友達になろう!
少女は今日も、吸血鬼の住む洞窟に向かっていた。
「…………」
……でもどうしてか、今日は足が重かった。まるで夜の闇が足を引っ張ってくるかのように、なかなか前に進むことができない。
「それもこれも、あいつがあんな顔するからだ」
吸血鬼のあの、遠い目。それを思い出すと、吸血鬼を恨む気持ちがどんどん萎えていき、代わりに胸がドキドキと跳ねる。
『1人でいる人がいたら、声をかけ上げなさい』
姉はよく、そんなことを言っていた。そしてあの吸血鬼は、きっと誰より1人だ。……けれどあの吸血鬼は、誰より優しかった姉の血を吸って殺した。
「……どうすればいいんだよ、お姉ちゃん」
少女のその声は、誰にも届かず冷たい夜の闇へと消える。……その筈だったのに、ふと背後から声が響いた。
「お前、また今日もあの鬼の所に行くのか?」
「……!」
少女は驚いたように、辺りを見渡す。けれど夜の闇が深すぎて、声の主を見つけることができない。
「わ、私は吸血鬼の所になんか、行かないぞ。ただ散歩してるだけだ!」
少女の村では、生贄以外の人間が吸血鬼の住む洞窟に近づくのを禁じていた。いたずらに吸血鬼を刺激して、恨まれでもしたらことだから。
「……まあいい。しかし、もし吸血鬼に出会うことがあるなら、この短剣を使うといい」
そんな声とともに、闇から1本の短剣が投げ渡される。
「あ、危なっ。こんなの投げて、怪我したらどうするんだ! ……それに、こんな剣じゃ……」
投げ渡された短剣は刃が鞘に隠れているから、どれくらい鋭いのかなんて分からない。けれど、どれだけ鋭かろうと、こんな短い剣ではあの吸血鬼を傷つけることは叶わないだろう。
少女がそんなことを考えていると、そんな少女の考えを見透かしたように、また声が響く。
「それには毒が、塗ってある。大猪も掠っただけ死ぬような、猛毒がな。いくら鬼といえど、その毒を喰らえば無事では済まないだろう」
「毒って、そんなので斬りつけたら……」
「あの吸血鬼は、沢山の人を殺してきた。そして……そしてこれからも、人を殺すのだろう。だから──」
そこで一度、強い風が吹く。辺りの木々がざわざわと音を立て、少女は思わず目を瞑る。
「なあ。どうして私に、こんなものを渡すんだ? ……どうした、聞こえてないのか? なあ、おい!」
風が止んだ後、少女は闇に向かってそう叫ぶ。けれどもう、返事は返ってこなかった。
「なんなんだよ、もう。……でも、これがあれば……」
小さな短剣を、鞘から抜いてみる。それは木々の合間から溢れる月明かりを反射して、妖しく光る。……もしかしてこれなら、あの吸血鬼を殺せるかもしれない。
そう思えるだけの迫力が、その短剣にはあった。
「……行こう」
少女は自分に言い聞かせるようにそう呟いて、短剣を鞘にしまい、いつもの洞窟に向かう。
「…………」
その間ずっと、少女の心臓は高鳴り続けた。この短剣があれば、ずっと殺したいと願い続けた吸血鬼を殺せるかもしれない。
「でも、どうして私は……」
なのにどうしてか、少女はそれを素直に喜ぶことができなかった。それどころか逆に、吸血鬼が毒に苦しんで死ぬ姿を想像すると、胸が痛くて泣きそうになってしまう。
「……あ」
そして気づけばいつもの洞窟にやって来ていて、珍しく外に出ていた吸血鬼の姿を見つけてしまう。
「────」
彼はまるで泣いているかのように、ただ虚に月を見上げていた。
……ああ、駄目だ。
そんな吸血鬼の姿を見て、少女はそう思ってしまった。自分にはこんな悲しい目をしている人を、殺せない。笑う心も泣く心もない癖に、彼は誰より寂しげで、何より……孤独だった。
「なあ、吸血鬼」
少女は猛毒の短剣を懐に隠して、いつもよりずっと静かな声で吸血鬼を呼ぶ。
「……なんだ貴様、また来たのか」
吸血鬼は当たり前のように、視線を月から少女に移す。
「私が、友達になってあげるよ。1人だと、寂しいだろ?」
「………………は?」
少女のいきなりの言葉を聞いて、吸血鬼の冷たい表情が初めて崩れる。
「ふふっ。お前でも、そんな顔するんだな。なんか、人間みたいだ」
「貴様は一体、何を言っているのだ。……友達? そんなものは、私には不要だ。そもそも私は、貴様の姉を殺したのだぞ? 貴様はそれを、恨んでいるではないか。なのにどうして、友達などど……」
「うるさい。……私は確かに、お前を恨んでる。私の1番大切なお姉ちゃんを殺してお前を、私は一生……許さない」
「なら──」
「でも、恨んでる人と友達になれない理由なんて、どこにもない。……そうだろ?」
「それは……」
吸血鬼は、上手く言葉を返せない。それ程までに、目の前の少女の価値観は、理解できないものだった。
「じゃあ、決まりだな! これからよろしくな、吸血鬼」
「……待て。私はまだ、認めた訳ではないぞ? ……そもそも私は、貴様ら人とは生きている時間が違う。貴様ら人など、瞬きする間に死に絶える生き物であろう。故に、悠久を生きる私とは──」
「もー! うるさいな!」
少女は痺れを切らしたようにそう言って、いつものように吸血鬼に飛びかかる。そしてそのまま、初めて会った時と同じように、吸血鬼の首筋に……歯を立てる。
「硬っ。やっぱり、硬い」
「……そうか。貴様は友達だとかいう言葉で私を油断させて、その隙をついて私を殺すつもりだったのだな?」
「違う! ……お前の肌すっごく硬いけど、でも私はちゃんと噛みついた。お前が人にするのと同じように、私はお前に噛みついた。だからこれからは私も、吸血鬼だ! それなら、友達になれるだろ?」
少女は、笑った。それこそまるで吸血鬼が苦手とする太陽のように、一切の曇りなく晴れやかに笑ってみせた。
「────」
勝てないと思った。
意味も理由も分からないのに、どうしてかこの少女には絶対に勝てないと、吸血鬼は強く思ってしまった。
「……おい。人の子」
「なんだ? お前がいくら嫌だって言っても、私はもう決めたんだからな!」
「違う。そうではない。……1つだけ、問いたい。友達とは一体、何をする存在なのだ?」
「うん? そんなの決まってるだろ?」
少女はそこでまた、笑みを浮かべる。そして真っ直ぐに吸血鬼の瞳を見つめて、当たり前のようにその言葉を口にする。
「一緒に居て楽しい人を、友達って言うんだ!」
その言葉はあまりに真っ直ぐで、少女の笑顔があまりに眩しくて、吸血鬼はもう何も言うことができなかった。
そうして2人は、本来あり得る筈のない友情を結んだ。
……けれどその関係が、長続きすることはない。
吸血鬼が人の血を吸ってから、一月。また吸血鬼に、生贄が差し出される時期がやってきた。……故に吸血鬼は、また人を吸い殺す。けれど少女はその当たり前の現実に、まだ気がついていなかった。




