ご褒美よ。
紫浜 玲奈。俺が彼女について知っていることは、あまり多くはない。
冷血吸血鬼。その冷血吸血鬼が起こした、吸血鬼事件。そして、彼女の冷たい血の秘密。
俺はそういう噂の真偽を確かめる為に、彼女に近づいた。……でも気づけば俺は、本気で彼女に惚れていた。だから彼女の魅力を語れと言われれば、いくらでも語ることはできる。けど彼女が何を思って何に苦しんできたのかを、俺は全くと言っていいほど知らない。
だから、ちとせがそれを教えてくれると言うのであれば、願ったり叶ったりだ。
「…………」
……でも今だけは、それを聞くわけにはいかない。
「紫浜 玲奈。彼女はね、あんたが思ってるような女じゃないの。彼女は──」
「悪い、ちとせ。それをここで聞くわけには、いかないんだ」
「……どうしてよ?」
「約束してるんだよ。今度のデートで、お互いの秘密を教え合おうって」
だからここで、先輩の秘密を知るわけにはいかない。
「……そ。でも、あんたのことも話すの? そりゃ彼女は特別で、色々と特殊な事情を抱えてる。けどあんたの秘密は、あんたの抱えてる問題は、普通の人間が受け入れられるようなことじゃない。……分かってる? 私だから、あんたの秘密を受け入れられたのよ」
ちとせはいつになく真面目な顔で、俺を見る。……きっと彼女はそれ程までに、俺のことを心配してくれているのだろう。
「でも大丈夫だよ。あの人はなんだかんだで、優しい人だから」
「優しいからって、何でも受け入れられるわけじゃないでしょ? そりゃ、あんたがあの女に嫌われるのは、私からしたら願ったり叶ったりよ。でも……昔みたいなことになったら、あんたは耐えられるの?」
昔みたいなこと。俺が今みたいに、孤立するきっかけになった事件。あれは確かに、辛かった。
「でも、大丈夫だよ。俺はあの人のことを信じてるし、いや……信じているからこそ、話さなければならないんだと思う」
「そういう律儀なとこ、あんたらしいわね。……でも、ほんとにいいの? あんたたちが秘密を共有して愛し合えたとしても、きっと最後には……お互い傷つくことになる。それはあんたも、分かってるんでしょ?」
「……ああ。でも、それでも俺は、彼女の側に居たいと思ってしまうんだよ」
「そ。それなら私は、何も言わない。……いや、一つだけ伝えておくわ。それだけはきっと、あんたが知っておくべきことだから」
今度はちとせの言葉を遮らず、黙って先を促す。
「…………」
するとちとせは少し黙り込んで、逡巡するように空を見上げる。だから俺もそんなちとせに倣うように、遠い夜空に視線を向ける。
暗い夜空の中心にある、大きな瞳のような月。そんな月が、ただ静かにこちらを見下ろしている。それはとても美しい景色ではあるけど、同時に少し不気味でもある。
だから俺はそんな瞳から逃げるように、ちとせの方に視線を戻す。するとちとせは、見計ったようにゆっくりと口を開く。
「文芸部の部室にある、背表紙に何も書かれていない真っ白な本。あれは彼女の姉、紫浜 美咲が書いた本なの」
「……背表紙が、真っ白な本」
そういえば確かに、そんな本が文芸部の部室にあった。いつかその内容を先輩に尋ねようと思っていたのに、すっかり忘れていた。
「そこに、彼女の罪がある。そしてそれは、あんたに無関係じゃない。けどあの女は、そのことに気がついていない。だからのうのうと、あの本をあんな所に飾っておける。……だから気をつけなさい、十夜。あんたが思ってるほど、あの女の秘密は軽くはないわよ」
「……分かった。ありがとな、ちとせ」
いろいろ言いたいことはあったけど、お礼だけ言ってあとは言葉を飲み込む。だってこれ以上の話は、紫浜先輩から聞くべきことだから。
そしてしばらく、公園のベンチに腰掛けたまま黙って夜空を見上げる。静かな公園に人影はなく、吹きつける風はとても冷たい。けれど不思議と、寒さは感じない。
「なあ、ちとせ」
「なに?」
「寒くないか?」
「別に大丈夫よ。……あんたが側に、居てくれるから」
ちとせは先ほどの冷たい表情とは正反対の笑みを浮かべて、俺の胸に顔を埋める。そして何かを確かめるように、俺の胸に耳を当てる。
「やっぱり、ドキドキしてる」
「そりゃ、生きてるからな」
「生きてるだけじゃ、こんなにドキドキしないわ。……この前までは私の胸を触らせても平然としてたのに、今はこうやって抱きつくだけでドキドキしてくれる。……可愛い。私だけのものに、したいな」
「怖いこと言うなよ」
「別に、普通のことでしょ? 好きな人を、自分だけのものにしたいって思うのは」
「…………」
それは確かに、そうかもしれない。俺だって紫浜先輩を、誰にも渡したくはない。……いや、もしかしたら先輩も、同じことを思ってくれているのかもしれない。
そう思うと、胸が痛んだ。
「そろそろ帰るか、ちとせ」
「……その顔。またあの女のこと、考えてる。こんなことなら、あんな女の話なんてするんじゃなかった」
「今更言っても、もうおせーよ。……つーかお前、本当は寒いんだろ? そんなに脚出してりゃ、いくらくっついても寒いに決まってる」
「じゃあ、あんたが温めてよ。ぎゅって抱きしめて、この寒さを忘れさせて」
「んなことしても、寒いもんは寒いだろ? それに……いや、帰りは俺が何か温かいもんでも奢ってやるから、もう帰ろうぜ?」
俺はそう言って、ちとせを抱えたまま立ち上がる。
「分かったわ。ちょうどラーメンでも食べたいと思ってたところだし、今日はもう許してあげる。……あ、でも最後にお姫様抱っこしてよ。それで公園の出口まで、私のこと運ぶの。私軽いから、それくらい平気でしょ?」
「……分かったよ。でも、公園から出るまでだからな?」
一度ちとせを地面に降ろして、言われた通りお姫様抱っこしてやる。……今日のちとせはミニスカートだから、きっとパンツが丸見えなはずだ。けどもう公園には誰も居ないから、別に問題ないだろう。
「ふふっ。ちょっと、ドキドキする。自分でもどうしてこんなにドキドキするのか分からないけど、それでもすごく……ドキドキする」
「そうかよ。お姫様がご機嫌なようで、俺も嬉しいよ」
「ってあんた、もうちょっとゆっくり歩きなさいよ。公園から出たら、終わりなんだから」
「へいへい」
そんな風にとても静かな夜を、2人で騒がしく歩く。ちとせはお姫様抱っこしている最中、ずっと俺の顔を見つめてきて少し照れ臭かったけど、そんな時間がとても楽しかった。
そして、あと一歩で公園から出る。そんな場所で、足を止める。
「はい。じゃあ降ろしていいわよ」
「了解」
そこでちとせを地面に降ろして、軽く伸びをして肩の筋肉をほぐす。
「ねえ、十夜。こっち向いてよ」
「なんだよ? 急に」
「いいから」
俺は特に疑問に思わず、言われるがままちとせの方に視線を向ける。するとちとせは、ニヤリとして笑みを浮かべて……
俺の頬にキスをした。
「────」
俺は唖然と、ちとせを見る。けれどちとせは、そんな俺をただただ楽しそうに見つめる。
「このキスは、ここまで私を運んでくれた王子様へのお礼。……さ、ラーメンでも食べに行きましょ?」
「……そうだな。行くか」
惚けた頭に無理やり喝を入れて、ゆっくりと歩き出す。
そんな風にして、ちとせとのデートは終わりを告げた。……けれど冷たい唇の感触は、しばらく消えてはくれなかった。




