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一つだけ、教えてあげる。



 そして、木曜日の放課後。俺はいつもと同じように、文芸部の部室に向かっていた。


「…………」


 ……いや、いつもと同じではない。今日はいつと違い少しだけ足が重くて、真っ直ぐ部室に向かう気になれなかった。だから誰もいない空き教室に入って、大きく息を吐く。


「……痛っ」


 そして切れてしまった唇に指を当てて、昼休みのことを思い返す。



 昼休み。先輩は今日も、弁当を作って来てくれた。俺が好きだと言った唐揚げや卵焼きなんかはもちろんのこと、栄養バランスや彩りまで考えられた先輩の料理は、本当に美味かった。だから俺はいつも通り感謝を込めて、ご馳走さまと伝える。


 先輩はそれに、お粗末様でしたと返して俺の手をぎゅっと握る。そしてお互い黙ったまま顔を近づけて、軽く唇を合わせる。それもまた、ここ最近では習慣になっていることだ。


 先輩は俺の手を握ったまま、俺の膝に座る。そして甘えるように軽く唇を合わせてから、徐々に深いキスを交わす。先輩とのキスは何度やっても慣れなくて、俺はいつも頭がふわふわしてしまう。そしてそれは先輩も同じなのか、蕩けたような目で俺に甘える。


 ……けど、今日の先輩はいつにも増して激しくて、先輩の歯が俺の唇に当たって、唇が切れてしまった。



 だから血が、流れた。



 でも、それだけ。あの小説のように、逃げ出す必要なんてどこにもない。



 先輩は顔を青くして、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。俺はそんな先輩に、何ともないですよと軽い笑みを返す。すると先輩は、申し訳なさそうな表情のまま俺の唇を指でなぞって、そのままその傷に……舌を這わせた。


 きっとこうすれば、早く治るはずです。


 妖艶な笑みでそう言う先輩は本当に魅力的で、俺の心臓は壊れるくらい強く脈打った。そして結局、また授業をサボってしまった。



「でもこうやって振り返ってみると、やっぱり最近の先輩は少し危うく見えるな」


 ……いや、きっとそれは俺も同じなのだろう。俺も先輩と同じで、2人きりになると自分の感情を抑えることができなくなる。だからついつい、やり過ぎてしまう。


 そして、そんな先輩との熱いキスの熱がまだ抜けきっていない俺は、少し頭を落ち着ける為に空き教室で息を吐く。


「それにやっぱり先輩は、気づいてないみたいだった」


 昼休みは弁当を食べてキスをしただけじゃなく、あの白い本の話もした。あの本、どうでしたか? と尋ねる先輩に、まだ途中なんで何とも言えません、と俺は曖昧な答えを返す。


 そしてそのあと俺は、先輩にこう尋ねた。先輩はあの本を読んで、どう思ったんですか? と。先輩はそれに、あまり言うとネタバレになってしまうのですが、と注釈をつけてこう答えた。



 主人公が他人とは思えなくて、最後の結末で泣いてしまいました、と。



 だからやっぱり先輩は、あの本に自分の罪なんて感じてはいなかった。



「その辺、もう少しちとせに話を聞いておけばよかったな」


 なんてことを呟いて、最後にもう一度大きく息を吐く。そしてそろそろ部室に向かおうか、なんて思ったところで、ふと声が響く。



「あたしがどうかしたの? 十夜」



 声の方に、視線を向ける。するとそこには、ちとせの姿があった。彼女はいつもと変わらない紅い綺麗な瞳で、真っ直ぐにこちらを見つめている。


「……いや、何でもねーよ」


 俺は誤魔化すように、そう答える。


「嘘ね。……あの白い本、部室からなくなってたわ。あれ、あんたが持って帰ったんでしょ?」


「めざといな。そうだよ。その本の内容があまりにあれだったんで、ちょっと考え事をしてたんだよ」


「それで私の名前を呟いてたってことは、どうして私があの本の秘密を知ってるのか、気になったんでしょ?」


 ちとせはニヤリと笑って、俺の方にゆっくりと近づいてくる。


「……相変わらず鋭いな、お前は。ああ、それもあるよ。けどデートの時、俺言ったろ? これ以上、訊く気はないって。だから今はまだ、お前に何か訊く気はねーよ」


「でもあんたは、こんな所で考え事をするくらい、そのことが気になってる。……ふふっ。あんたのそういうところ、可愛くて好きよ、私」


「うるせーよ」


 そこで2人、笑い合う。


「ねえ、十夜。こうやって空き教室で2人で喋るの、ちょっと懐かしくない?」


「……確かに、そうだな」


 少し前までは、こうやってよく空き教室でちとせと話をした。けど最近は、そんな時間もなくなってしまった。……無論、それは俺が選んだことなので文句は言えない。でも少しだけ、寂しいなって思ってしまう。


「今日は部活、サボらない? それでここで、ゆっくり話をしましょうよ」


「それは……いや、辞めとくよ」


「……どうして?」


「リレー小説。今日はお前の番だろ?」


「別にいいじゃない。1日くらい、遅れても」


「それは、そうかもな。……でも俺は、気になってるんだよ。あのよくできた水瀬さんの物語の続きを、黒音がどんな風に書いたのか。そしてその続きを、お前がどんな風に書くのか。俺は結構、それを楽しみにしてるんだよ。だから今日は、部活に行こうぜ?」


 俺はそう言って、ちとせの肩に軽く手を置いてから歩き出す。


「……分かったわよ」


 ちとせはそんな俺にそう言葉を返して、ゆっくりと歩き出す。



「…………」



 けれどちとせは何故か途中で立ち止まり、唐突に俺の背中に抱きついた。



「──好きよ、十夜」



 そして俺が何か言う前に耳元でそう囁いて、優しく耳たぶにキスをする。


「────」


 俺はそんないきなりの行動に驚いてしまって、思わずちとせを振り払ってしまう。


「ふふっ。あんた、顔真っ赤。もしかして、耳が弱いの?」


「…………そういう問題じゃねーんだよ。いきなりあんなことされたら、誰だって赤くなる」


「それは、そうかもしれないわね。……でもあんた、隙だらけだったんだもん。そりゃ、キスくらいするわよ」


「…………」


 俺はどこかで、思っていた。紫浜先輩とのデートが終わるまで、ちとせは大人しくしてくれるのだと。でも考えるまでもなく、ちとせはそんなことで立ち止まる奴じゃなかった。


「私はあんたたちの都合を考えてあげられるほど、できた女じゃないの。だから隙があれば、いつだって好きだって伝える。……それが今の私にできる、唯一のことだから」


 ちとせは照れたように、笑みを浮かべる。……人に顔が赤くなってるとか言いながら、自分だって顔が真っ赤じゃねーか。そう思うけど、口にはしない。


 だって今のちとせは、あまりに真っ直ぐな瞳をしていたから。


「そろそろ行こうぜ? ちとせ。あんまり遅いと、皆んなが心配する」


「……そうね。そうしましょうか」


 そうやって2人並んで、歩き出す。


「…………」


 ちとせと騒いだお陰で、身体から力が抜けた。きっとこれなら、先輩と会っても取り乱すことはないだろう。そんなことを考えながら、しばらく黙って歩き続ける。



 するとちとせは、ただの日常会話のような気安さで、その言葉を口にした。



「私ね、会ったことがあるのよ。あの女の姉の……紫浜 美咲と」



「……は?」


 俺は驚いて、足を止める。けれどちとせは気にした風もなく、淡々と言葉を続ける。


「それがね、私があの本の秘密を知ってる理由。私から言えることは、これくらいよ。あとは自分で考えなさい」


 ちとせはそれだけ言って、部室の方へと走っていく。


「……どういことだよ、ちとせ」


 俺は思わずそう呟くけど、無論、返事など返ってこない。だから俺はしばらくその場に立ち止まったまま、動くことができなかった。



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