大好きだよ。
紫浜 美咲は、自ら命を断とうと考え朝早くに家を出た。
「行くならやっぱり、あそこかな。死に顔はできれば、誰にも見られたくないしね」
ざーざーと降り注ぐ雨を赤い傘で弾きながら、美咲はいつものように無邪気に笑う。……けどその心は、冷たい闇に覆われていた。
5年で死ぬと、美咲は言った。
けれどそれは、実際の命の話ではない。確かなことは誰にも分からないが、このまま何事もなく生きられたとするなら、きっと美咲は10年でも20年でも生き続けられるだろう。
では一体、何が死ぬのというのか。
それは、心だ。ずっと昔から冷たさしか感じられなくなっていた美咲の心は、あと5年で完全に何も感じられなくなる。
それを直感的に理解していた美咲は、最後に人の温かさを感じたいと思った。だから玲奈を、妹にした。
……けどそれが、全ての間違いだった。
だって美咲は玲奈を、愛してしまった。彼女の笑顔を見ると、泣きたくなるくらい胸が熱くなる。彼女の為なら、なんだってしてあげたいと思ってしまう。それくらい美咲は、玲奈のことを大切に思ってしまった。
それは一見、悪いことではない。けどずっとずっと冷たさしか感じられなかった美咲の心は、その温かさに耐えられなかった。
だから美咲は、何度も何度も酷いことをしてしまった。
玲奈を傷つける存在は、許せなかった。彼女の願いは、何でも叶えてあげたかった。だから色々と無茶をして、玲奈の孤独を深めてしまった。
「冷血吸血鬼、か。それはきっと、私のことだよ」
玲奈の為という言葉を言い訳にして、血も涙もないことを何度もした。だからきっと、その名で呼ばれるのは自分こそが相応しい。美咲はそう、自嘲する。
「……でもこれからはもう、守ってあげられない」
朝早くに両親に呼び出された、あの日。美咲は両親に、聞かされた。この冷たい心を、人間の心に戻す方法を。
それは、血だ。
自分と同じ冷たい心を持った人間……吸血鬼に血を吸われると、心が元の人間に戻る。つまり吸血鬼は、同じ吸血鬼に血を吸われると人間になれる。
身体から毒を吸い出すようなものだと、美咲の両親は言った。でもだからこそ吸った者は、その毒に耐えきれなくて死んでしまうのだと。
美咲はその話を聞いた時、両親の正気を疑った。だってそれは、あまりに非現実的なことだったから。……でも両親の話を聞くにつれ、その言葉が嘘ではないと分かった。
美咲の両親は、美咲の心が普通ではないと昔から知っていた。だから彼らは、それを元に戻す方法をずっとずっと調べ続けた。けれど、どれだけ調べてもその方法は見つからなくて、遂に彼らはオカルト方面にまで手を伸ばした。
とある地方に伝わる、吸血鬼の伝承。
人になりたいと願い人の血を吸い続け、けれどどれだけ吸っても人にはなれない。そして最後は、同胞に血を吸われて死んでしまう。しかしその刹那、吸血鬼は確かに人になった。
そういう話が、あるらしい。
そんなものはただの御伽噺だと、誰もが思うだろう。けれど美咲の両親は長い研究に疲れ果て、一種の狂気でその手の伝承を調べ回った。
結果、どうやらそれが真実であると知ってしまった。
自分たちと同じような狂気に取り憑かれ、実際にそれを試してみた人間を見つけた。彼らは自分たちの息子を人間に戻す為に、同じ吸血鬼と思われる人間に息子の血を吸わせた。
美咲の両親はあらゆる手段を使ってその人物を探し出し、その成果を尋ねた。
『確かに息子は、人に戻った』
そう聞いた時、彼らは歓喜に涙するほど喜んだ。そしてすぐに、その事実を美咲に伝えた。それは、美咲からしても嬉しいことだった。
でも……。
『あの妹はお前に懐いているようだったから、頼めばそれくらいしてくれるだろう』
彼らは玲奈が死んでしまうことなんて、何とも思っていなかった。だから美咲は、彼らのことを両親だと思うのは辞めにした。自分の為に長いあいだ頑張ってくれたのは知っているけど、玲奈の敵になるなら自分の敵だと。
『分かった。でももう少しだけ、時間をちょうだい』
美咲はいつもの笑顔でそう嘯き、両親の元を後にした。そして、どうやって妹を守るか考えながら歩いていると、1人の少年を見つけた。
その少年はとても綺麗な目をしていて、でも同時に身も凍るような冷たい空気を纏っていた。
本物の吸血鬼だと、美咲は思った。
自分や玲奈とも違う、もっと血の濃い本物だと。だから美咲は、考えた。その少年を利用すれば、玲奈を人に戻せるんじゃないかと。無論、自分の命を玲奈に差し出すという考えもあった。けどそれだと、玲奈を守る人間が居なくなってしまう。
……それに何より、優しい玲奈は自分のせいで姉が死んでしまうなんて現実に、耐えられないだろう。
だから美咲は、どうにかして彼に玲奈の血を吸わせようと考えた。
……でも、それも無理だった。
彼は、1人だった。自分や玲奈と同じように冷たい心を持っている彼は、誰にも愛されていなかった。馬鹿にされて、嫌がらせをされて、それでもそれを悲しいとも思えない。彼はそんな心で、たった1人で生き続けていた。
美咲はそんな彼を、助けてあげたいと思った。彼を騙して玲奈の血を吸わせるなんて、そんなのは悲しすぎると。
だから美咲は、玲奈を救う方法と彼を救う方法。その2つを、必死になって考えた。
彼がこれ以上、孤独を感じなくて済むように。彼が少しでも、笑えるように。そして自分に変わって、玲奈のそばに居てくれるように。美咲はあらゆる手段を使って、その願いが実現するよう画策した。
そして先日、ようやくその準備が整った。だからその祝いも兼ねて、玲奈と一緒にパーティーを楽むことにした。その時間は、本当に楽しい時間だった。自分が渡した香水を宝物のように見つめる玲奈は、本当に本当に可愛かった。
ずっとこの子のそばに居たいと、思った。
ずっとずっとこの子の為に生きていきたいと、そう願った。……でも、翌日の朝。唐突に、何の前触れもなく、その冷たさがやってきた。
あんな子供を喜ばせて、一体なにになるっていうの?
それは本当に、一瞬の出来事だった。でも確かに美咲は、そう思ってしまった。
元より自分の心は、長く持たない。そう分かっていたから、急いで計画を進めた。……でも分かっていたとしても、美咲はそんな自分に耐えられなかった。
このまま生きれば、あと4年は人の真似をしていられる。けどその間ずっと、玲奈を愛していられるとは限らない。いつまたさっきのように、玲奈への愛情が冷たい心に飲まれてしまうとも限らない。
だから美咲は、家を出た。心が死んでしまう前に、自ら命を断つ為に。
「大丈夫。私は居なくなるけど、私の代わりに彼が玲奈ちゃんを守ってくれる。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、そうなるよう手は打っておいた」
だから、ごめんね。何も言わずに出て行って、ごめんね。せっかく家族になれたのに、1人にしてごめんね。ずっとずっと守ってあげたかったのに、ダメなお姉ちゃんでごめんね。
そんな想いを、美咲は大きなため息で振り払う。
そして立ち入り禁止の山に入り、崖になっている所から飛び降りようと考える。ここは、美咲がもしもの時にと考えていた場所。ここで死んだなら、きっと誰にも見つかることはない。
それは、大勢の人に迷惑をかける行為だ。でも人を人とも思えない美咲にとって、そんなことはどうでもいいことだった。
……だから美咲が気になるのは、1つだけ。
「書き置きくらい、残してくればよかったかな。玲奈ちゃん今ごろ、私のこと探してるかもしれない。泣いてなきゃ、いいけど……」
玲奈の泣き顔を想像すると、胸が痛んだ。今すぐこんな馬鹿な真似は辞めて、彼女の元に駆け出したい。そう思うくらい、胸が痛む。
……でも今ここで逃げ出せば、きっといつまで経っても引き伸ばしてしまうだろう。そしていつの日か他ならぬ自分の手で、玲奈のことを傷つけてしまうかもしれない。
それだけは絶対に、嫌だった。
だから、美咲は……。
「…………嫌だ。怖いよ、玲奈ちゃん」
それでも美咲は、飛ぶことができなかった。だって、怖かった。死ぬことがじゃない。玲奈ともう会えないと思うと、怖くて怖くて仕方なかった。
美咲も玲奈と同じように、温かさを知って弱くなってしまった。美咲はこの時初めて、そんな自分の弱さに気がついた。
「ごめんね……玲奈ちゃん。ごめん……!」
美咲は、泣いた。雨にずぶ濡れになりながら、ずっとずっと泣き続けた。そして気づけばふらふらとした足取りで、家に向かって歩いていた。
ただ玲奈に、会いたかった。
ほんの少しでいいから、彼女の笑顔が見たかった。1人にしてごめんねって謝って、優しく抱きしめてあげたい。そして今までありがとう、大好きだよって、伝えたかった。
……でもその瞬間に、玲奈への愛も消えてしまうかもしれない。そうなれば自分は、玲奈に何を言うか分からない。
だから美咲の足取りは重く、気づけば辺りは夜の闇に飲まれていた。
「姉さん!」
すふとふと、声が響いた。美咲は一瞬、幻聴かと思う。けれど辺りを見渡すと、そこには確かに玲奈の姿があった。
……玲奈は涙を流しながら、美咲の元へと走る。美咲はそんな玲奈が愛おしくて愛おしくて、思わず目から大粒の涙が溢れてしまう。
「…………玲奈ちゃん?」
そんな気の緩みが、判断を一瞬だけ遅らせた。一台の車が、凄い勢いでこちらに迫ってくる。けれど玲奈は美咲に気を取られて、そのことに気がついていない。
そして車の運転手も、雨による視界不良で玲奈のことが見えていない。
「……玲奈ちゃん! ダメ……!」
気づきば美咲は、道路に飛び出していた。そして自分のことなんて全く顧みず、勢いよく玲奈を突き飛ばす。
「────っっっ!」
身体がバラバラになったのかと思うほどの衝撃が、美咲の身体を襲う。けどそんなことはどうでもよくて、それより玲奈のことが心配だった。
「……ああ、よかった……」
玲奈に怪我は、無かった。美咲はそれが本当に本当に嬉しくて、だからいつものように……無邪気な笑みを浮かべた。




