今度は私の番です!
午後の授業をサボった玲奈は、急いで十夜の家までやって来た。
「……ふぅ」
大きく深呼吸をして、呼吸を整える。そして乱れた髪を直してから、覚悟を決めてチャイムを鳴らす。
「…………」
……けれどいくら待っても、十夜は姿を現さない。
「出かけてる……わけないか」
ちとせの話が本当なら、無闇に出歩くような真似はしないだろう。
「すみません」
だから玲奈は悪いと思いながらも、玄関のドアに手を伸ばす。……玄関には鍵がかかっていなくて、少し力を込めればドアは簡単に開いた。
「十夜くん、いるんですか? 悪いですけど、お邪魔しますね?」
玲奈はそう声をかけてから、丁寧に靴を脱いで十夜の家に上がる。
「…………」
十夜の家は、とても静かだった。このまえ料理を作りに来た時とはまるで別の場所のように、冷たい空気が家中に広がっている。
「……十夜くん」
玲奈は嫌な予感を振り払うように、早足に十夜の部屋を目指す。早く十夜に、会いたかった。彼が冷たさに飲み込まれてしまう前に、優しく抱きしめてあげたかった。
「十夜くん、居ますか?」
十夜の部屋の前までやって来た玲奈は、そう声をかけて部屋をノックする。……けれど返事は、返ってこない。
「入りますね?」
だからそう断りを入れて、ドアノブに手をかける。……しかし部屋には鍵がかけられていて、入ることができない。
「先輩、ですか?」
でもその代わり、部屋の中からそんな声が響いた。
「はい。そうです。その……勝手に入って来て、ごめんなさい。でも、聞いたんです。……あの人に、血を見せられたって……」
「そうですか」
十夜の声はいつもと違い、とても淡々としている。けれど玲奈は、十夜が返事をしてくれただけで嬉しかった。
「それで、十夜くん。ドアを、開けてもらえませんか? 一目でいいから、貴方の顔が見たいんです」
「ごめんなさい、先輩。今は、ダメです」
「どうしてですか?」
「今の俺の冷たい瞳を、先輩に見られたくないんです。……それにもしかしたら先輩のことを、とても嫌な風に……見てしまうかもしれない。だから、ごめんなさい。ここは、開けられません」
「……そう、ですか。でも私は……それでも、構いません。貴方がどんな風に私を見ても、私の気持ちは揺るぎません。だから、開けてくれませんか?」
「…………」
その玲奈の言葉に、十夜は返事を返さない。悩んでいるのか、それとももう何も思っていないのか。ドア越しでは、その感情を推し量ることはできない。
「…………」
でも玲奈は急かすようなことは何も言わず、黙って十夜の答えを待ち続ける。
そしてしばらく沈黙が流れたあと、自嘲するような声が響いた。
「ごめんなさい、先輩。やっぱり、無理です」
「……どうしてですか? 私なら、大丈夫ですよ? 貴方がどれだけ冷たい目で私を見ても、私は……気にしません。それより私は、貴方のことが心配なんです」
玲奈は、怖かった。今の十夜を1人にすると、心がどんどん冷たくなっていきそうで、怖くて怖くて仕方なかった。
「……先輩は、優しいですね。でも、ごめんなさい。それでもここは、開けられません」
「どうして、ですか?」
「怖いんですよ」
そこでドアから、軋んだような音が響く。だから玲奈は一瞬、十夜がドアを開けてくれたのかと思った。
「…………」
しかしいくら待っても、ドアが開くことはない。……だからきっとその音は、十夜がドアにもたれかかった音だったのだろう。
「俺はまだ辛うじて、人の心を保てています。世界から色が消えて、何もかもどうでもよくなって、それでも辛うじて人の心を保っていられる。でも……」
十夜はそこで言葉を止めて、軽く息を吐く。
「でも今先輩に会うと、その残った心まで消えてしまいそうで、怖いんです。大切で、大好きで、何より愛しい先輩を……餌だって思ってしまう。そうなったらきっと、最後に残った心まで消えてしまう。……だから、ごめんなさい。今はまだ、開けられません」
「…………」
その十夜の言葉を聞いて、玲奈の胸のうちに浮かんだ感情はただ1つ。
それでも私は、貴方に会いたい。
「…………」
でも玲奈は、その想いを言葉にしない。だって今そんなことを言っても、十夜を困らせるだけだから。だから玲奈はぎゅっと手を握り込んで、わがままな心に蓋をする。
「ごめんなさい、先輩」
黙り込んでしまった玲奈に、十夜はそう声をかける。
「……どうして貴方が、謝るんですか?」
「だって約束、してたじゃないですか」
その言葉を聞いて、玲奈は思い出す。本当なら今日この場所で、十夜に……口説いてもらえるはずだったことを。
「……貴方が謝る必要なんて、ありません。だって貴方は、何も悪くないんですから。悪いのは全部……」
「悪いのは、俺なんですよ。ちとせじゃなくて、俺なんです」
「……え?」
その十夜の言葉の意味が分からなくて、玲奈は戸惑いの声を上げる。
「俺は、先輩のことが好きです。ちとせには悪いけど、その気持ちが揺らぐことはありません。……でも俺は、あいつにたくさん助けてもらった。あいつが居たから、今こうして先輩と話すことができている。なのに俺は、そんなあいつに何も返してやれなかった。……あいつには俺しか居ないって分かっていながら、それでも俺は……先輩を選んだ」
十夜の声は、淡々としている。……しかし何故か玲奈には、その声がとても寂しげに聞こえた。
「……十夜くんがそう言うのなら、それはそうなのかもしれません。それに別に私も、あの人に何かするつもりなんてありません」
「そうですか」
十夜の答えは、それだけだった。でも、玲奈には分かる。今こうやって話している最中も、十夜は自らの冷たい心と戦っているんだと。
「それより、十夜くん。私に何か、できることはありませんか? 私、貴方の力になりたいんです。……少しでいいから、貴方のそばにいたいんです」
「…………」
そんな玲奈の言葉を聞いても、十夜は何も言ってくれない。……いやきっと、十夜にも分からないのだろう。これから、どうすればいいのか。どうすればまた、人の心を取り戻せるのか。
それは玲奈にも十夜にも、そして……ちとせにも、分からないことだ。
「…………」
「…………」
だから玲奈と十夜は、ただ黙って己の無力さと至らなさを、後悔することしかできない。……でもそんなことは、初めから分かっていたことだ。簡単にどうにかできるようなことなら、2人は何年も苦しんでいない。
冷たい冷たい吸血鬼の心は、同じ吸血鬼に血を吸われることでしか、救われることはない。2人はそのことを、誰より深く理解している。
だから2人を隔てる扉は、永遠に開くことはない。
「じゃあ私、毎日十夜くんに会いに来ますね」
……でも、だからこそ、玲奈は言った。
「だって貴方は、会いに来てくれた。ずっと1人だった私のところに、貴方は毎日……来てくれました。私が何度振っても、どれだけ酷い言葉を浴びせても、貴方は決して諦めず、私のところに来てくれたんです。だから……」
玲奈は思い出す。十夜が告白し続けてくれた、この半年間を。それは思い返せばとても幸福な思い出で、だから玲奈は心に決める。
「だから今度は私が、貴方に告白し続けます。どれだけ辛くても、何度振られても、毎日毎日ここに来て貴方に想いを伝えます。だって私は──」
そこから先の言葉は、もう何度も口にした言葉だ。でも玲奈の心臓は、まるで初めて告白するかのようにドキドキと高鳴る。
玲奈はそれが、不思議と嬉しかった。
「──私は貴方が、好きだから」
そう言葉にすると、辺りに広がっていた静けさが消えてなくなったように、身体が軽くなる。そして胸が、ポカポカと温かくなる。
「……先輩は、凄いですね」
十夜は眩しいものでも見たような声で、そう返す。
「凄いのは、私じゃなくて貴方です。だって私はただ、貴方の真似をしているだけなんですから」
「かも、しれませんね。……でも、ありがとう。先輩のお陰で、少しだけ希望が持てました」
そう答えながらも、それでも十夜は扉を開けてはくれない。それ程までに、十夜の心は冷たく凍てついてしまっていた。
「私、頑張りますね。冷たい吸血鬼なんてやっつけて、貴方の心を取り戻してみせます」
でも玲奈はそう言って、とびきりの笑みを浮かべてみせる。そのひたむきさは十夜から学んだことで、だから玲奈は絶対に諦めないと心に決めた。
そうして、紫浜 玲奈の吸血鬼退治が始まった。




