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幸せの為に。



 紫浜先輩の過去は、とても悲しいものだった。ただ1人寂しさに膝を抱えていた俺とは違い、先輩は大切な人を亡くしていた。


 だから先輩は話の途中、何度も何度も涙を流して、俺は思わず止めてしまいそうになった。……けれど俺たちは、約束していた。お互いの過去を伝え合って、それでも想いが変わらなければ……恋人になると。


 なら話を途中で止めるのは、その約束を反故にしようと言っているようなものだ。だから俺はただ黙って、先輩の話に耳を傾けた。



 先輩が、養子だったこと。先輩と先輩のお姉さんが、俺と同じ吸血鬼だったこと。それに冷血吸血鬼の秘密と、先輩と先輩のお姉さんの悲しい結末。


 それらはとても驚くべきことで、同時にとても悲しいことだった。



 ……でもだからって別に、それが今の現実を変えるようなものではない。


 だってそれはもう、終わったことだ。先輩のお姉さんのことや先輩の過去は、悲しいけれど受け入れるしかない。だからそれで、俺と先輩の関係が変わるとは思えない。



 ならどうして先輩は、自分の過去を話すと俺との関係が終わると思ったのだろう?



「…………」


 ……いや、想像はつく。とてもとても嫌な想像が、頭にこびりついて離れない。けれど俺はそれを言葉にせず、先輩の話を聞き続けた。……それがただの現実逃避だと、自覚しながら。




「……これで、大筋の話はお終いです」


 話がひと段落ついた頃、先輩は大きく息を吐いて強張っていた身体から力を抜く。


「辛い話なのに、話てくれてありがとうございました、先輩」


 だから俺は、そんな先輩に労いの言葉を送る。


「いいんです。だって、約束したでしょ? お互いの過去を伝え合うって」


「……そう、でしたね」


 俺たちは軽い笑みを浮かべあってから、ほとんど同時に目の前の紅茶に口をつける。……紅茶はとっくに冷めていて、とても冷たかった。


「それで、姉さんが……亡くなってから、私の心に異変が起きたんです。ずっとずっと冷たかった私の心は、何故か急に温かさを感じるようになったんです」


「それってもしかして、お姉さんに血を吸ってもらったからですか?」


 吸血鬼は同じ吸血鬼に血を吸われると、人の心を取り戻せる。それはあの白い本に書かれていたことであり、俺がちとせから聞いた噂でもある。


 普通に考えれば、そんな話は眉唾だ。……でもそうではなかったと、先輩は言葉を続ける。


「姉さんが居なくなってから、私は急に世界に温かさを感じるようになりました。それは一見、とても喜ばしいことです。……でも、実際はその逆でした……」


 先輩はとても悲しい気な表情で、窓越しに遠い夜空を見上げる。


「人の心を手に入れた私は、姉さんを殺してしまった現実に耐えられなかった。……いえ、それだけじゃない。学校にも家にも、どこにも私の居場所なんてなくて、誰もが私を拒絶する。そんな世界に、私は耐えられなかった。だから冷血吸血鬼という仮面を被り、現実から目を逸らし続けたんです」


 それが、冷血吸血鬼の正体。紫浜先輩が俺よりずっと他人を拒絶して見えたのは、彼女が俺よりも他人の気持ちが分かっていたからなのだろう。


「辛かったんですね、先輩」


「いえ、そんなことないです。私の感じた辛さなんて、姉さんと比べれば……」


「辛いとか悲しいとかいう気持ちは、他人と比べるものじゃないですよ」


「……かも、しれませんね。でも私は、姉さんを殺してしまった自分を、許せなかった。だからその辛さは、自分への罰だと思ったんです。ずっとずっと、そうやって苦しんで死ぬのが私への罰なんだと。でも……」


 でも貴方が、来た。先輩はそう言って、昔を懐かしむように目を細める。


「貴方は私の拒絶なんてお構いなしに、毎日のように私の所にやって来た。……私はそれが、本当は嬉しかったんです。……でも、姉さんを殺してしまった私が幸福になるなんて、そんなの……許されるわけない。そう思って、貴方を拒絶したんです」


「そう、だったんですか。……でも先輩のお姉さんだって、先輩の幸福を望んでいるはずですよ?」


「……はい。分かっては、いたんです。姉さんはそんなこと、望まないって。でも、怖かった。貴方を好きになればなるほど、姉さんとの思い出が薄まっていくようで……怖かった。それに……」


 先輩はそこで真っ暗な空から視線をそらし、俺の瞳を覗き込む。だから俺も、真っ直ぐに先輩を見つめ返す。



 するとどうしてか、心臓が高鳴った。



 ……いや、好きな人と見つめ合っているのだから、ドキドキするのは当然だろう。……でも何故か、俺は何かを耐えるように、強く強く手を握り込んでいた。


「それに、私の中の冷たさが全てなくなった訳ではないんです。……血を吸った量が、少なかったのか。それとも他に何か、理由があるのか。私には、分かりません。でも私の中には、まだあの吸血鬼の冷たさが残っているんです」


「それは俺も、同じですよ。俺だっていつまた、あの冷たさに飲み込まれるか分からない。けどそれでも俺は──」



 貴女が好きなんです。



 俺のその言葉を、先輩は首を横に振ることで遮ってしまう。


「私も……私も、貴方のことが好きです。ここ最近は貴方のことしか考えられないくらい、貴方のことが大好きです。……でも貴方が私に会いに来たのは、きっと姉さんが私の為に仕組んだことなんです。それでも貴方は、私を好きだって言ってくれますか?」


「言いますよ。誰のお陰でも誰のせいでも、関係ないです。どんな理由があったとしても、俺は貴女が好きです」


「……貴方は、優しいですね」


「俺はただ、当たり前のことを言ってるだけですよ」


「ふふっ。そうですか」


 先輩はどこか呆れたように、笑みを浮かべる。


「……でも、姉さんは言ったんです。自分はあと5年で死ぬ、と。当時の私は、その言葉の意味が分かりませんでした。だって何度病院で検査しても、姉さんの身体に異常なんてなかったから」


「…………」


 そこから先の言葉は、聞きたくはなかった。……でも、止めたって意味はない。目を瞑っても耳を塞いでも、現実は何も変わらない。だから俺はただ黙って、先輩の言葉に耳を傾ける。



 ……それ以外に、できることなんて何もなかった。



「でも最近になって、ようやくその意味が分かったんです。……だって私も、同じ感覚を感じてしまったから。そしてそれはきっと、貴方も同じなのでしょう? 未鏡 十夜さん」


「…………」


 俺は、答えを返さない。


 いつかちとせは、言っていた。先輩に恋をしても、お互い傷つくだけだと。それは確かに、その通りなんだ。俺はずっと前からそれを知っていて、でも俺はずっとそのことから目を逸らし続けてきた。



 だって、それは……。



 俺は血が出るくらい強く手を握り込んで、先輩の瞳を見つめ続ける。すると先輩は覚悟を決めるように目を瞑ってから、その言葉を口にした。





「──私の心は、あと何年も持ちません。そしてそれは、貴方も同じなのでしょう?」





 先輩のお姉さんは、自分の心が長く持たないと知っていた。そしてそれは、同じ吸血鬼である俺と先輩も……同じなんだ。だから俺たちのこの想いも、いつか簡単に消えてしまう。



 そんなどうしようもない運命が、俺たちの目の前にあった。


 

 ……そしてその運命に抗いたいと言うのなら、それは……。




「私が、貴方の血を吸います。そうすれば貴方は、人として幸福に生きられるはずです。……私は、貴方の幸福の為に死にたいんです」



 先輩の言葉は、ただ虚に夜の闇に響いた。



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