それから……。
俺、未鏡 十夜は、見慣れた帰り道を1人でのんびりと歩いていた。
「随分と、寒くなってきたな……」
軽く吐いた息が、白く染まる。俺はそんな儚い白が消えるのを待ってから、意味もなく空を見上げる。……けれど空はどこもかしこも薄い雲に覆われていて、澄んだ青はどこにも見えない。
「……晴れないな」
そう呟いて、歩くペースを上げる。
もうすぐ秋も終わり、身も凍る冬がやってくる。気づけばもう、そんな時期になっていた。
3ヶ月前の、夏休み。俺は屋上で、先輩の女の子と一緒に倒れていたらしい。理由や原因は今になっても分からないが、俺とその先輩はすぐに病院に運ばれた。
そしてそれから1ヶ月、俺たちはずっと眠り続けていたらしい。無論、眠っていた時の記憶なんて俺にはないが、目を覚ました時の身体の重さで1ヶ月という時の長さを感じた。
だからそれからしばらく、面倒なリハビリと検査の日々が続いた。しかしそれでも1ヶ月後には、俺の身体は元の調子を取り戻していた。
……そう。身体は、元に戻った。
長い間眠り続けていた後遺症か、それとも他に何か原因があるのかは分からない。けど俺は、この1年の記憶をほとんど失ってしまっていた。
学校の勉強や、つまらないニュースの内容。そんなどうでもいいことは、どうしてか覚えている。なのにこの1年、誰と一緒にどんなことを笑いあっていたのか。それだけがどうしても、思い出せなかった。
「でもまあ、2ヶ月も経てばあんまり気にならなくなるけどな」
目を覚ましたばかりの頃は、何か大切なものを失ったという喪失感で、気が気じゃなかった。……でも、沢山の検査と面倒なリハビリ。それにようやく退院できた思ったら、今度は補習に次ぐ補習。
そんな慌ただしい日々を送っていると、胸に詰まった喪失感はいつの間にかどこかに消えていた。
……だから彼女のことも、もうほとんど考えなくなっていた。
「紫浜 玲奈、か」
それは俺と一緒に倒れていた先輩の名前で、そして彼女は、俺の……恋人であったらしい。
そういう話を、毎日俺の所にお見舞いに来てくれた黒音から、耳にたこができるほど聞かされた。俺たちがどれだけラブラブで、互いを想いあっていたのか。黒音はそんな信じられない話を、俺だけじゃなく、その先輩にまで話しまくっていたらしい。
……でも黒音には悪いが、簡単にそんな話を信じることはできなかった。無論、黒音がそんな嘘をつく奴じゃないと俺は知っているし、黒音の言葉を裏づけるように、俺のスマホにはその先輩との写真が山のように保存されていた。
……でもやっぱり、どうしても俺は信じることができなかった。
この俺が、誰かを好きになるなんて。
だから俺はことの真偽を確かめる為に、一度その先輩に会いに行った。
紫浜 玲奈先輩は、目を見張るような美人だった。綺麗な黒髪に、真っ白な肌。思わず目を奪われるプロポーションに、何より目を引く澄んだ瞳。彼女はとても綺麗で、でもどこか浮世離れした人だった。
……しかし、だからと言って惚れるかと問われれば、そうではない。俺はそんなに簡単に人を好きにならないし、何よりその先輩も俺なんか眼中にないだろう。
紫浜 玲奈先輩は、そういう瞳をしていた。
だから少しだけ話をして、俺はすぐに彼女の元を後にした。……彼女もまた、そんな俺を引き止めることはしなかった。
そして彼女とはそれきり、話をしていない。……まあ、黒音は無理やり、その先輩のいる文芸部に俺を引っ張って行こうとしたけど、補習で忙しくてその暇もなかった。
そして気づけば、2ヶ月もの時間が流れていた。
「……まあ、長い夢でも見てたんだろうな」
今の生活は忙しいが、悪くない。……どうしてか理由は分からないけど、昔よりずっと生きてるって感じがする。まるで長いあいだ身体を蝕んでいた呪いが、どこかに消え去ったように、目が覚めてからは心がとても軽かった。
だからきっと、俺もあの先輩も過去なんか忘れて、新しい幸せを築くことができるだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、ようやく家に辿り着く。
「補習お疲れ様、十夜。エッチする?」
そしていつものように玄関の扉を開けると、ちとせが色々とすっ飛ばした挨拶で、俺を出迎えてくる。
「ただいま、ちとせ。……もう文句を言うつもりはねーけど、お前また勝手に来てたんだな」
「別にいいでしょ? それくらい。十夜の家は、私の家みたいなものなんだから」
「……それは流石に、ちげーよ。……いやまあ、別にいいんだけどな。夕飯とか作ってくれるのは、正直助かるし。でも今日は補習で疲れてるから、お前と遊ぶ元気はねーよ」
「そ。じゃあ私が、疲れなんて吹き飛んじゃうマッサージしてあげよっか?」
「バカなこと言ってんな」
ちとせの頭を軽く叩いて、ゆっくりと自室に向かう。
「…………」
……けれどちとせは、そんな俺を引き止めるように、俺の背中を抱き締める。
「ねえ、十夜。あんたさ、後悔してることってある?」
「何だよ、突然」
「いいから答えて」
ちとせの声はどうしてかとても真剣で、だから俺も本気で頭を悩ませる。
「ないよ、そんなの」
けど気づけば、そう答えを返していた。
「……そ。まあ、あんたならそう答えるって、分かってたけどね」
「分かってるなら、聞くなよ」
「分かってても、確かめたくなる時があるのよ。……女の子にはね」
ちとせは最後にぎゅっと強く抱きしめて、俺の背中から手を離す。
「確かめたくなる、ね。まあ何でもいいけど、お前にはあるのか? 何か後悔してること」
「ないわ。今もそして未来も、私は絶対に後悔なんてしない」
その答えは、ちとせらしくないくらい真っ直ぐで、俺は思わず立ち止まって背後に視線を向ける。
「ふふっ。惚れた? 十夜」
ちとせは、笑っていた。見たことがない……いや、いつかの誰かのようにとても晴れやかな顔で、幸せそうにただ笑っていた。
「お前最近、よく笑うようになったよな」
「それは、あんたのお陰よ。……ありがとね、十夜」
ちとせはそう言って、また笑う。……俺はどうしてかそんなちとせの姿に安心して、軽く手を上げて自室の扉を開ける。
そしてそのまま、いつものように鞄を机に置こうとして……ふと、見慣れないものが机の上に置かれていることに気がつく。
「……なんだ、これ」
俺は鞄を無造作に床に置いて、ほとんど無意識に机の上に置かれた《《それ》》に手を伸ばす
「これ、リレー小説ってやつか」
原稿用紙を繋ぎ合わせて作られたそれは、一見ただの小説の原稿のように見える。が、区切りごとに文字と文章が全くの別物になっているから、これはきっと別々の人間が交代で書いた、リレー小説というものだろう。
「でもどうしてこんなものが、俺の机に置かれてるんだ?」
そう呟きながら、ペラペラとページを捲る。それは特別、目を引く物語ではない。どこにでもある、とてもありふれた物語だ。……でも気づけば俺は、夢中でそれを読み進めていた。
1番最初にこの小説を書き始めた人は、きっととても優秀な人なんだと思う。文字も文章も展開運びも、どれもそつがなく粗がない。……でもそれでいて所々に遊び心があって、読んでいてとても心地いい。
次の人は、最初の人と比べると粗さや雑さが目立つ。文字は可愛らしい丸文字で、文章はお世辞にも上手いとは言えない。……でもそんなことが気にならないくらい、真っ直ぐな楽しさが伝わってくる。だからきっとこれを書いた人は、いつだって元気で明るい性格なのだろう。
そしてそれとは逆に、3人目の人はとても冷たい人なんだと思う。ここからは文章も展開も暗く重くなり、物語に大きな影が差す。……正直、俺がこの続きを書けと言われたら、かなり困る。それくらい救いのない展開で、でも同時にそれはどこか……挑戦のようにも思えた。
この続きを書けるものなら書いてみろという、次の人への挑戦に。
そして、次の人は……。
「なんだ、この変な感覚は……」
最後の人の文章を読んでいると、とても変な感覚に襲われる。まるで、心が俺の意思に反して勝手に声をあげているかのように、ドキドキと心臓が高鳴る。
「胸が、痛い」
けど俺は、どうしてか本を読む手を止められない。
最後の人は、俺がどうにもできないと思った展開を、ものの見事に救ってみせた。……まあそれは、ハッピーエンドとは言えない結末だったけど、でも十分に救いのある結末だった。
だから俺は満足して、ゆっくりと本を閉じる。
「…………」
……その、筈だった。
なのに、
どうしてか俺は、
思ってしまう。
「続きを、書かないと」
邪魔くさいブレザーを脱ぎ捨てて、ペンを取り偶然あった原稿に必要のない文章を書き殴る。
自分でもどうしてそんなことをしているのか、理解できない。どこかの誰かが繋いだ物語なんて、俺には何の関係もない筈だ。
……でもどうしても、手が止まらない。
だって、俺は──。
「ハッピーエンドが、好きなんだよ」
気づけば数時間もの間、ペンを走らせ続けていた。そして空が赤らみだした頃、俺は出来上がった原稿を持って走り出す。
茜に染まった、あの屋上へ。




