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覚えています。



 玲奈は今でも、その日のことを覚えている。



 雨が、降っていた。厚い雲に覆われた空から、冷たい雨が降り注ぐ。何故だか早くに目が覚めてしまった玲奈は、朝早くからそんな空をぼーっと眺めていた。


「…………」


 秋の終わりの、冷たい空気。ざーざーと響き続ける、悲しげな雨音。とても静かだと、玲奈は思った。まるで世界中の音がこの雨音に吸い込まれていくように、雨の音以外なにも聴こえない。それは自分の心音すら消えてしまったと錯覚するくらいの静寂で、玲奈は大きく息を吐く。


「……姉さん、まだ寝てるのかな?」


 ちらりと、時計に視線を向ける。時刻はまだ、朝の5時過ぎ。訪ねるには、まだ随分と早い時間だ。だからいくら会いたいと思っても、我慢しなくちゃいけない。


 玲奈は自分にそう言い聞かせて、また空に視線を向ける。


「……あ」


 するとふと思い至って、引き出しから赤い小瓶を取り出す。それは、昨日のパーティーで美咲がプレゼントしてくれた香水だ。玲奈はその香水は、大人になってから使おうと考え、大切に机の中にしまっていた。けどどうしても気になってしまい、それを手に取る。


「……綺麗」


 赤い小瓶を通して、空を見上げる。すると灰色だった空も綺麗な赤に染まって、玲奈は思わず笑ってしまう。


「ふふっ。いつかこの香水をつけて、姉さんと出かけたいな。きっと凄く、楽しいんだろうなぁ」


 その光景はまるで夢のようで、思い浮かべるだけで幸福で胸が満たされる。そして、そんなことを考えていると我慢できなくなってしまい、玲奈は一度だけ香水を吹きかける。


「……姉さんの、匂いだ」


 抱きしめもらった時に感じる、甘い香り。それが辺りに漂って、玲奈の心臓はドキドキと高鳴る。それくらい玲奈は、嬉しかった。まるで自分も、姉のようにかっこいい大人になれた気がしたから。


 だから玲奈はその香りが似合うように、お洒落してみることにする。ブラシで髪をとかして、姉の髪型を真似てみる。そしてお気に入りの服に着替えて、鏡の前に立つ。すると自分と姉が、本当の……血の繋がった姉妹のように感じられて、玲奈はまた笑みを浮かべる。


「姉さん、褒めてくれるかな」


 そう呟くと、どうしても姉に会いたくなってしまう。だから玲奈は我慢できずに、美咲の部屋へと向かう。一言でいいから、可愛いねってそう言って欲しかった。


「姉さん。起きてる?」


 部屋を軽くノックして、そう声をかける。……けれど返事は、返ってこない。


「……まだ、寝てるのかな」


 そう思い、引き返そうとする。……けどなんだか嫌な予感がして、ドアノブに手を伸ばす。


「姉さん。入るよ?」


 ドキドキと、心臓が高鳴る。それは先ほどとは全く違う、嫌な響きだ。だからドアノブを回す手が、震える。背中に、嫌な汗が滲む。でも玲奈は、そんな予感なんて気のせいだと自分に言い聞かせて、ゆっくりと扉を開く。



「…………え?」



 けれどそこには、誰の姿もなかった。



 美咲の部屋は、まるでもう誰も帰ってこないみたいに綺麗に掃除されていて、昨日一緒に遊んだ場所だとはとても思えない。


「……出かけたのかな?」


 そう呟くけど、それはあり得ないと玲奈はすぐに気がつく。だって今はまだ、朝の6時過ぎだ。それに姉が自分に声をかけずに出かけたことなんて、今まで一度もなかった。



 でもじゃあ姉は、一体どこに行ったんだ?



 ……答えは、ない。



「……トイレに行ってる、だけかもしれない」


 そう呟きながら、玲奈は早足に家の中を見て回る。……でもどこにも、姉の姿はない。ずきりと、胸が痛む。思わず駆け出しそうになってしまうくらい、胸がざわつく。けど姉の行きそうな場所なんて思い浮かばなくて、駆け出すこともできない。


「姉さん。どこに行ったの?」


 昨日のあの、楽しかったパーティー。姉にあんなに遊んでもらったのは本当に久しぶりで、思い出すだけで胸が温かくなる。


 ……ずっと冷たかった玲奈の心も、美咲と関わることで変わった。だから玲奈はもう、美咲の居ない世界で生きることなんて考えられなかった。


「何か、急用があったんだ。姉さん最近、忙しそうにしてたし。だからきっと、また何か始めたんだ。……そう。そうに、決まってる」


 玲奈は、胸の内から這い寄ってくる恐怖を誤魔化すようにそう呟いて、ゆっくりと自室に戻る。そしてそのままベッドに腰掛けて、美咲が帰ってくるのを待つ。


「…………」


 雨の音が、ただ響く。いつまで経っても、雨は止まない。でも玲奈は、黙って空を見上げ続ける。辺りには、姉と同じ香水の香りが漂う。けどどこを見ても、姉の姿は見えない。そしてその香りも、徐々に徐々に冷たい空気に飲まれていく。



 だから玲奈は、もう一度香水を吹きかける。



 けれど寂しさは深まるばかりで、姉は一向に帰ってこない。


「姉さん……」


 気づけば辺りは、夜の闇に飲まれていた。だから玲奈はそんな闇を振り払うように、また香水を吹きかける。


 姉が自分に黙って、こんなに長いあいだ家をあけたことなんて、今まで一度もなかった。だからもしかしたら、何かあったのかもしれない。そんな不安が、どうしても頭から離れない。



 だから玲奈はもう……我慢できなかった。



 傘をさして、家を出る。行く当てなんて、どこにもない。けどもうあれ以上、じっとなんてしてられなかった。それくらい胸が、ざわざわする。嫌な予感がして、身体が震える。



 そして、何より……。



「……寂しいよ、姉さん」


 玲奈は産まれて初めて、寂しさを自覚してしまった。それ程までに、昨日のパーティーは楽しかった。それ程までに、姉のことが好きになってしまった。



 それ程までに、玲奈の心は……弱くなってしまった。



「……姉さん、どこ……?」



 だから玲奈は、必死になって美咲の姿を探し続ける。



 そして……。




 玲奈はようやく、美咲の姿を見つける。彼女は雨でずぶ濡れになりながら、虚な目でゆっくりとゆっくりと歩いていた。



「姉さん!」



 だから玲奈は、急いで姉の元に駆け寄る。



「…………玲奈ちゃん? ……玲奈ちゃん! ダメ……!」



 瞬間、耳をつんざく叫び声と、耳障りなクラクションの音が響き渡った。だからそれは、ただのありふれた悲劇だったのだろう。でも同時にそれは、ある種の救いでもあった。



 だって美咲は、自ら命を断とうと考え朝早くに家を出たのだから。



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