遅かったですね?
黒音とのチェスを終えた俺は、昼飯を買いに行く為に学校近くのコンビニに向かって歩いていた。
「しかしあいつの考えた作戦が、まさか色仕掛けとはな……」
黒音は何か秘策があるなんて言っていたから、俺は少し期待していた。けどあいつが考えてきた作戦は、ただ俺の手番の時におっぱいをたゆんたゆんと揺らしてこちらの集中力を削ぐという、実にくだらないものだった。
……いやまあ確かに、あいつの胸は大きいからそれを目の前で揺らされると、多少集中力は乱れる。けどその程度で負けるほど、俺もバカじゃない。それどころか逆に、そういうことをしてるうちはまだまだ子供だぜ? と挑発してやると、あいつはプンスカと怒って勝手に自滅してしまった。
だからチェスは俺の完勝に終わったが、ふざけ合っていた分、いつもよりだいぶ時間がかかってしまった。なので俺は手早く片付けを終わらせて、気持ち早足に文芸部の部室に向かった。
しかしその途中、ぐーっと腹が鳴って、そういや昼がまだだったなと気がついた。だから途中で方向転換して、近くのコンビニに向かうことにした。
「……紫浜先輩にも何か、買って行ってあげようかな」
コンビニに入って、パンが置かれた棚を見ながらそんなことを呟く。……いやまあ、何を買って行ったとしても紫浜先輩は部室には来ないだろうから、意味はないかもしれない。
けど、彼女がいつも帰る時間の夕方の6時。それまでは、あの部室で先輩のことを待つと決めた。
だから俺は自分の分のサンドイッチと、一応先輩の分のチョココロネを買ってコンビニを後にする。
「女の子だから甘いものが好きだっていうのは、安直かな……」
でも俺は、先輩の好きな食べ物なんて知らない。いや、食べ物だけじゃない。俺はもう半年近く先輩に告白を繰り返してきたのに、彼女のことをまだ何も知らない。
「……少しずつ、聞いていけたらいいけどな」
少し歩くペースを上げて、学校の門を潜る。すると不意に、スマホから電話の着信を知らせる音が鳴り響く。
「ちとせからか……」
昨日のこともあるから、少し緊張してしまう。けど、出ないわけにもいかないので、俺は覚悟を決めていつも通り電話に出る。
「よう、ちとせ。どうかしたのか?」
「……今から会える?」
まどろっこしいのが嫌いなちとせは、開口一番にそう言った。
「せっかくだけど、今日は無理だ。……ちょっと、約束があるんだよ」
「……そ。約束ってあの人と? ……って、もしかし今、デート中だったりするの?」
「いや、そういうわけじゃねーよ。ただ……待ってるだけだよ」
先ほどまで後輩とチェスをしていて、今はコンビニに遅めの昼飯を買いに行っていた。だからずっと待っていたわけではないのだが、それ以外に言葉が浮かんでこなかった。
「それって昨日あの人と抱き合ってた時に、あんたが言ってたやつ?」
「いや、なんでお前がそれを知ってるんだよ」
「……言ったでしょ? 私、見てたのよ。あんたたちのこと……」
ちとせはそこで、息を吐く。そしてそのまま、いつもより少し暗い声で言葉を告げる。
「それより、昨日はごめん。私、本当はずっとあんたのことが好きで……だから、我慢できなかったの」
「いいよ、別に。そりゃ、いきなり告白されて驚いたけど……でもお前の気持ちは……」
嬉しかった、と言葉にはしない。俺は今まで誰からも……両親にも、愛されてこなかった。なのにちとせはそんな俺を、好きだと言ってくれた。俺はそれが、本当に本当に嬉しかった。
けどそれでも、俺はちとせの気持ちに応えてやれない。だからおいそれと、彼女を喜ばせるような言葉を口にしたくなかった。
「ありがと。……でも、キスはちょっとやり過ぎたよね? 私、あれがファーストキスだったのに、首にまでしちゃって……。その……嫌いになったりしないわよね?」
「当たり前だろ? 昨日も言ったけど、俺はお前を嫌いになったりしねーよ。……キスされたのは、驚いたけどな」
無意識に、手が首筋に触れる。そこにはまだ、彼女が俺に触れたという証が、赤いあざとなって刻まれているはずだ。
「やっぱりあんたは、優しいわね。そういうあんただから、私は好きなの。……でもちょっとだけ、心配になる」
「心配? どうしてだよ」
「……あんたはね、私に酷いこと言わないじゃない。私はきっとこれから、何度も何度も告白して時には昨日みたいに……キスしたりすると思う。けどあんたは、そんな私に酷いことは言わない。でも……」
あの人は違うでしょ? と、ちとせは言葉を続ける。
「あの人は、あんたが好きだって言う度に酷い言葉を返す。……私だったら、そんなの耐えられない。あんたに嫌いなんて言われたら、きっと私……泣いちゃう。なのにあの女は、平気であんたに嫌いだって言う。……最低よ」
「……確かにあの人は、言葉が強いところがあるよな。けど、そもそも勝手に言い寄ってる俺が悪いんだし、文句は言えねーよ。それに彼女だって……優しいところがいっぱいあるんだぜ?」
「……そ。でも、辛くなったら私の所に来ていいからね? 私はいつだって、あんたを待ってる。……その、初めは身体だけの関係でも、私は構わない。だから……だからね、十夜。私は、待ってる。今日は約束があるなら、無理にとは言わない。けど私は、いつだってあんたのことを待ってる。いつだってあんたのことを、受け入れる。それだけは、忘れないでね?」
……大好きだよ、十夜。彼女は最後にそんな甘い言葉を囁いて、電話を切ってしまう。
「あいつのあんな甘い声、初めて聞いたな……」
気づけば心臓が、ドキドキと早鐘を打っている。やっぱり俺は、好きだって言葉にとても弱いみたいだ。
「でも、俺は……」
思考を切り替えるために、意味もなく空を見上げる。気づけばもう少しで、日が暮れるような時間になっていた。
「…… 部室、行くか」
運動系の部活が、グラウンドで声を響かせる。俺はそんな彼らに背を向けて、音がない静かな文芸部の部室へと向かう。
『……あんたに嫌いなんて言われたら、きっと私……泣いちゃう』
その言葉が、妙に頭に残った。俺は別に、先輩に嫌いだって言われても気にしない。寧ろ、なら好きになってもらえるよう頑張ろうって、そう思う。
「…………」
けど、少しも傷ついてないと言えば、嘘になる。別にあの人に、優しくして欲しいなんて思わない。寧ろ俺があの人に、優しくしてあげたいと強く思う。
……でも、少しでいいからこっちを見て欲しい。そんなことを、願ってしまう。別に気持ちに応えて欲しいとか、俺のことを好きになって欲しいとか、そんなことは思わない。だってそれは、俺が頑張らなきゃいけないことだから。
だから俺が願うのは、ただ一つだけ。
「先輩に、会いたいな……」
けどきっと、部室に行っても彼女の姿はないのだろう。彼女にとって俺はまだ、大した存在じゃない。だから俺が勝手に取り付けた約束なんて、彼女の胸には残っていない。
「……人を好きになるのって、面倒くさいな」
そんな言葉をこぼして、人気の無いとても静か部室に足を踏み入れる。
「……遅かったですね」
するとそこには、いつも通り静かに本を読んでいる紫浜先輩の姿があった。
だからまだまだ、今日は終わらない。