楽しみ
「……朝、か」
軽く伸びをして、窓を開ける。すると朝の澄んだ空気が、風にのって部屋に広がる。俺はそんな心地のいい空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく大きく息を吐く。
昨日、紫浜先輩と恋人になった。
お互いの過去を伝え合い、現状の問題を理解して、それでも俺たちは恋人になることができた。……でもだからって、全ての問題が解決したわけではない。
どうすれば吸血鬼の冷たい心を、人の心に戻せるのか。
それはまだ全くと言っていいほど、分かっていない。だから……そう。あまり浮かれるわけには、いかない。俺たちには解決しなければならない問題がまだまだあるし、何より恋人になるのはゴールではなくスタートだ。
だから今までより一層、気合を入れて……。
「……ふはっ」
と。そんなことを考えたそばから、笑ってしまう。……ああ、そうだ。俺はとても、浮かれていた。ともすれば、今すぐにでも踊り出してしまいそうなくらい、ウキウキだった。
だってようやく、先輩と付き合うことができたんだ。
「そして何より、今日この部屋で先輩と俺は……」
そう考えると、どうしても浮かれてしまう。だから寝不足でふらふらする頭を無視して、俺は1人笑みを浮かべる。
昨日は結局、深夜まで話し込んでしまって、家に帰ってきたのは夜の2時過ぎだ。先輩は泊まっていってもいいと言ってくれたけど、俺は一度家に帰ることにした。
色々と考えたいこともあったし、何よりあのまま先輩のそばにいると、変なことをしてしまいそうだった。それくらい俺は、先輩と恋人になれたことが嬉しかった。
「……って、あんまりゆっくりしてると遅刻するな」
そう呟き、部屋を出る。
「先輩に会うの、楽しみだな」
……けど結局俺は、浮かれたままだった。
◇
「おはよう、十夜。いい朝ね」
手早く準備を整えて家を出ると、仁王立ちしたちとせが家の前で俺のことを待ち構えていた。
「……おはよ、ちとせ。今日は早いな」
「別に、いつも通りよ。それより、昨日……どうだったの?」
ちとせは有無を言わせぬ瞳で、俺の方に一歩踏み出す。だから俺は覚悟を決めて……というか、元より誤魔化すつもりなんてない。先輩とのことは、今日の部活で皆んなに伝えるつもりだった。
だから俺は正直に、昨日のことをちとせに伝える。
「俺さ、紫浜先輩と付き合うことになったよ」
「…………」
その言葉を聞いても、ちとせは眉1つ動かさない。それどころか逆に、それくらい分かっていたと言うように、毅然とした態度を貫く。
「まあ、そうなるわよね。……でも、ちゃんと伝えたの? 吸血鬼のこととか、あんたの心のこととか」
「ああ、ちゃんと伝えたよ。その上で、俺たちは恋人になったんだよ」
「……そ。まあ、あんたが傷つかなかったなら、私はそれでいいわ」
ちとせは優しい笑みを浮かべて、軽く息を吐く。
「…………」
……正直、意外だった。先輩とのことをちとせに伝えると、ちとせはもっと取り乱すものだと思っていた。というか実際、俺と先輩が抱き合っているのを見た時のちとせは、とても取り乱していた。
なのに今日のちとせは、冷静だ。……少し、怖いくらいに。
「じゃあ、行きましょ? 十夜」
ちとせは当たり前のようにそう言って、歩き出す。
「ああ、そうだな」
だから俺もできるだけいつも通りに、ちとせの背中を追う。
「ねぇ、十夜。あんた、私がもっと怒ると思ってたでしょ?」
「……まあな。怒るっていうか、もっと……取り乱すと思ってた」
実際、逆の立場なら俺は死ぬほど動揺するだろう。
「実は私もね、そう思ってた。……今日は朝早くから、あんたが家から出てくるのを待ってたの。その時は本当に、胸が痛かった。……でもあんたの言葉を聞いて、私……安心したの」
「安心? どういう意味だよ、それ」
「私の気持ちは、全く変わらなかったのよ。あんたとあの女が付き合ったと分かって、それでも私はあんたのことが好きなままだった。……そりゃちょっとは、ショックだったけど……。でも私、全く諦めてなかったの」
ちとせが、俺を見る。いつもの真っ直ぐな瞳で、俺だけをただ見つめる。
「あの女から、あんたを奪い返す。私の目的は、何も変わってない。なら取り乱す理由なんて、どこにもないでしょ?」
それは確かにその通りで、でもだからって普通はこんなに凛として振る舞うことなんてできないだろう。ちとせのそういうところは、素直に凄いと思う。
……しかしそれでも、俺の気持ちは揺るがない。
「かもな。でも俺は、紫浜先輩が好きだよ」
「知ってる。だから私が、それを変えるのよ。……言っとくけど、あんたが迷惑だって思っても私は絶対に諦めないから」
「お前の性格は、分かってるつもりだよ。でも、前みたいに2人きりで遊んだりはできないぞ? 俺には……彼女ができたんだから」
「バカね、それくらい分かってるわ。……でも私には、文芸部がある。あそこでなら、毎日あんたと会うことできる。つまり毎日、チャンスがあるってことじゃない」
「そりゃ……そうかもしれないけど、でも先輩を怒らせるような真似だけはするなよ?」
そう言っておきながら、ちとせがそんな馬鹿な真似はしないと、俺はとっくに知っている。
「……と。そういえば、ちとせ。お前に聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
ふと思い出したことがあって、ちとせの方に視線を向ける。
「あの白い本について、聞きたいの?」
「お前は相変わらず、鋭いな。……ああ、そうだよ。お前、言ったよな? あの本に、紫浜先輩の罪が隠されてるって。でもあの本を読み終えて、先輩の過去を知って、それでもそれが何を指しているのか俺には分からなかった」
「……そ。まあ、あの女だって、全てを把握してるわけじゃないしね。知らないのも、無理ないか」
「どういう意味だよ? それ」
「内緒よ。まあ、あんたが私と付き合ってくれるなら、教えてあげてもいいけど?」
「なら、聞かねーよ」
「もったいないわね。今ならサービスで、私のおっぱいを好きなだけ触らせてあげるのに」
「そんなサービス、要らねーよ」
俺はすまし顔でそう返すが、本当は無理にでもちとせから話を聞いておきたかった。だって俺にも先輩にも、いつまで時間があるか分からない。だから手がかりになるようなことは、どんなことでも知っておきたい。
……けど俺は、ちとせではなく紫浜先輩を選んだ。ならここで都合よく、ちとせに頼るような真似はできない。
自分たちの問題は、自力で調べる。きっとそれが、彼氏としての俺の責任だから。
「ねぇ、十夜」
そんな風に考え事をしていると、まるで空にでも話しかけるみたいに、ちとせがそう呟く。
「なんだよ、ちとせ」
だから俺も空を見上げて、そう返す。……今日は雲1つない、綺麗な青空だった。
「私、諦めないから。絶対に絶対に、諦めないから。だから……待っててね」
ちとせはそれだけ言って、走って行ってしまう。……というか気づけばもう、学校は目と鼻の先だった。
「……俺も、行くか」
だから俺も早足に、学校に向かう。
そうして、新たな日常が始まった。




