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とても冷たくて。



 赤い血が、流れた。



「……ごめんね? 十夜」


 唐突に現れたちとせは、まるで見せつけるように自分の唇に歯を立てた。だから血が、流れる。ゆっくりと静かに、まるで涙のようにそれは地面に滴り落ちる。



 その血を見た瞬間、俺の世界から色が消えた。



「────」



 世界の全てに真っ白なペンキをぶちまけられたように、全ての価値が消え失せる。大切だったものが、路傍の石ころと同じものにしか見えなくなる。何にも価値を、見出せなくなってしまう。



 ……そして人が、餌としか思えなくなる。



 大切だった人も、そうでない人も、まとめて血の溜まった袋にしか見えない。その景色は本当に地獄のようで、でももうそれを……悲しいとすら思えない。


「ちとせ、お前……」


 ちとせを見る。泣きそうな顔で赤い血を流す、1人の少女に視線を向ける。


 いつかこんな日が来ると、思っていた。ちとせがどうして急に血を見せたのか、その理由は俺には分からない。……でも普通に暮らし続けていたら、いつかきっと人の血を見ることになっていただろう。


 それこそ小学生の時と同じように、体育で誰かが転んだだけで、血を見てしまうんだ。だからいつか、こうなると思っていた。


「…………」


 ……きっと、そんなことを冷静に考えている時点で、俺の心は冷たさに飲まれているのだろう。でも今となってはもう、それに抗う手段がない。


 世界から、色が抜けていく。楽しかった思い出も、大切だった思い出も、紫浜先輩への……愛情も。全て全て、消えていく。……嫌だと思った。それだけは絶対に、嫌だと。


 ……でもそんな風に思える心も、少しずつ凍っていく。


「十夜、ごめん。でも……でももう、こうするしかなかったの。それ以外に、あんたを繋ぎ止める方法が分からなかった……」


 ちとせの声は、震えている。でも彼女は、決して涙を流さない。自分が悪いと分かっている時は、ちとせは絶対に泣いたりしない。


 ……けどその代わりと言うように、ちとせは勢いよく俺の胸に飛び込んだ。


「大好き。大好き。大好き。大好き。あんただけを、愛してる。だからもう……どこにも、いかないで。……お願い。なんだってする。あんたが望むなら、私なんでもする……! だから……だから! ずっとそばに、いてよ……」


「…………」


 ちとせは決して、涙を流さない。けど泣いているのと同じくらい悲しい顔で、こちらを見上げる。……でもそんなちとせを見ても、俺の心は動かない。


「なあ、ちとせ」


「……なに、十夜」


「俺にとってお前は、とても大切な存在なんだ。だから……」


 だから、何なのだろう? 何か大切なことを言おうとしたはずなのに、その想いもどこかに消えてしまう。


「…………」


 大切な友達だったはずのちとせが、ゆっくりと周りの景色に飲まれていく。世界が同じ白に、染まっていく。


 そして、必死になって俺の身体を抱きしめるちとせのことも、もう餌にしか……。


「ちとせ、離してくれ」


「……私のこと、嫌いになった?」


「違う。……お前なら、分かるだろ?」


「……そ。私のことも、感じられなくなったのね。……うん。あんたの綺麗な瞳が、昔みたいに透明になった。だからあんたは、戻ったんだ。……あの女を、好きになる前に。……ううん。私と出会う前の、あんたに」


 ちとせは俺から、手を離す。凍った心では、その表情は伺えない。


「…………」


 そのまま俺は、ちとせに背を向ける。……これ以上一緒に居ると、ちとせのことも餌としか思えなくなる。だからそうなる前に、逃げるように家に駆け込む。



 それが残った心でできる、唯一のことだった。



「……ごめんね、十夜。でも……愛してる。私はあんたを、愛してるの! だから、待ってて! 私……私が絶対に、あんたの心を手に入れてみせる! 今度こそ絶対に、手に入れてみせるから……!」


 そんな言葉が、最後に響いた。でも俺はそれに何の返事も返さず、急いで自室に戻る。そしてカーテンを閉めて、そのままベッドに倒れ込む。


「…………」


 どうしてか、ちとせと初めて会った時のことを思い出した。公園のベンチに1人腰掛けていた、真っ白な少女。そんな少女と関わるうちに、俺は少しだけ温かさを感じられるようになった。


 そしてそれと同じように、紫浜先輩と触れ合う時も温かさを感じられた。俺はそんな2人と触れ合うことで、人の心を取り戻すことができた。


「…………」


 でもさっきは、ちとせを見ても何も感じなかった。昔は感じたはずの温かさを、どこにも感じることができなかった。……だから俺は、逃げるしかなかった。


 かろうじて、人であるうちに。ちとせのことを、傷つける前に。


「また2人と触れ合うことで、温かさを取り戻せる。……なんていうのは、きっと甘い考えなのだろう。今の俺の心は、昔よりずっと……冷たいんだから」


 たぶん吸血鬼の心は、歳をとればとるほど冷たくなっていく。だから紫浜先輩のお姉さんは、5年で死ぬと言った。そして血を見てしまった俺の心は、もう長くは……持たない。


「紫浜先輩に会うのが、怖いな」


 もう彼女のことも、餌にしか見えないのだろう。……いや、そのことを怖いと思えるだけ、まだマシだ。きっとそう遠くないうちに、そう思える心も消えてしまう。そして当たり前のように、彼女のことも傷つけてしまうのだろう。


「……それだけは絶対に、嫌だな」


 そう呟く言葉に、重みを感じなかった。まるで台本でも読んでいるかのように、他人事だった。


「これから、どうするかな」


 辛うじて人の心が残っているうちに、動かなければならない。……そうじゃないと、取り返しのつかないことになる。せっかく恋人になれたのに、他ならぬ俺の手で紫浜先輩のことを傷つけてしまう。



 ──それが、なんだっていうんだ。



 ふと、そんな言葉が胸を過った。


「……くそっ」


 そんな自分が、嫌だった。……でもどれだけ嫌だと思っても、心が凍るのを止められない。


「…………」


 何かしなければならないというのは、分かっている。けど、その何かがどうしても分からない。だから俺は、逃げるように目を瞑った。


 気づけばとっくに、授業が始まる時間になっていた。でもそんなこと、もうどうでもよかった。



 ……全て、全て、どうでもよかった。



 そうして俺は、吸血鬼に戻った。



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