ディオルト
私の名はディオルト・アリセルプト。
かつてはこの国の王族の姓を名乗っていたが、今はもう違う。
私にはかつて6つ名の婚約者がいた。神が造りたもうた人形のごとく完璧な造形の、あらゆる分野において完璧な女性だった。初めて出会った時私は9歳で彼女は7歳だったが、それでも彼女は誰よりも美しかった。そしてその時まだ6つ名というのがどういう存在なのか教えられていなかった私は、その綺麗な綺麗な少女に恋をしてしまったのだ。
彼女は私の叔母が降嫁した筆頭公爵家の令嬢で6つ名持ち、つまり彼女は神々から6つ名を授けられた時点でこの国の次期王妃となることが定められていた。彼女を婚約者とするために3人の王子の後ろ盾である陣営が熾烈な政治工作を繰り広げ、それに勝利したのは私の母である第1妃だった。
6つ名持ちが機嫌良く暮らしていることで国が安定するのだから、私は婚約者として彼女が心穏やかにいられるよう配慮しなければならない、と言われたが、彼女は見た目そのままにまるで人形のように感情を見せなかった。
この綺麗な顔が心から嬉しそうに笑ったらどんなに美しいだろう、と思って周囲に勧められるままに花やお菓子や装飾品を贈ったが、儀礼的に礼を言われるのみ。本人に何が好きなのか聞くと、本と音楽が好きだと言われたが、彼女はその時既に城にある一般に閲覧可能な本は全て読了済で、次期王妃として閲覧許可の下りた古書や禁書を読んでいたし、国内で入手可能な本や楽譜は全て公爵家にあった。私が彼女に贈ったもので唯一喜ばれたのは、リシェルラルドから取り寄せた楽譜だったのかもしれない。あの楽譜を渡した時だけは、彼女はいつもの作りものめいた笑顔ではなく、微かにだが本当に嬉しそうに笑ったのだ。
彼女は10歳になった時には、既に次期王妃として結婚するまでに必要とされる教育は全て終了していて、自国だけではなく他国の使者とも堂々と渡り合っていたし、公爵領では様々な公共事業や慈善事業を主導していた。
自然、人々の視線は婚約者である私に向く。彼女こそ淑女の中の淑女、次期王妃として完璧な女性、では隣に立つ次期王はどうか?というわけだ。
別に私は取り立てて出来が悪かったわけではないと思う。異母兄も異母弟も教育の進み具合は変わらなかったし、周囲の高位貴族の子弟も同様だ。まあ、彼女の兄弟であるシルヴァーク公爵家の兄弟だけは、彼女ほどではないにしろ頭一つ分は抜きんでていたが。
既に完璧な彼女を、婚約者である私に合わせて程度を落とせというわけにもいかない、彼女がもっと自分の能力を鼻にかけるような女性だったなら周囲も私に同情したのだろうが、彼女はいつだって孤高で美しく、そして何事にも無関心だった。
「人には人のペースがございます。ディオルト殿下も他人のことなど気になさらず、何事もご自分のペースでされると良いかと存じます」
穏やかな作り笑顔でそう言われた時のことを私は忘れないだろう。いっそ次期王としてもっと努力しろと叱咤された方がましだったと思う。あの時私は察してしまったのだ、彼女は私に対して一切何の興味も持っていない、と。
6つ名を授かる者は一様に感情が乏しくなる、ということをその時の私は王家の者として教えられていた。だからよほどのことでない限り、怒ったり悲しんだりすることはないし、6つ名を授かった時点で国のために在るよう暗示をかけるので、ただ心穏やかに過ごせるよう配慮してやれば良い、と。6つ名の女性は国に縛り付けるためによほど生まれの身分が低くない限りは妃にしなければならないが、6つ名というのは他の妃だけでなく愛妾を何人持ったところで気にも留めないのだ、と教えられてはいたが、それはこういうことかと実感した。
乾いた笑いが漏れた。
6つ名というのは、それでは本当に優秀なだけの人形ではないか。国の安定のためだけに王家の者と縁付けられ、ただ美しく有能な王配としてそこにあることだけを求められる。
私が何を言ったところで、何をしたところで、彼女の心には届かないのだ。
心から笑ったらどんなに美しいだろう、とずっと夢見てきた自分が馬鹿みたいではないか。
ユリアと出会ったのは、私が王家と6つ名のあり方について悩んでいた時だった。
屈託なく笑って、私がどれも彼女に劣っていると周囲に言われ続けていたことを全て、すごいすごいと目を輝かせて褒めてくれる侍女。
ユリアにとっては、私はとても頑張っている王子様だった。何でも婚約者の彼女の方が優れている、と言ったが、彼女には会ったことがないからわからないけれど、それでもたくさんのことを勉強するのは大変だ、偉い、とまるで子供のように私を褒めて笑った。
私は彼女から何の感情も向けられないことが辛かったのだ、とこの時悟った。
私が欲しかったのは、自分のペースでやれば良い、なんて言葉ではなく、もっと頑張れという叱咤でも、もう十分でも、何でも良いから彼女が私を見ているとわかるような言葉だったのだ。
彼女は次期王妃だ。相手は私でなくても異母兄でも異母弟でもどちらでも構わないのだろう。私は感情のない美しい人形に心惹かれて、その心を得ようとすることにもう疲れてしまっていたのだ。楽譜を贈った時に、一瞬でも嬉しそうな顔を見てしまったから、感情のない6つ名にも感情があるのではないか、と錯覚してしまったのだ。
案の定、婚約解消を願った時も彼女は怒りも哀しみも見せなかった。もしかして何らかの感情を見せてくれるかも、と少しでも期待した私が馬鹿だったのだ。
だがその後の行動は予想外だった。
国のために在るよう暗示をかけられているはずなのに、彼女は何故か国から出てセレスティスに留学したいと言い出したのだ。
学術都市セレスティス?!
いや、本と音楽が好きだというのは、感情の乏しい彼女が珍しく表出した本心だったのだろうが、幼少時よりかけられている暗示を凌ぐほどに本が好きだったのか?!
父王に留学の交渉をして予算を巻き上げている時の彼女の、とてつもなく悪辣で綺麗な笑顔を私は一生忘れないだろう。
私はどこかで間違ってしまったのだ。
もしかしたら、感情のないはずの6つ名の彼女の心を得ることができていたのかもしれないのに。
いや、心無い6つ名に不毛な恋をして疲れ果てるような私に王たる資格はない。それに感情豊かで優しいユリアとの生活はとても穏やかで、王位継承権を放棄した私にすり寄ってくるような者もなく、ずっと緊張感を強いられていた王族としての生活にも私は疲弊していたのだと気付いた。そもそも私は王の器ではなかったのだ。
彼女が神々の命で6つ名のハイエルフと婚姻を結んだらしい、と聞いたのは、彼女がセレスティスに留学して3年経った時だった。
6つ名がいることでその地は安定する、逆にいえば、6つ名がいないと荒れるのだ、ということを、彼女の不在で痛感した国は、何が何でも彼女を呼び戻そうとした。彼女が国のために在れという洗脳を解くほどに学問好きだと知った、つまり王妃になどなりたくなかったのだと理解したため、私の異母兄弟以外に高位貴族の求婚者を山と揃えて、この国にいるのなら好きなことをしていて良い、という許可を与え、彼女を帰国させようとしたのだが、彼女はセレスティスに隠遁していた6つ名のハイエルフと神々の命により結婚してしまった。
セレスティスに隠遁している6つ名のハイエルフというのは、各国王家には名の知れた方だ。神の化身とされ、神々や6つ名絡みに何かあった時は相談に訪れると良い、とまことしやかに伝わっている。
それがまさか人間族と婚姻とは。
リシェルラルドから宣戦布告されるのでは、とアルトディシア上層部は考えていたようだが、何故かヴァッハフォイアが動いて事なきを得たようだ。王子時代とは違って入ってくる情報にも限りがあるので、詳しいことはわからないが。
それにしても、感情のない6つ名同士が婚姻とは。
しかも料理の神ロスメルディアが降臨して、美食の都を造るよう命じたというのは、私の知る彼女とはなかなか結び付かない。いや、確かに彼女は不味いものは食べたくない、とはっきり言っていたことがあったか。何度か訪れたシルヴァーク公爵家の料理はどれも一線を画して美味だったけれども。
夜会で私の目の前に現れた彼女とその夫のハイエルフは、まさに美の化身だった。2人共圧倒されんばかりの絶世の美貌に、更に神気で光り輝いている。あの凄まじいまでに美しく神々しい姿に、誰もが跪き祈りを捧げずにはいられなかった。6つ名とは本来このような存在だったのか。
だが、2人で踊る姿に私は信じられない思いをした。感情がないはずの6つ名だというのに、彼女を見つめるハイエルフの目には明らかに情愛があり、夫であるハイエルフを見つめる彼女の目にも明らかに思慕の色があったからだ。
ずっと何も映すことのなかった人形のような彼女の瞳を見ていたからわかる。あの2人は心から想い合っているのだ。
・・・ああ、あの2人は少ない感情を揺らす相手に、出会うべくして出会ったのだな。
ユリアはディオルトのことを面食いじゃないと思っていますが、実は思いっきり面食いです、セイラン以外の顔は皆髪と目の色で識別しているような男です。色々とすれ違ってしまってうまくいかなかったんですよ、この2人は。頑張ればルナールルートくらいの心は得られたはずなんですが(苦笑)




