第3話:お嬢様の事情
「おーい、お嬢様? アリスお嬢様ー。アリスさーん」
「――あっ、はいっ! ええっと……?」
アリスは知らず知らずのうちに気圧されていた。
自分でも気づいていなかった仕草を全部見られていたのかと思うと――今更ながら、恥ずかしい。
何度も名前を呼ばれてやっと気づいたくらいには、少し惚けていた。
「理由を教えてくれって言ってるんですけどね?」
「あ、はい」
「それはさっきも聞いたよ」
「あう……」
ちらちらと視線をまわりに飛ばしそうになって、ぐっとこらえる。
自分は何をしに来たのか。こんなやり込められているためではないはずだ。
「私の家の領地に、魔物が出たのですわ――出たんです」
「魔物、か……」
その言葉を聞いた瞬間、店の主人――トウタという、聞きなれない響きの名前らしい若者は、足を行儀悪く投げ出して天井を見上げた。
その行動にマーサがまた苛立ちを見せているのが、そちらを見なくてもわかる。
けれどアリスは、マーサほどには不快を感じていなかった。そもそもマーサほど冒険者を毛嫌いしていない。だいたい自分に武技を教えてくれた師匠だって冒険者だったではないか、と思うのだが。
とはいえマーサは中央育ちなので、いくらか割り引いて考えておく必要があるのだろうと最近アリスは考えていた。中央はこの辺りほど冒険者がいないのかもしれない。
――話が逸れた。
そんなことを考えながらトウタの様子をうかがっていると、やがて天井を見上げたままトウタが問いかけた。
「オンザさんさあ、あんた知ってて話だけでもとか言ったろ」
「どうかな?」
顎の髭を撫でながら、オンザという冒険者が言い返した。口元に浮かぶ笑みが答えのようなものだ。
昨日追い返されたあとどうするか話し合い、トウタを口汚くない程度に(それはもう芸術的で、アリスはこれが中央仕込みなのだろうかと思った)罵り続けるマーサを、とにかくもう一度だけ行ってみようと説得した。
しかしそう決めたはいいが、行っても結局は同じ門前払いの繰り返しになるだけではないか、と悩んでいたところ、今日の朝になって宿で食事を取っていたところに主人から紹介されたのが、このオンザという男だった。
魔物を倒すためにトウタの店でスキルを借りたいのだと説明したところ、
「おう、俺に任せてくんな」
彼は詳しいことを何一つ聞かず、その厚い胸板をドンと叩いてそう請け負ったのだ。
「知ってて連れて来た証拠でもあるかい?」
「この粗忽なお嬢様がそういう言葉を伏せていられたようには思えないんでね。酒場あたりで魔物のことを話に出したんじゃないか? そうすると、酒場にたむろしてる冒険者連中が殺到したはずだ。そいつらを引きはがしてこっちに連れて来たんだろう? オンザさんならそれくらいできるよな」
自分とたいして変わらないだろう少年の、頭をかりかりと掻きながら言った言葉に今度こそアリスは絶句した。
まったくもって全てその通りだったからだ。
実は見ていたのではないか、と思ってしまうほどに。
「まあ、お前さんが魔物と聞けば動かずにいられない、それも並みの冒険者以上に目の色を変える人間だってのはわかってるからなあ。しかし相変わらず大したもんだな、お前さん」
「あ?」
「見てきたようにものを言いやがる」
「ああ、こんなのはわかってることを繋ぎ合わせただけだよ。大したもんじゃない。……話を戻すぜ。で、魔物が出てなんでアンタが――お嬢様がスキルを借りに来るんだ? 兵隊か冒険者を討伐に向かわせるのが普通だろ。お嬢様が自分から魔物を討ち果たすなんて聞いたこともない」
トウタの言うとおりである。
この世界において、魔物とはこの世の澱みが具現化したものだ、と言われていた。放置するほど澱みを周囲に撒き散らし、土地を汚し、草木を枯らし、病を振り撒き、水を腐らせ、作物を滅ぼす。さらにそれだけではなく、眷属と呼ばれる小魔物を産み出す。小さいといってもそれは親たる魔物に比べてのことで、人間と比べた場合難敵であることに変わりはない。
そして魔物が振りまいた澱み――瘴気を目当てに、どこにでもいるゴブリンその他の魔獣たちが魔物の領域にどこからともなく集まってくる。集まるのではなく魔獣もまた澱みから産まれるという説を唱えた人間もいるが、そのあたりはよくわかっていない。少なくとも、魔物によって変質させられた領域は、眷属や魔獣にとって棲みやすい環境になっている、ということらしい。
ここまででも十分に厄介な存在だが、一番厄介なのはその後だった。一箇所に集まった魔獣・眷属が一定の量を超えると、やがて大溢走と呼ばれる暴走を起こす。運悪く直面した小さい村や町はひとたまりもなく飲み込まれ、防御を固めた都市だけが防衛戦の果てにどうにか生き残れるほどの大災害に発展する。小さい国はそれだけで滅んだ例さえ歴史の中にはある。
だから魔物が姿を現した場合、できるだけ早いうちにそれを討ち果たし滅ぼさなければならない。兵士を揃え、あるいは強力な冒険者たちを雇って一気に制圧しなければいけない。そのために各地の領主や国王は軍備を揃えていて、そして冒険者は世界を巡り魔獣や魔物を監視したり討伐したり―間引き、と呼ぶ者もいる―をなりわいにしていた。
ちなみに任務の性質上、各地の軍は防御系の技術やスキルに長け、冒険者は攻撃・遊撃系の技術やスキルに長ける者が多い傾向にあるらしい。
――それくらいは、この世界に暮らすものとして、少なくとも貴族階級に属する人間としては初歩中の初歩の常識で、アリスにもよくわかっている。
魔物が現れた場合どうするのが一般的かも、もちろんわかっている。
それでも自分がスキルを借りに来た理由が、来なければいけなかった理由があるのだ。
昨日初めて会ったばかりの、正体もよくわからない人間に話すことに躊躇いがない、といえば嘘になる。けれどここで話さなければスキルは貸してもらえないだろうし、貸してもらえなければ我が家に――ヴェルトシア家に未来はない。
ぐっとこぶしに力をこめて、ひとつ息を深く吸い込みながら、アリスはトウタを見つめる。他人からは見つめるというよりは睨みつけていると思うだろう、そんな眼差しで。
「恥を忍んで言えば、我が家にはそうするだけの余裕がないのです」
「……は? 爵位持ちの領主なんだろ?」
「爵位持ちとはいえ、我が家の家計は有り体に言って火の車、というものです」
アリスのヴェルトシア家は、領地の名と家名が同じことからもわかるとおり、歴史だけは古い家柄だった。
だからといって裕福だったわけではなく、特にアリスの祖父の代あたりからはその家格に合った装いをするだけでやっと、という有様だった。
もちろん庶民の貧しさのように、食べるものにも事欠くというほどではない。領地持ちの貴族が万が一そんなことになれば領民ともども滅んでしまう。――が、こうなってしまっては遠からず同じになりそうだった。
「はっきり言って、魔物に対抗できるような兵士を養っておけるだけの余裕もなければ、有力な冒険者に討伐を依頼できるほどの蓄えもない。それが我が家の現状です。それで――」
「それで、お嬢様がスキルを覚えて自分で退治しようって?」
「その通りです」
聞いたことがないとトウタは言ったが、実のところ貴族の若者が魔物退治に赴くことはある。
ただ、確かに娘が行く事はほとんどない。跡継ぎ息子に箔をつける程度のことだ。
だがしかし、女騎士だって女冒険者だって存在するのだ。ならば、自分がやって何が悪い、そう思った。だからマーサ以下の反対を押し切って、ここまで来たのだ。
「そうか」
アリスの返事を聞いて考え込んでいたトウタは、やがてアリスに改めて向き直って、言う。
「そこまで言うんなら、ある程度は心得があるんだろうな?」