…………。
どんなに心が凍っても、絶対に忘れられない景色があった。
『私は貴方が、嫌いです』
茜色に染まった屋上で、何度もそう言った1人の少女。
風に流れる艶やかな黒髪に、夕焼けに染まった真っ白な肌。そして何より目を引く、冷たく悲しげな瞳。
俺はそんな彼女の姿を、どうしても忘れられることができなかった。
……実を言うと、本当はもうずっと前から俺の心は凍っていた。1番最初にちとせの血を見た時から、もうほとんど俺の心は死んでいたんだ。……でも、どうしても、夕焼けに染まった彼女の姿が忘れられないから、俺は今まで未鏡 十夜を演じてきた。
そして、そうやって演じ続ければ演じ続けるほど、俺は彼女に生きて欲しいと思った。……そんな人みたいな想いが、俺の心に微かに芽吹いていた。
痛くても、悲しくても、辛くても。どういう形でもいい。俺は彼女に、生きて欲しかった。……それでいつか彼女が俺以外の男を好きになったとしても、それでも別に……構わないから。
だって、どれだけ苦しくて、どれだけ悲しくて、どれだけ痛くても。一度も笑えない人生なんて、あり得ないから。
苦しみを乗り越えて。悲しみを飲み込んで。痛みに耐えて。きっといつか、先輩は幸せになれると思う。……いや、先輩だけじゃない。ちとせも、黒音も、水瀬さんも。俺なんかいなくても、きっといつか幸せになれる筈だ。
……だって、俺にだってできたんだ。
誰より冷たい心を持った俺でも、こうしてとても幸福な人生を送ることができた。なら皆んなにだって、できる筈だ。
そう思い、そう願い、そう信じ、俺はこの命を2人に捧げる覚悟を決めた。……黒音は簡単だって言ったけど、俺だって真剣に悩んだんだ。
だから……そう。後悔なんてない。ほんの1ミリだって、俺は後悔なんてしていなかった。
…………して、なかったのに。
「何をやってるんですか! 先輩!」
俺は、叫んだ。叫ばずには、いられなかった。だって先輩が、俺の血を……。
「……ふふっ。何って、ただの仕返しです。十夜くんに噛みつかれて痛かったから、だから私も……仕返しに噛みついてやったんです」
先輩は、笑う。見ているだけ幸せになれるような、そんなとても晴れやかな顔で、先輩はただ笑う。……けれどその瞳から、徐々に色が抜けていくのが分かる。
「……っ」
そして同じように俺の意識もまた、どこか遠くに引きずり込まれる。視界が、霞む。
「きっと代償は、愛情なんです」
先輩は唐突に、そう言った。
「本物の吸血鬼に人の温かさを与える為には、命より大切な想いを……捨てなければならない。大好きな十夜くんを救うには、十夜くんを大好きだって思うこの心を……捨てなきゃならないんです」
「なっ……! じゃあどうして! どうして俺の血を、吸ったんですか! そんなことをしたら、今までの思い出が全部っ……!」
ずきりと、胸が痛んだ。その感覚はとても久しぶりで、だから俺はいてもたってもいられなくて、先輩の肩を掴む。
「俺は、覚えていて欲しいんです! 例え俺が死んでも、先輩が俺以外の奴と付き合っても! 心の片隅でいいから、貴女の心で生きていたかった……。なのに……なのに、どうして……!」
「どうしても、です。どうしても私は、貴方に生きて欲しかった。少しでも可能性があるなら、それに賭けてみたかった。……ただ、それだけなんです」
「俺のことなんて、どうでもいいんです! それより……くそっ! どうすりゃ、いいんだよ……」
頭が重くて、意識が軽くて、上手く思考できない。気を抜けば今すぐにでも、意識を失ってしまいそうになる。
「くっ……!」
でも俺は、必死になって意識を保つ。血が滲むほど手を握りしめ、歯が欠けるほど歯を噛み締め、強引に意識を保つ。だってそうしないと、俺の想いまで……。
「大丈夫ですよ? 十夜くん。大丈夫です」
けれど先輩は、やっぱり笑う。こんな状況で、先輩だって辛い筈なのに、どこまでも晴れかに笑ってみせる。
……でも俺は、笑えない。
「大丈夫なわけ、ないでしょ! 俺はもう、ちとせの血を吸ってるんです! だから今更、先輩が俺の血を吸ったって……意味なんてないかもしれない! ただ先輩が、傷つくだけで終わるかもしれない! それにもう、俺の心も──」
「だから、大丈夫なんです。だって私、信じてますから」
先輩が俺を見る。ただ真っ直ぐに……いつかの誰かのような瞳で、俺のことだけを見つめ続ける。
「例え、私の心が凍っても。例え、十夜くんが元に戻れなくても。きっと十夜くんは、また私に会いに来てくれます。そしてこの場所で、また私に告白してくれるんです」
「────」
俺は、何も言えない。だって、それは……。
「今までの思い出を、この気持ちを忘れちゃうのは、私だって寂しいです。……本当は胸が潰れちゃうくらい、痛くて苦しくて悲しい。……でも初めて十夜くんに告白してもらった時の、あのドキドキ。それをまた味わえるなら、それもいいかなって思うんです」
風が、吹く。先輩の髪が、茜の空を黒く染める。そして先輩の真っ直ぐな瞳は、いつかとは真逆でとても幸せそうに見える。
それで俺は、ようやく気がつく。
「……変えられたんだ。あんなに悲しげだった瞳を、変えられたんだ……」
そうだ。そうだ。そうだった。先輩の、言う通りだ。
心が冷たくなった程度で諦めるなんて、どうかしてた。忘れてしまうからって諦めるなんて、どうかしてた。
例え死ぬことになったとしても、諦めるなんて……どうかしてたんだ。
10回振られたら、100回告白する。1000回振られたら、10000回告白する。それが未鏡 十夜の……いや、それが俺の生き方だった。
そうやって諦めず前に進むことだけが、俺の唯一の長所で、俺はその諦めの悪さだけで、先輩の心を変えたんだ。
「……先輩。俺は貴女が、好きです」
俺は何度も繰り返したその言葉を、何度繰り返したって決して色褪せないその言葉を、いつものように先輩に伝える。
そしてそのまま、先輩の身体を抱きしめた。
「十夜くん、温かい。……ああ、凄く温かい。抱きしめられただけで、ドキドキして……今までのこと、思い出しちゃう……」
先輩はまだ、笑っている。……けれどその声は、とても弱々しい。まるで泣いているみたいに、震えている。
だから俺は力一杯、先輩の身体を抱きしめる。
「待っててください、先輩。例え人に戻れなくても、また心が凍っても、仮にもし……死んだとしても。俺は絶対に、先輩に会いに行きます。お化けになってでも会いに行って、また好きだって伝えます」
「……ふふっ。お化け、ですか。やっぱり十夜くんは、十夜くんです。……本当に、変わらない。……大好きです」
消える間際の一際強い陽の光が、屋上を真っ赤に染め上げる。だから俺も先輩も強く強く目を瞑って、触れるだけのキスを交わす。
「────」
キスなんてもう何度もした筈なのに、どうしようもなく胸が高鳴なって、そしてどうしてか……
とても胸が、痛んだ。
「……約束です」
そんな声が、最後に聞こえた。きっと多分、俺も同じ言葉を言ったのだろう。
そして、辺りはゆっくりと冷たい夜の闇に飲まれて、俺も先輩も意識を保てず、静かにその場に倒れ伏す。
「…………」
「…………」
屋上の冷たい風が、フェンスをガタガタと鳴らす。夏のへばりつくのような空気が、静かな夜に充満する。そして真っ白な月明かりが、重なり合うように倒れた俺と先輩を照らし出す。
そうして、とても冷たく何より幸せだったデートが、終わりを告げた。
……そして瞬く間に、3ヶ月の時が流れた。




