走れヒメス 3
「遅いねぇ……」
辺りはまだ暗くなっていないが、太陽はその姿の殆どを山の向こうに隠してしまっていた。大蛇の声からは、明らかな焦りが穂波にも伝わってくる。
「……まずくない?」
「……まずいね」
穂波と大蛇が顔を見合わせる。まさかとは思っていたが、いざ本当にヒメが間に合わないかもとなると、どうしたものかとお互い狼狽えるばかりだ。
「ね、ねえ。マジックアワーの間はセーフって事にしない?」
「まじっくあわー?何だい、それ」
穂波の提案に、大蛇は首を傾げた。
「日が沈んでもさ、少しの間は明るいでしょ?その残光に照らされた時間の事。最も美しいって言う人もいる時間」
「へぇ」
穂波の答えに感心したように頷いてみせた大蛇だったが、すぐにいやいやと首を横に振った。
「私は別に構わないよ。ただ、問題は素戔嗚さ。ヒメがはっきりと日暮って言ってしまってるからねぇ。そこで物語を捻じ曲げた事を奴が良しとしてくれるかどうか」
「してくれないかな?」
答えは分かっている気がした穂波だったが、一縷の望みをかけて一応訊いてみた。
「してくれないだろうねぇ」
「だよね」
分かり切った答えに穂波はため息とともに肩を落とすが、すぐに気を取り直す。
「でもさ、日暮って日没の前後の時間を指す事もあったと思うんだよね。じゃあ、マジックアワーはセーフじゃない?」
「そうさねぇ。そんなに言うならマジックアワーはセーフだと言い張ろうじゃないか」
大蛇の声は冴えない。
「だけど、少しばかり時間が伸びたところでヒメが間に合うかどうか」
「大丈夫。奇跡ってのはロスタイムに起きるものだから」
自分に言い聞かせるかのような穂波の言葉に、大蛇が吹き出す。
「奇跡、か。じゃあ、私も信じるとしようかねぇ」
そう言って首を四方八方へと伸ばし、どこからヒメが帰ってきてもすぐに見つけられるよう目を光らせる。
「それ便利ね」
首が一つしかない穂波はどこを向こうかと迷い、結局西の空へと目を向けた。
遂に日は沈み、空は薄っすらと金色に輝きだしていた。
「マジックアワー……」
祈るような面持ちで空を見つめ続ける穂波の目の前で、残光は徐々に鮮やかさを失っていく。
もはやこれまでか、と諦めかけたその時、大蛇の首の一つが何かに気付いた。その何かを確認しようと幾つかの首が蠢く。
「どうしたの?」
穂波も目を向けるが、既に遠くは見通せない程に暗くなっている。
「静かに」
大蛇の鋭い制止に身を竦めた穂波は、それでも大蛇が何に反応したのか確認しようと目を凝らし続けた。
「……ミー」
その耳に微かに声が届く。それを聞いた穂波は、残りの首と顔を見合わせた。
「……ホナミー……」
聞こえてきているのは、息も絶え絶えなヒメの声だ。声がした方へと穂波が目を向けるが、薄暮の中にその姿を捉える事は出来ない。頼みのマジックアワーも残り僅かとなっていた。
「ヒメッ!」
このままでは間に合わないと、穂波がたまらず声を上げた次の瞬間。元の巨体へと戻った大蛇が、素早く遥か彼方へと一本の首を伸ばしていた。穂波が驚く間もなく、ヒメを咥えて戻って来る。
「ホナミー!」
親猫に咥えられた子猫の如くぶら下げられたヒメが、楽しそうに手を振っている。穂波は手を振り返す事も忘れ、唖然とその様子を眺めていた。
大蛇はヒメを穂波の目の前に下ろすと、再び小さくなり成り行きを見守る。




