ハンタームーン 04
「たとえ私が叫ぼうとも、天使のうちの誰かが聴いてくれよう」
ライナー・マリア・リルケ『ドゥイノの非歌』
慣れた手つきでアルデンテに茹で上がったパスタを引き上げて、オリーブ油を垂らす。
そのまま特製のカルボナーラソースが入ったフライパンに麺を移動して、ほどよく絡ませる。
この時は温度が大事だ。
せっかくのソースがダマになってしまう。
サラダは緑の野菜をメインに一手間かけたミモザ風。
ドレッシングは自家製のシーザーで。
ブイヨンでよく煮込んだポトフには野菜の甘みとソーセージの油で光って見えた。
食後のデザートには、自家製のチーズケーキ。
隠し味には僅かに柚子ピールが入っているので、ほのかな柑橘のアクセントが濃厚なチーズの匂いに爽やかさのアクセントだ。
「そういや、天使様がたは食べなくても平気なんですっけ」
雛阪が調理した料理はざっと見ても5人分はある。
深夜12時を過ぎた時間にはヘビーすぎる量を大皿に山と盛ると、そこに直にフォークを刺して食べ始めた雛阪を、赤ずきんと狼は呆れたように眺めた。
「そういうおまえさんは、そいつを一人で平らげようってのか。まあ俺らは確かに食べなくてもなんともねえが、人間のフリをするには外では食べなくもない。けどよ、一人で大食い大会おっぱじめる前に確認するだろ普通」
「気が利かなくてすいません。けど僕みたいな下級の悪魔で、人間食いしないやつは人間より余計にエネルギー補給しないと、消耗するんです」
「でも、一度は秘密情報提供者をやっていたなら、”契約の羽”の加護をはわかってるわよね」
聞いた赤ずきんは、カーテンを開けて月光を浴びている。
狼は移動途中でマルボロをカートン買いして、断りもなく紫煙を味わっていた。
「天使の加護として、オーラが多少増幅する。対悪魔兵器が使えるようになる。悪事を働かない限り、殺害リストには載らない。ですよね」
「報酬も入るぜ、人間の通貨だけどな。働き次第ではコードネームも貰える。ネコ、”ラプ”、”ピノキオ”みたいな奴らみたいにな」
一瞬で雛阪の胃にサラダとポトフが収まる。
手慣れた調理とその膨大な量は、きっちり本人の把握の上だ。
「コードネームといえば、先代の長靴を履いたネコからちらっと聞いてましたけどーー前は円卓の騎士の名前だったとか。なんで変えちゃうんです?」
赤ずきんはそっぽを向いて、月光浴を続ける。
白い陶器のような肌に月光が降りて、余計に白々とした顔が人形のようだ。
説明を投げられた狼が、雛阪の空いた皿に灰を捨てようとして空き缶を渡され、苦い顔をした。
雛阪は既にメインのカルボナーラからデザートまで食べ終わっている。
何も知らない人間には、胃がブラックホールと呼ばれるが悪魔としてのオーラの供給のためには必須なのだ。
「何度も名前は変わるーー仲間が死んだ時にな。”マーリン”が死んで、俺は”ガラハット”から狼になった。昔々のある時に、悪魔の鏡が割れて封印したクソみてえな連中が逃げて、俺たちはそいつを消してこいと標的殺害の指令が出た。だがザコはいい、上級悪魔ども相手に何人もの仲間が消されちまった。そのたんびによ、コードネームは変えてンのさ」
狼が煙を吐く。
顔をしかめたのは、そのせいだったのかもしれない。
「ま、変えてるのは俺じゃねえし、どう呼ばれようとどうでもいいけどな。黒猫だろうと狼だろうと……っと、小僧外では俺たちを天使様だの赤ずきんさまだのと呼ぶなよ。そうだな、ここは日本だし、見た目も日本に合わせてるからなぁ。俺は”大神”、赤ずきんのことは”暁”とでも呼べ」
「……まんまっすね」
「赤月でもいいわよ。ねえ、ポンコツ、お茶頂戴」
赤ずきんの中では雛阪のことは”ポンコツ”で定着してしまったようだ。
月の光から離れて、雛阪の側の椅子に小さな体で身軽に座る。
交代するように狼が窓に寄って月光を浴びだした。
「自然のエネルギーで充電できていいっすね」
「紅茶、早くだして。ティーパックなんて出したら”契約の羽”全部剥がすわよ」
可愛らしい外見でも、言うことは殺伐としている。
有言実行しかねないことは、散弾銃を乱射している姿を知った今は雛阪にもわかった。
雛阪は実に手際よく、フランスで名高い紅茶のラデュレの缶を開ける。
たちまちラデュレ独特のフルーティーな匂いが、狼の吐くタバコの匂いを打ち消した。
「セパレートティーとかでいいですか?天……暁さま」
「さまも、外ではおかしいわ。家ではつけなさい。でも外では外してもいいわ。外見だけなら私のが下に見えるものね」
「はい……」
手際よく紅茶が蒸されて、グラニュー糖と柑橘ジュースで濃いめに煮出した紅茶にオレンジの皮がおしゃれにかかったラデュレのセパレートティーが出来ると、赤ずきんは満足そうに口をつける。
「随分いい茶葉あるじゃないの。日本だと一缶5千円以上するはずよね。それにさっきから料理を見てても自炊の枠を越えているように見えるわ」
「まあ、悪魔としては未だ子供といっていいレベルですけど、バーテンダーやシェフはけっこう名前と姿変えてやってましたんで」
「で?ポンコツはせいぜい第二圏のレベルよね。何なの?デイライトに登録するのに必要なデータだからはっきりしなさい」
「ニバスです。客寄せ道化師ですよ。人間が興味本位で悪魔召喚して僕を生み出したんですけど、当の相手はメフィストフェレス級の第七圏の悪魔を呼びたかったようで」
「で、契約せずにフラフラしてたわけね。デイライトに報告するわ。ああ、ポンコツの携帯にも、じきにデイライトのアプリが入るわ」
デイライト(夜明け)は今は天使のネットワークとして組み込まれている。
その契約者も羽を貰った時点でアクセスできるようになる。
雛阪の知っていた昔のデイライトは、関係者だけが開けられる封筒だったのだが。
時代に合わせて随分とハイテクが進んでいるようだった。
「デイライトってどういうシステムなんです?」
「昔は天使だけが意思疎通できて苦労はなかったが、クソ悪魔どもが人間界にでかい尻を据えてから、誘惑に弱い人間共がすぐに汚染されて、悪魔なんだか人間なんだか見分けにくくなったから出来たシステムってこった。天使はあいにく無垢なもんでな、悪臭がここまでひでぇとそうそう悪魔を探知できねえのよ。だから今じゃ『CSI:サイバー』ばりのネット時代なわけだ」
無垢とは程遠く見える狼が窓辺で口を挟み、耳にひっかけていた次のタバコに火をつける。
「ネコだのピノキオだのは人間だからな、契約の羽が黒くなったら悪魔がいるのを知ってデイライトで通達する。まあ、小僧は悪魔だから同じ悪魔のことは俺たちより感知が高いだろうからな。せっせと人間食いの罰当たりの居場所を俺たちにタレこむんだな」
「はあ」
「はあじゃねえだろ。カイト・ボーイ。”乙姫”と”浦島”が、さっき連絡してきて、日本にそれなりの悪魔のたまり場ができてるから大掃除してこいとさ」
「やっぱりしばらくヨーロッパを拠点にしてたから、アジアに流れてきたのね。ポンコツ、紅茶は合格、次はフラワーティーにして。狼にはバーボンだかラムだかでいいわ」
やはり、自分は下僕なのかもしれない。
雛阪は命の確保の代償として、今後は未知なる世界へ足を踏み入れるしかないようだ。
しかし、面白おかしく人間の世界で暮らしているだけなのも多少飽きてきたところではあった。
悪魔にもスリリングは必要だろうと思いながら、雛阪は奥の戸棚から洋酒の瓶を探し出した。
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ラデュラはフランスで大量に買いましたが、日本だと倍以上の金額に・・・。
悪魔の階級はダンテの地獄変を基本に設定しています。狼はバカルディかテキーラにするか色々どうでもいいことを悩みました。全部でもいいかも。雛阪は下僕です。次回、新章で赤ずきんたちからペアが変わります。舞台はNY!!