貴方が、好きです。
未鏡 十夜と紫浜 玲奈は、ただ……走っていた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしながら、必死になって十夜は走る。冷たい風も、他人の視線も、今は何も気にならない。ただドキドキと心臓がうるさくて、どうしても足を止めることができない。
「……ほんと、なんで走ってんだ? 俺……」
意味が、分からなかった。
理由なんて、何もなかった。
どうして机の上に、見覚えのないリレー小説が置かれていたのか。どうして自分は、その続きを書いたのか。そしてどうしてそのリレー小説を持って、走っているのか。
何1つとして、分からない。
でも、足が止まらない。心臓が、ドキドキとうるさい。失くしてしまった何かが、前に進めと叫び続ける。
それに何より……。
「どうしてこんなに、会いたいって思うんだよ……」
会いたい……誰に?
そんなの、決まってる。
「……はぁ、はぁ。待っててください、先輩。すぐに、行きますから」
十夜は、ただ走る。いつかの時と同じように、彼はただ走り続ける。
そして気づけば、空を覆っていた薄い雲は消え去り、澄んだ茜が顔を出す。
「ようやく、晴れたな」
茜の空より晴れやかな顔で笑って、十夜はいつものように屋上へと続く扉を開いた。
◇
玲奈もただ、走っていた。
「はぁ……はぁ……」
意味も理由も分からず、それでもどうしても……足を止められない。胸が熱くて熱くて、仕方ない。
『大好きなあなたへ』
そのメッセージを見た瞬間、玲奈は大好きな姉の笑顔を思い出した。姉はいつも、笑っていた。辛くても、苦しくても、冷たくても、いつもいつも笑っていた。
「ふふっ」
そんな姉の笑顔を思い出すと、どうしてか笑うことができた。今までだったら、姉のことを思い出すだけで胸が痛んだのに、今は勝手に口角が上がる。
「それにきっと、この先には……彼がいる」
約束なんて、していない。確信も確証も、ありはしない。……でも彼は、いつだってあの屋上にやって来た。自分がどれだけ拒絶しても、彼はいつだって真っ直ぐにあの屋上で想いを伝えてくれた。
……その頃の記憶なんてもうない筈なのに、いつかの想いが玲奈の中を駆け巡る。
だから玲奈は、ただ走る。
「はぁ……はぁ……」
そして学校の校門前にたどり着いた所で、一度立ち止まり呼吸を整える。
「……ようやく、晴れた」
ふと見上げた空は、薄い雲が消え去りゆっくりと茜色に変わっていく。だから玲奈は大きく息を吐いて、すぐにまた走り出す。
だってあの人は、今日もあの場所にいる筈だから。
◇
十夜は勢いよく、屋上の扉を開ける。
「……誰も居ない、か」
けれどそこには、冬を間近に控えた冷たい空気が沈澱しているだけで、誰も姿もありはしない。
「…………」
十夜は意味もなく息を吐いて、茜色に染まった空を見上げる。自分の記憶では屋上になんて来たことがない筈なのに、どうしてかこの景色がとても懐かしく思えた。
「……さて」
十夜はフェンスにもたれかかって、息を整える。その表情には、少しの失望もありはしない。だって彼は、信じていたから。
あの人は絶対に、来てくれると。
「十夜くん!」
すると、そんな十夜にの想いに応えるように、勢いよく屋上の扉が開く。
「…………」
「…………」
茜の空の下、2人は真っ直ぐに互いを見つめ合う。言いたいことが、沢山あった。伝えたい想いが、胸の中に溢れていた。……けれど、何から言えばいいのか分からなくて、2人とも上手く口を開けない。
「……えっと、いきなり名前で読んだりして……ごめんなさい」
急いで髪型を整えた玲奈は、恥いるようにそう言って頭を下げる。
「いや、大丈夫ですよ? 別に気にしてませんから」
「……そうですか。それなら、よかったです……」
そこでまた、沈黙。
「…………」
「…………」
少し前の十夜なら、迷わず好きだと言った筈だ。そして十夜と付き合っていた頃の玲奈も、同じように自分の想いを伝えたのだろう。
けれど今の2人は、ほとんど初対面に近い。
だから上手く言葉が出てこなくて──。
「────」
そこでふと、風が吹く。冷たい冬の風が吹きつけて、玲奈の長い黒髪が茜の空を黒く染める。そして偶然、2人の視線が真っ直ぐに交わる。
「どうやら、お化けにはならなくて済んだようです」
十夜はそう言って、笑った。……自分でも何を言っているのか、分からなかった。けど、気づけばそんな言葉が口をついていた。
「どういう意味ですか? それ」
十夜の言葉を聞いて、玲奈もまた笑う。2人は同じように頬を赤く染めて、楽しそうに笑う。
「あ、それ。小説ですか?」
そしてそこで、十夜が手にした原稿用紙の束に気がついた玲奈は、弾む声でそう尋ねる。
「そうですよ。リレー小説みたいなんですけど、どうしてか机の上に置いてあったんで、勝手に続き書いちゃいました」
「ふふっ。なんですか? それ」
玲奈はまた、笑う。そして一歩、十夜の方に近づく。
「……その、本を書くのが好きなんでしたら、文芸部に入りませんか? 私はもう3年ですけど、卒業するまでは活動を続けるつもりです。……だから、貴方さえよければ……」
「俺は、構わないですよ? ……ただ、俺なんかが入ってもいいんですか? 俺、こう見えて昔は少し……荒れてたんで、他の人が怖がるかもしれませんよ?」
「そんなの誰も、気にしません。……というか、私だって冷血吸血鬼なんて呼ばれてるんですよ?」
「吸血鬼。かっこよくて、いいじゃないですか」
十夜は何かを懐かしむように、目を細める。
「……じゃあ、こんな俺でよければ、お邪魔してもいいですか? その、文芸部に。……ちょうど補習も終わって、暇なんで」
十夜はそう言って、玲奈の方に一歩近づく。もう手を伸ばせば届くほど近くまで、2人の距離は縮まった。普通に考えれば近すぎる距離だけど、2人はどうしてか離れようとしない。
「……そうだ。そのリレー小説、タイトルとかあるんですか?」
「タイトル、ですか……」
十夜はそう呟き、リレー小説に視線を向ける。……けれどどこにも、タイトルらしきものは書かれていない。
……でもどうしてか、ぽろりと口から言葉が溢れた。
「大好きなあなたへ、かな」
「────」
その言葉を聞いて、玲奈はもう我慢できなくて十夜の身体を抱きしめる。意味も理由も分からなかったけど、感情が昂ってどうしても我慢できなかった。
「……温かいですね、先輩は」
唐突に先輩に抱きつかれたというのに、十夜は少しも驚かない。寧ろ、そうするのが自分の役目だと言うように、優しく玲奈を抱きしめ返す。
「……私、同じタイトルの小説を持ってるんです。だから今度、読んでみませんか? とても悲しい物語だけど、きっと貴方も気に入ってくれる筈です」
「構いませんけど、俺……バッドエンドは嫌いなんですよ。それでも、楽しめますか?」
「きっと、大丈夫だと思います。……それに悲しい結末が嫌なら、自分たちで勝手に書き換えればいいんです」
「いいですね、それ。じゃあそれが俺の、文芸部での初めての活動だ」
「……楽しみですね」
茜の空は、ゆっくりと夜の闇に飲まれていく。けれど2人は、決して手を離さない。
吹きつける風は冷たく、冬も近い。遠くから聴こえる喧騒はいつもと変わらず賑やかで、抱きしめた時に感じる香りも昔と何も変わらない。
2人の、吸血鬼が居た。
彼ら同じく冷たい心を持って産まれ、そのせいで多くのものを失った。大切な思い出も、結んだ約束も、交わした言葉も、胸に満ちた想いも、彼らは全てを失った。
……けれど彼らは、また手を繋ぐ。
悲劇や運命を乗り越えて、彼らはまた惹かれ合う。
「紫浜先輩。俺は貴女が、好きです」
「私も……私も貴方が、好きです」
いつかの茜の空に、そんな声が響いた。




