……ゆっくりと。
紫浜 玲奈は、幸せだった。
十夜が家を出たあと、玲奈はとりあえずシャワーを浴びることにした。昨日、十夜に身体を拭いてもらいはしたが、それでも今日のことを考えると、できるだけ身体を綺麗にしておきたかった。
「だって今日は、あの人……十夜くんの家で、口説いてもらえる」
そのことを考えると、自然と笑みが溢れる。それくらい十夜が愛しくて、それくらい十夜に……求めて欲しかった。
「……でも、十夜くんか。そう呼ぶと、ほんとに恋人みたい……」
十夜くん。そう呼ぶと、胸の中が幸せな気持ちで埋め尽くされて、玲奈はまた笑みを浮かべる。
「ふふっ、早く会いたいな」
そこで一度、シャワーを止める。そしてそのまま、いつよりずっと入念に身体と髪を洗っていく。……そうしていると、昨日の夜のことを思い出す。昨日は十夜に無理を言って、背中だけじゃなく胸まで拭いてもらった。そのことを思い出すと、玲奈の頬は真っ赤に染まる。
「十夜くんの手、凄く優しかったなぁ。……それに顔が真っ赤になってて、可愛かった」
……今すぐに十夜の家に行って、そのまま十夜を抱きしめたい。そんな欲望が、玲奈の胸のうちで暴れ回る。
「でも、我慢しないと。……だって今日こそ、私たちは……」
玲奈はもう、本調子に戻った。ならきっと、今日の夜にあの約束が果たされる。……そう思うと、玲奈の心臓はドキドキと高鳴る。
「あ、下着どうしよう。やっぱり、1番お気に入りのやつがいいかな? ……いや、やっぱり十夜くんが選んでくれたやつにしよう。その方がきっと、喜んでくれる」
幸福を噛み締めながら、最後に熱いシャワーを浴びて風呂場を出る。そして身体を拭いてから、用意しておいた制服に着替える。昨日はあんなに重かった身体が、今日はとても軽かった。
「うん。完璧。これなら十夜くんも、絶対に喜んでくれる」
部屋に戻って身だしなみを整えた玲奈は、一度ベッドに腰掛ける。……そこにはまだ十夜の温もりが残っているようで、玲奈は自然と昨日のことを思い出す。
「温かかったなぁ」
十夜のことを考えると、自然と笑みが溢れる。胸が勝手に、ドキドキする。そんな時間が、どうしようもなく幸せだった。
「……でもそろそろ、行かないと」
気づけば、もう家を出なければならない時間になっていた。だから玲奈は、十夜の温かさが残った布団を抱きしめてから、最後にもう一度身だしなみを確認する。
「……あ」
そこでふと、母が忘れていったであろう姉の写真が目に入る。
「姉さん」
玲奈は昔を懐かしむように、姉の写真を手に取る。写真の中の姉は、昔と変わらない笑みを浮かべていて、玲奈はなんだか泣きそうになる。
「姉さん。私ね、ずっと後悔してたの。だって大好きな姉さんは、私のせいで……死んでしまったから」
だから玲奈は、自分は幸福になるべきじゃないと思い込んだ。姉を死なせてしまった自分は、1人震えて生きなきゃいけない。そんな風に思い込むことで、辛い現実から逃げ続けてきた。
「でも思えば、姉さんがそんなことで喜ぶわけない。誰より優しかった姉さんが、最後まで私のことを想ってくれた姉さんが、そんなことで喜ぶわけがなかった」
玲奈は宝物を扱うように、その写真をずっと使っていなかった写真たてに入れる。そしてそのままゆっくりと引き出しを開けて、隠すように仕舞われていた小さな宝物を取り出す。
「やっぱり、綺麗」
それはいつも玲奈が使っている香水とは違う、姉から貰った大切な香水。玲奈はそれを、ずっと使うことができなかった。だって姉の香りを嗅ぐと、辛い記憶を……思い出してしまうから。
……でも今は、違った。
「姉さん。私、なれたかな? この香水の香りが似合うようなレディに、ちゃんと……なれたかな?」
香水を吹きかける。すると大好きだった姉の香りが漂ってきて、玲奈は我慢できずに泣いてしまう。
「姉さん……私、頑張るよ。姉さんが安心できるくらい、もっともっと幸せになってみせる。だから、もう……行くね? ありがとう。大好きだよ、姉さん」
玲奈は涙を拭って、部屋を出る。十夜への想いと、姉への想い。その両方で胸が満たされた玲奈は、家中に広がる寂しさなんて気にならなかった。
玲奈はとても晴れやかな気持ちで、家を出る。空はそんな玲奈を祝福するように晴れ渡っていて、玲奈の心はますます弾む。
「いい天気」
そして玲奈は、そのまま遅れないように急いで学校に向かう。本当は十夜の顔を見に行きたかったが、もう時間に余裕がなかった。
……でも昼休みになれば、また会える。
そう思うと心が弾んで、授業なんて一切頭に入ってこなかった。そして気づけば昼休みになっていて、玲奈は早足にいつもの校舎裏に顔を出す。
……けどそこに、十夜の姿はなかった。
「……今日は、来ないのかな?」
十夜だって、いつも暇なわけじゃない。そう分かっていても、玲奈はなんだか寂しかった。
「でも放課後になれば、すぐに会える」
言い訳のようにそう呟いて、1人ベンチに腰掛ける。校舎から聴こえてくる喧騒が、今日は妙に耳についた。
「十夜なら、来ないわよ」
そして、買ってきたパンの封を開けた直後、唐突にそんな声が響いた。
「……貴女、ですか」
声の方に、視線を向ける。するとそこには、いつもよりずっと冷たい瞳をした、御彩芽 ちとせの姿があった。
「そうよ。貴女に話があって……って、たくさん食べるのね、貴女」
ちとせは驚いたように、玲奈の隣に置かれた沢山のパンに視線を向ける。
玲奈は今日、弁当を作る余裕がなかった。だからその代わりと言うように、沢山のパンを買ってきた。……無論それは、自分の分ではなく十夜の分なのだが、玲奈はそれをわざわざ言ったりしない。
「そんなこと、どうでもいいです。それより、さっきの言葉はなんですか? どうして貴女が、十夜く……あの人が来ないって知ってるんですか」
「だって十夜、今日は学校休んでるから」
「……え?」
ちとせのその言葉を聞いて、玲奈がまず思ったのは風邪をうつしてしまったんじゃないか、ということ。でも続くちとせの言葉が、その考えを簡単に否定する。
「私は今日、あいつに血を見せた。だからあいつは、戻ったのよ。……貴女に惚れる前の、冷たい冷たい吸血鬼に」
風が吹く。冷たい冷たい風が2人の間を吹き荒び、世界から一瞬、音が消える。
「…………」
「…………」
ちとせはただ、玲奈を見つめ続けた。玲奈もただ、ちとせを見つけ続けた。
そうして玲奈の幸福は、ゆっくりと崩れていく。




