積もりたいってんならそれでもいいけどよ。だとしてもせいぜいプラマイゼロだぜ?ノープロブレムだ」
「でも、エスさんが……」
エスが詠唱する前の不穏な台詞が頭を過ぎる。漆黒と言っていい暗闇の中だというのに、眩いばかりの輝きを放っていたはずの彼女の光はどこにもない。
「ああ、エスならほら……」
バルドファルグリムが何やらゴソゴソする気配が伝わってきたかと思うと、彼女の手の中に今にも消えそうな微かな光を纏ったエスの姿が現れた。懐で大事に抱えていたようで、その光は彼女の服で遮られてのだろう。とりあえずは無事なようでホッとした京平だったが、蟹の甲羅すら貫通した輝きが失われているのは不安を掻き立てられる。
「……大丈夫なんですか?」
妖精のようなその姿は、余りに弱々しく今にも消え入りそうだ。
「ワタシ達を跳ばす為に力を使い果たしてくれたからな。暫くはこのままだが、そのうち回復するさ」
そう言いつつ肩の蟹を手に取ったエスの体に重ね合わせると、祈りのような詠唱を始める。その静かな旋律に合わせ、エスの体はゆっくりと蟹の中へと消えていく。
「……魔力の塊みたいな存在なんでね。魔術が存在しにくい世界だと、その身を維持するのも難しいのさ。だからこうやって普段はこの世界の原住生物の中に、って訳さ」
だからって蟹って事はないだろうと改めて思う京平。エスが文句を言いたくなる気持ちもわかる。
「さて、と」
エスの体はやがて蟹の中に消える。その体はエスの物になったのか動きが止まった蟹を、バルドファルグリムは懐にしまい込んだ。
「とりあえずアジトに戻るか。このままだと風邪をひいちまう」
「そうですね。でも、どうやって……」
何処に跳んだのか分からないのではと不安がる京平だったが、バルドファルグリムは事も無げに笑い飛ばした。
「心配には及ばねぇよ。なんたってここはアジトの地下、廃坑の地底湖だからな」
そう言い放つと、またもや短いフレーズを唱える。辺りの岩肌はその旋律に応えるかのように輝きだし、やがて光のトンネルを作り出した。
「いいだろう?いざって時の緊急避難用の場所さ」
少しばかり自慢気な表情を見せたバルドファルグリムは、そのトンネルへと足を向ける。
「水の中に跳べば大体の事は何とかなる。水の中に跳ぶと分かってりゃ後の事は何とかなる。まさにうってつけだろう?」
乱暴な理論な気がしなくもない京平だったが、おかげで助かったのは間違いない。大人しく頷き、彼女の後を追う。
「それにエスの体はそこで取れた蟹だからな。縁があるのか精度も申し分ないって訳さ」
ここまでくると無茶苦茶だと思うし、やはり蟹に入れられているエスは不遇だと思う。だが、それを表に出す京平ではない。
「おかげで助かりました」
「だろ?」
深くは触れまいと言う京平の本心に気付かなかったのか、バルドファルグリムは上機嫌だ。
「アジトまでも近いんだぜ、ほら?」
その言葉通り、トンネルの先に拓けた空間が見えてきた。アジトを後にしてからそれほど時間も経っていないはずだが、随分と久しぶりな気がする。




