嘘をついた。
秒針の音だけがただ響く、静かな自室。俺はそんな自室で小さな孤独を吐き出すように、息を吐く。そして夜の闇から視線をそらし、あの白い本を手に取る。
「…………」
白い本は、なぜかとても重く感じた。だから俺はそのページを開く前に、少しだけ今日の出来事を振り返る。
『私ね、会ったことがあるのよ。あの女の姉の……紫浜 美咲と』
ちとせは唐突に、そんなことを言ってのけた。だから俺は驚いてしばらく呆然としてしまったけど、すぐに気を取り直して部室へと向かった。
だってちとせは、そのあと言った。
あとは自分で考えろ、と。
なら、いつまでも立ちすくんでいても仕方ない。俺は自分に無理やりそう言い聞かせて、いつも通り部活に参加した。
黒音の書いてきた小説は、とても面白かった。水瀬さんと違い多少の粗さはあったけど、それでも黒音らしい物語で俺はかなり気に入った。でも肝心の黒音は目の前で読まれるのが恥ずかしいと言って、今日は早めに帰ってしまった。なので明日は目一杯、褒めてやろうと思う。
そして予定通り、次はちとせの番ということで今日の部活は終わりを告げた。
……けれど今日は、紫浜先輩に声をかけなかった。だってできるだけ早く、あの白い本の続きを読んでおきたかったから。
先輩の罪に、ちとせの謎。その全てが、この本にあるわけではないのだろう。でもきっと多くの謎が、この本に隠されているはずだ。だから早めに、この本を読み終えておきたかった。
「いつまでも逃げてないで、さっさと読むか」
この本の内容は、俺の知ってるとある事件と酷似している。だからどうしても、集中して読むことができなかった。けどそんなことを言っていたら、いつまで経っても読み終えることはできないだろう。
だから今日は、読み終えるまで眠らない。
そう覚悟を決めて、白い本を手に取る。……俺をがんじがらめにする多くの謎の答えが、この中にあると信じて。
友人の血を見て怖いと思った主人公は、走って逃げ出して自室に引きこもった。そんな主人公を心配した両親が、その部屋に踏み込む。しかしそこに、主人公の姿はなかった。そしてそのあと、学校で吸血鬼の噂が広まり始める。
この前は、ここまで読んだ。
そしてそこから、俺の知らない物語が始まっていく。
主人公は、両親が部屋の外で騒いでいる声を聴いて、窓から外に逃げ出した。主人公は自分でも、なんでそこまでして逃げるのか、理解できなかった。けどそれでも主人公は、逃げ出した。そして当てもなく夜の街を歩き回りながら、同じことを考え続けた。
怖い。怖い。怖い。怖い。
主人公は何日も何日もそうやって逃げ続け、結局、両親の元に帰ってしまう。両親は怒って、泣いて、喜んで、主人公を抱きしめた。けど主人公は、そんな両親を見ても何も思わなかった。
そしてそこから主人公は、人が変わったように他人との関係を拒絶し始めた。仲が良かった友人に冷たく接し、両親との関係も徐々に希薄になっていた。
そんな折、主人公はとある噂を耳にする。この学校には、吸血鬼がいる。それは夜の街を徘徊し、人の血を吸ってまわる。そして実際に、何組の誰々が血を吸われたとか、そんなよくある噂話を耳にした。
その噂を聞いて、主人公は思い出す。家出して夜の街を歩き回っていた時に、聞いた言葉を。
あなたは、吸血鬼なんだよ。
歩き回って空腹でうずくまっていた時に、主人公はそんな言葉を聞いた。或いはそれは、ただの幻聴だったのかもしれない。けど主人公は、それに納得した。
だって自分が彼らと違うイキモノなら、この恐怖は当然のものだ。血を見た時から、《《他の人間が餌にしか見えなくなったのは》》、自分が彼らとは別のイキモノだからだ。
だからそんな自分を恐れる必要なんて、どこにもない。
主人公はそう納得して、家に帰った。けど、どうしても人間と馴れ合うことができなくて、でもだからって1人で生きることもできない。だから主人公は、どうしようもない葛藤を抱えたまま、孤独な生活を続けた。
「……違うな」
そこでふと、そんな言葉がこぼれる。主人公が家を飛び出したところを皮切りに、俺の知っている事件と小説の内容が乖離し始めた。……まあ、だからこそ比較的すらすらと読むことができたのだけど、でも少し不安になる。
「こいつこれから、どうなるんだ……?」
そう呟いて、本の続きを読み進める。気づけば俺は時間を忘れるほど、その本に引き込まれていた。
気づけば主人公は、1人になっていた。誰にでも冷たく当たる主人公は、学校で浮いてしまった。そして両親も、いくら優しくしても冷たく当たる主人公を疎ましく思い、あまり家に帰らなくなった。だから主人公は孤独で、でもそんな孤独に安心感を覚えていた。
そんな折、主人公に話しかけてくる奴がいた。主人公は見た目が整っていたので、偶にそういう奴は居た。けどそいつは、他の奴らと違った。だってそいつだけは、人間を見た時に感じるあの冷たい感情を、感じなかった。
だから主人公はそいつにだけは気を許し、2人はいつしか最高の友達になっていた。
しかしある日、主人公はまた吸血鬼の噂を耳にする。夜の街を徘徊する吸血鬼。しかしそいつは、可哀想な奴らしい。実はそいつは悪い奴らに無理やり吸血鬼にさせられた人間で、人を愛せない呪いがかかっている。だからその吸血鬼は人間に戻る為に、自分と同じ吸血鬼を探している。
吸血鬼は同じ吸血鬼の血を吸うと、人間に戻れる。しかし血を吸われた吸血鬼は、死んでしまう。
だから吸血鬼は人間の中から吸血鬼を探し出す為に、夜な夜な人の血を吸って回っている。
そんな話を聴いた時、主人公は最初、バカバカしいなと思った。……でもすぐに、気がついてしまう。
今や唯一の友達となったあいつは、自分の血を求めている吸血鬼なのだと。だからあいつを見た時だけ、あの冷たい感情を感じなかったのだ。
だから主人公は、友人にこう尋ねた。お前は自分の血が欲しいのか? と。それに友人は、冷たい表情のままそうだと答えた。主人公は、自分が思った以上にショックを受けていることに、驚いた。孤独なんて、なんてことはないと思っていた。なのにどうしてこんなにも、自分は傷ついているのだろう? と。
だから主人公は、友人に襲いかかった。血を吸われる前に血を吸えば、自分が人間に戻れる。そうなれば、こんなに辛い孤独を味わわずに済む。
体格は、主人公が優っていた。だから友人はろくな抵抗もできないまま、主人公に押し倒されてしまう。そして主人公はそのまま、友人の首に……。
牙を、立てられなかった。
主人公は自分が泣いていることに、気がついた。友人はそんな主人公を、ただ冷めた目で見つめる。そして主人公は何もかもが嫌になり、自分の首を差し出す。
──もう、殺してくれ、と。
お前が笑って生きられるのなら、もうそれでいい。そんな主人公の言葉を聞いて、友人は呆れたように息を吐く。……でもすぐに、笑みを浮かべた。
──君は、バカだ、と。
友人はためらうことなく、主人公の首に噛みついた。そしてそのまま、血を吸う。主人公は段々と薄れていく意識の中、これで良かったんだと、心の底から安堵した。
でも、死んだのは友人の方だった。
吸血鬼は吸血鬼の血を吸うと、人間に戻れる。しかし血を吸われた吸血鬼は、死んでしまう。そんな噂を流したのは、その友人だった。しかし事実は、その逆。
吸血鬼に血を吸われると、血を吸われた吸血鬼は人側に戻る。そして血を吸った吸血鬼は、死んでしまう。
体格が劣る友人は、あえて逆の噂を流すことで、別の吸血鬼に自分を襲わせようと考えた。それなら労せず、自分が人間に戻れる。けれど主人公は、血を吸うのをためらってしまった。そして友人は、そんな主人公が大好きだった。
あとからその事情を知った主人公は、ただただ泣いた。ようやく人間に戻って、あの孤独から抜け出せた。でも大切だった友人は、自分のせいで死んでしまった。
だから主人公は、泣き続けた。
ずっと。ずっと。
「…………」
大きく息を吐いて、本を閉じる。ちとせはこの本に、紫浜先輩の罪があると言った。でも、どうだ? ここにあるのは、別の人間の罪な気がしてならない。
「吸血鬼のあなたへ、か」
光にかざすと、そんな本のタイトルが見える。
「……でもこれだけだと、はっきりしないことが多いな」
ちとせの謎はともかくとして、この本を読めば紫浜先輩の罪が分かると思った。……でも考えてみれば、先輩自身がそのことに気がつかなかったのに、ろくに先輩の事情を知らない俺が、気づけるはずもない。
だから、今度の日曜日のデート。そこで先輩の過去を聞ければ、色々と繋がるのかも知れない。
「あまり気は、進まないけどな……」
そう呟いて、電気を消してベッドに寝転がる。けれどいつまで経っても眠気はやってこなくて、俺はずっとあの小説の内容を考え続けた。
結局、誰が悪かったのだろう?
俺はそれをぐるぐると考え続け、でもいくら考えても答えを出すことはできなかった。