大いなる助走
シリウスくんとジョナサンくんのネコヤでの修行編、再び。
おじいさまに社会勉強をしろといわれて、『ドヨウの日』に異世界食堂のネコヤに手伝いとして働き出したて何日目なんだろう。
最初は少しの間でも立ち仕事に耐えられず、足腰が悲鳴を上がり、腕も動かず、終わることには身動きもとれないほどだった。
不思議なことに、今はそれほど苦痛もなく皿洗いもできるようになった。
今では、相棒でライバルでもある我が商会の料理人ジョナサンと一緒に皿を洗い、その数を競ってみたりした。
扉を開けてネコヤに着くとすぐに、テーブルを拭いていたアレッタさんと、厨房で準備していたマスターに朝の挨拶をする。
そして、不思議な銀色の部屋、厨房に入って、ことこと煮込んでいるスープやシチューのおいしそうな香りのする大きな鍋の横を通り、厨房奥の部屋で用意しされた清潔なハクイと呼ばれる服に着替え、準備をした。
今日も夕食の『マカナイ』を楽しみに、完璧に皿を洗うぞ、と意気込んでいたところに、マスターから今日のやることを告げられた。
「白衣に着替えてもらって悪いが、今日はシリウスくんにはホールを、ジョナサンくんには厨房を手伝ってもらおうかな」
「ホール?」
思わず聞き返してしまった。
「ああ、アレッタの仕事、料理をお客さんに運ぶ手伝いをしてくれ」
「料理を運ぶ……?」
少々上の空になって、アレッタさんの仕事を想像をしてみたが、運ぶだけの仕事にはとても思えなかった。
マスターが追い打ちをかけるように、
「俺は今日は仕込みがあって盛り付けまでできなから、ジョナサンくんには今まで特訓した、料理の盛り付けとホールへ渡す仕事をしてもらおう。今日はジョナサンくんに全部を任せる」
「やったあ!」
ジョナサンは喜びあふれ、握りこぶしをつくっていた力をこめていた。
「特訓? ジョナサン、いつそんなことをしていた?」
「休み時間にいつもマスターに教えてを願って、少しずつやっていて……」
「ずるいぞ、ジョナサン!」
抗議の意味を込めた非難を口にした。うらやましすぎる。
「シリウスくんには、ホール用の制服があるから着替えてもらう」
そういって、マスターはホールに頭を出して、アレッタさんを呼び出した。
「アレッタ、シリウスくんの制服の着替えと仕事の段取りを教えてやってくれ。アレッタの制服が入っているロッカーの隣、一番奥の扉にあるから、よろしく。靴はサイズのあったものを選んでくれ」
「はーい、わかりましたー」
と答えるアレッタさんがパタパタと厨房まで走ってきて、自分の手を引いて奥の部屋に向かった。
灰色の不思議な箱には、たくさんの縦に細長い引手扉がつけられており、その中には見たことのない異世界の服が置かれている。
自分もそのひとつを借りて、着てきた服をしまっている。
アレッタさんはロッカーの扉を開け
「わたしの制服のロッカーの奥ですよねぇ」
パカンと明けた後に、その空間に手を入れて、ごそごそと何かを取り出した。
「はいっ、これに着替えてくださいね。透明な布は破って捨ててください」
「透明な布?」
両手に渡された異世界の『ホール用の制服』をマジマジと見つめたり、透明な布というものを引っ張ってみたりした。何でできているのだ、これは?
その不思議なものにくるまれたものは、白いハクイとは全く違った異世界の服だった。
黒い布と、白い布のもの。
「シャツと呼ばれる白い服は最初に来ます。あとで黒い服を羽織ります。あっちの部屋で着替えを手伝いましょうか?」
アレッタさんが休憩所を指さして、一緒についてこようとしていたので、丁重に
「いい!自分で着替えます」
とお断りした。
「そうですか。わからなかったら、ここで待ってますから言ってくださいね?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれ? これが前なのか? 後ろなのか?
片足を輪のようになった服に入れようとして、バランスが取れずに部屋の壁に何度も激突しながら、時々部屋から首だけ出して、アレッタさんをチラチラ覗き込みながら、格闘することしばらく。
「アレッタさん、着替えおわりました」
着替え終わったところには、気力と体力の半分は奪われていたに違いない。
部屋の外にダラリと這い出した。
アレッタさんは自分の周りをぐるぐる回りながら、ふむふむといいながら、上の下へのと確認していった。
自分を見て、うんうんと、うなずきながらパッと笑顔になって、自分の首に紐状のタイというものを結んでくれた。
「これで、よしっと。かっこいいですね!」
「そ…、そうかなあ……」
頬を人差し指で掻きながら、アレッタさんに褒められたことに照れてしまった。
「あと、靴なんですけど、シリウスさんの足にあったものじゃないと、痛くなりますよ。あそこにいくつかあるので、履いてみてください」
靴が並べられた場所にいき、いくつか試しに履いてみて、丁度よいサイズのものを見つけるまで、履いては脱いでを繰り返す。
やっとピッタリしたものが見つかったので、つま先やかかとを指で押してみたり、軽く歩いてみた。
うん、これなら大丈夫だ。
「じゃ、いきましょうか」
アレッタさんが自分の手をグイグイと引っ張って、厨房脇をとおり食事をするホールへ向かう。
厨房の奥で、真剣な表情を見せていたジョナサンが、自分に気づいたのか、驚きの表情を見せながら軽く手を挙げている。
「マスター、シリウスさんが着替え終わりましたので、仕事の説明を始めますね」
背を向けたままジョナサンに説明しているマスターは、
「あいよー。 アレッタに任せるから、よろしく」
とだけ言って、ジョナサンに盛り付け方を再開したようだ。
着なれない服と靴のせいで、ちょっと足に違和感を覚えるが、この異世界から覚えられることは、すべて覚えてやる。
「それじゃ、ホールのお仕事を軽く説明しますね。シリウスさん、お客さんだったので、何となく分かると思いますけど」
アレッタさんがやっているホールの仕事とは何だろう?
マスターの作った料理をお客さんに運ぶ。
これだけじゃない。
料理の前にメニューを持って行って注文を聞かないとダメだ。
異国の習慣、『オシボリ』という布で手を拭いてもらうように渡していたな。
んー、待てよ、ずっとその前、お客さんが来たら挨拶しなきゃいけない。
そんなところから仕事が始まっているのか。
あとは、料理を食べ終わったら、片付けをしなきゃいけない。
ああ、食事中も『おかわり』を聞いて運ばなきゃいけないし。
そういえば、『おかわり』を頼もうと思う前に、アレッタさんが聞きにきたっけ。
料理はできた?
水をもっとちょうだい!
どんどん、おかわり持ってきて!
何とかと何とかと、何とかをお願い!
とかお客さんが言っていたが、あれ? アレッタさんって、何にもメモを書いていないよな。 全部覚えているのか?
少し驚愕を覚えつつ、我に返ると、アレッタさんが自分の顔を前で手をひらひらと動かしていた。
「シリウスさーん、聞いてますかー?」
「ごめんなさい、最初からお願いします」
一人であれこれ考えた時の悪い癖が出て、我に返る。
自分を覗き込むようにアレッタさんは、じっと見つめながら熱弁する。
「これから、いろいろやってもらいますから、ちゃんと聞いてくださいね」
頬をぷうと膨らせて、困ったようなアレッタさんが、水を入れる金属で作られた器と不思議な棒をもってきた。
「それじゃ、お客さんが来る前にやる掃除をやりましょうか」
掃除は雇人がやることなので、商会や家ではやったことがない。
それでなくても綺麗な店内を、テーブルを拭いたり、床を箒で掃いたり、棒の先に紐の束がついた不思議な道具で床をこすりつけたりしているのだが、この店は虚しいことをしているのがわからないのだろうか。
どうせ床を磨き上げても、土足で上がれば汚れるのだから、掃除することに意味があるとは思えない。
それでも、一通り掃除が終わると、自然と頭と額から汗が出てきた。
木目がわかるように、床は鈍く光を反射している。
自分のやった仕事に少し自己満足感にひたっているところへ、アレッタさんから手を洗うようにいわれたので、そそくさと洗面所へ行く。
洗面所とは異国の手や顔を洗うために用意された井戸のようなものだが、正面に鏡が供えられ、白い焼きものが水受けとなっているが、狭い場所で一通りのことができるのは驚きだ。
これだけのために手や顔だけの洗い場を用意するとは、実に贅沢で無駄ともいえる、
脇に置いている小さな水色の塊の上を押すと、手前に出ている管から不思議な良い香りのする泡が出てくる。
こぼれおちそうになる泡を手で拾い、手と手をこする。
不思議な取っ手を上げると、きれいな水が出るので、その泡を水ですすぐ。
料理を扱うものは、みんな手を清潔にしなければいけないという。
まるで、王侯貴族に料理を供する店以上のことをしている。
不思議といえば、皿を洗う時も不思議だったが、井戸もないのに、この店の水は一体どうなっているのだろうか?
透き通った泉から湧き出たばかりのような美しい水がふんだんに出続ける。
山の水もきれいな水らしいが、そういうものを上から流しているのだろうか。
驚くことに、この水は生のまま飲んだり、料理に使うというのだ。
我が商会にある井戸の水でも赤いので、濾してきれいにした水を煮立たせ、それを冷やして大きなカメに溜めて、それを使う。
薪も買うことができない貧しいものは、汚れた川の水や井戸の水をそのまま飲むので、ひとたび流行り病になると、たくさんの人が病になる。
この水があれば……。
よく洗い終えると、ホールに向かう途中にチラリとみえた、マスターのジョナサンへの講義をうらやましく横目で見ていた。
普段見られない、ジョナサンの真剣な眼差しが頭の中に残る。
「いいなぁー」
溜息とともに、小さな声で言葉が出てしまった。
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普段見ることのない、熱弁をふるうアレッタさんが待っていた。
「お客さんが扉を開けたら、すぐにご挨拶します」
「料理を運んでいるときでも?」
「運びながらでも、ご挨拶です」
「まかないを食べている時でも?」
「あー、それは気にしなくていいです。先に進みませんねえ」
「では、続けてください」
「あれ? 教えているの、私じゃないんですかぁ?」
「まあまあ。アレッタさん、それでは何か気を付けることを教えてくれませんか」
「そうですねえ、お客さんが来たら笑顔でお出迎えすることです」
「笑顔ですか……」
マスターにもらった白い紙を束ねた『メモチョウ』に、いつまでも書き続けれれるペンのようなもので、聞いたことを忘れないように書き連ねる。
「それから、大きい声で挨拶をします。『いらっしゃいませ。ようこそ。ヨーショクのネコヤへ!』」
いつものとおりのアレッタさんの挨拶。
当たり前のようで、当たり前ではない。
これからの食事と待つ楽しみを期待させてくれる最初の一ページ。
「それじゃ、練習しましょうか。さあ、一緒に、『いらっしゃいませ。ようこそ。ヨーショクのネコヤへ!』」
「いらっしゃいませ。ようこそ。ヨーショクのネコヤへ』」
「おなかから声を出してー! もう一回」
「いらっしゃいませ。ようこそ。ヨーショクのネコヤへ』」
「叫ぶだけじゃ、だめですよ。優しい声でもう一回」
「いらっしゃいませ。ようこそ。ヨーショクのネコヤへ』」
「にっこり笑顔になっていないから、もう一回」
やる気と力ない作り笑いが見え透いたのか、アレッタさんに自分のほほの両方をつまんで横からひっぱられた。
「笑顔ですよ、笑顔」
そんな、こんなで、何故か顔からも汗が出た。
妙に体力を使う。
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ひと段落ついてから、テーブルをはさんで座席にすわってから、説明が再開された。
「お客さんが初めて来た時は、お店とメニューの説明をします」
「初めてって、自分はわからないんですけど」
「そんなシリウスさんに、マスターに聞いた良いことを教えてさしあげます」
妙に胸を張って、勝ち誇っているように見えるのは何故だ。
「良いことって、何です? それは?」
「見分ける方法ですよ。 扉を開けた時に、キョロキョロ見回している人は、初めて来たってことです」
「へ? 本当なんですか?」
「シリウスさんも、そうだったって聞いたんですけど」
少々、疑わしいことがわかる目で黙ってアレッタさんを見てみた。
「あっ! 信じてませんね、シリウスさん!」
「いや、そんなことは……」
少々、アレッタさんもジト目で返されて、返答に窮した。
「まあ、そんな人が来られたときには、わたしに言ってください。ネコヤのことや料理の説明もしますので」
「はあ……、よろしくお願いします」
気の抜けた声をだしながら、アレッタさんの説明や大事なことを再び紙に書いていく。
「シリウスさん、いつも来られる方の好きな座席ってご存知ですか?」
「ええ、何となく。 必ず同じ席に座る人とか、一人でいたい人とか、今まで見た限りだけど」
「それじゃ、もしも、お客さんがいつも座っている席に、ほかのお客さんがいたら、どうします?」
「今来たお客さんと、居るお客さん同士で、話あって交渉してもらいます。自分たちの世界では当たり前のことだし、いつもそうしていますが?」
「ここでは、それをやったらホールが大騒ぎになりますよ」
アレッタさんは頭をかかえて、ダメダメと首を左右に振っていた。
「そうですね、空いている席か、どなたかと相席か、どちらがいいか聞いてください」
「空いている席がない場合には?」
「それなら、大丈夫です。ネコヤは結構、席が空いていますから」
と、アレッタさんは胸を張って、えっへんといいつつ断言していた。
このネコヤの経営状態を疑問に思っていたが、そういえば、待機状態のお客さんを見たことがないな。
本当に自分たちを雇うぐらい、忙しいのだろうか?
少し妄想していたら、アレッタさんの質問が続けて飛んでくる。
「それでは、次にお客さんを席に案内して、最初にすることは何ですか?」
「メニューを出して注文を聞くんですよね?」
「そのとおりですね。あと、最初にレモン水のコップも一緒に渡してくださいね」
はい、とメニューを渡されて、しげしげと眺めた。
「日替わり定食って、そういや頼んだことないですけど、何が出てくるんですか?」
「それは、その日の最初にマスターに聞いておいてくださいね。今日はハンバーグステーキですね」
メニューをじっくり眺めていると、いつも見ているパスタやピザと呼ばれるところ以外にも、きれいな料理の絵が描かれている。
その下に、教養がある人がかいたと思われる美しい文字がかかれている。
自分は同じものだけを頼まずに、いろいろな料理も挑戦すべきなのではないのだろうかというほどの、見たことのない料理ばかりであった。
ペラペラとメニューをめくると、デザートの欄の説明が他のメニューに比べて、やたらに細かく書かれている。
それに比べて、自分が大好きなパスタの説明が簡単すぎる。
……甘酸っぱいマルメットの煮汁をかけた麺。
絵と一緒に見ても分からん。
自分の知らない世界がまだ広がっているのに、ほんの一部しか触れていない。
新しい料理にも挑戦しなくては。
学び取れる異世界の料理は山のようにある。
「注文をいただいたら、マスターに大きい声で伝えます」
「それは何となく」
「その次に、スープと一緒に、サービスのパンとライス、どちらかを持っていきますので、お客さんに注文と一緒に聞いておいてくださいね。じゃあ、練習しましょう!」
「はあ」
「元気がないですねえ、元気になりましょう!」
アレッタさんが客となって、注文した料理を言って、自分が答えるという練習を行う。
一度に3種類程度なら何とかなるが、それ以上は怪しくなってくる。
覚えることを観念して、聞いた注文を『メモチョウ』に字を書いていると、アレッタさんが覗き込んで、
「シリウスさん! さっきから何かやってましたが、字が書けるんですか! すごい!」
と目をらんらんとさせていた。
書かないで全部、覚えるほうがすごいんだけども。
運ぶ料理と、だれが注文したのか、その人はどこにいるのかを把握しなければならない。
覚えきれないので、『メモチョウ』に注文した人がいる座席も書いておいたほうがよさそうだ。
続いて、トレーと呼ばれる手の平の上にのせる円盤に皿を載せて、運ぶ練習をする。
最初は何ともなかったのだが、次第に手首が悲鳴を上げ、貴重な皿がトレーから滑り落ちる。
息が止まるかと思った。
何度も床に落として砕けそうになる直前に、アレッタさんがとっさに皿をつかんで難を逃れた。
息が止まるかと思ったがアレッタさんの動きは、見えないほど素早い。
この人は魔族なんだろうけども何者なんだ?
アレッタさんのにこやかな顔のまま、いつものことですよ、といってはいたが、どう見ても厳しい特訓にしか思えない。
終わりの見えない特訓はまだまだ続く。
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「シリウスさん、だいぶ慣れてきましたね。もうそろそろ、最初のお客さんが来るはずですよ」
妙な緊張感と着慣れない服で、そわそわしながら待っていると、ついに今日の最初のお客が現れた。
扉があくと同時に、チリンチリンという音がホールに響く。
練習の成果を出すときだ。
後で聞いた話だが、字で書くと、こう言っていたらしい。
アレッタ「いらっしゃいませ、ようこそネコヤへ」
シリウス「い、いっららららら…………ネコヤヤ」
同時に声をだしたアレッタさんと、明らかに違う声をだしていたようだ。
アレッタさんは、首をギギギとこちらに回しながら、目を見開き口を三角に開けて硬直していた。
見る目が冷たい。
「アレッタ、きたよー。 あれ? アルフェイド商会の子じゃないの。 何? かわいらしい格好ね」
今、売り出し中の有名なトレジャーハンターのお姉さん、サラさんが、自分を品定めするように、下から上へ、上から下へと往復して眺めていた。
は、恥ずかしいから、やめてほしい。
座席の案内をしようとすると、いつものところだから大丈夫と言って、手をひらひらさせながら勝手に歩いて行って、定番の席に座った。
案内なんて、いらないんじゃないか?
あわてて、後を追いかけて、レモン水とオシボリ、メニューを持って座席に向かう。
レモン水のコップをテーブルに置いたとたん、待ってましたと言わんばかりにコップを奪い取ると、ごきゅごきゅと音を立てながら一気にレモン水をあおった。
どうみても、がさつだ。がさつすぎる。
名家の令嬢で、華麗な女冒険家として国中に伝えられているイメージとは、程遠い。
「ぷはーっつ! んー、生き返るうー!」
テーブルの上にあるレモン水のつまったポットをつかんでコップに注ぎながら、矢継ぎ早に注文が出る。
自分はまだ、メニューも渡していないし、注文も聞いていないのに。
「いつもの、3つ、お願いね!」
「イツモノ? みっつ?」
満面の笑みを浮かべて、お姉さんは繰り返す。
「そう!いつもの!」
メニューに『イツモノ』というのは見たことがないが、客として来たときには、よく聞いたことがあったような気がする。
常連と思わせるキーワードだ。
マスターに注文を初めて伝える。
「マスター、『イツモノ』3つ、注文いただきました」
うん、うまく言えた。
マスターはホールに首だけ出して自分とサラさんの方をしばらく眺めてから、
「あいよー」
と答える。
ひと安心をしてのんびりとしていたところで、アレッタさんがさかんに身振り手振りで、パンのバスケットとスープ皿がおかれた料理の渡し口を指さしている。
ジョナサンがすかさず用意してくれたものだ。
ああ、忘れかけていた。
すぐに厨房近くに戻り、ジョナサンから今日のスープ「マルメットとダンシャクのスープ」と何種類かのパンを入れたバスケットを受け取ると、あわててサラさんの座席にもっていく。
スープとバスケットを置きながら、
「これが今日のスープとパンです。おかわりは……」
と練習の成果を確認するように言葉を出している途中で、
「ありがとうね」
とサラさんの満面の笑みで言われると、ドキリとして次の言葉がでなくなっていた。
心臓に悪い。
さっそく料理が来る前の腹ごしらえで、スープとパンで、モリモリと格闘するサラさん。
バツが悪くて、そそくさとその場を離れた。
アレッタさんのように自然に何でも対応できない。
頭ではわかっているけど、すぐにできない。
この仕事は、向いていないのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
落ち込んでいた気分のままでいられないと、自分自身に言い聞かせていた昼頃。
ひとり、ふたりという増え方から、ついに、甘いもの目当ての女性陣が大挙して押し寄せてきた。
妙な視線を浴びながら、慎重に飲み物やケーキを運んでは、かわいいだの何だのと黄色い声をあげられ、抱き疲れたり、ぺしぺし叩かれたり、べたべた触られたりと、それはそれは大変な災難だった。
何度もアレッタさんから、お客から自分に運んでほしいと頼まれている、といわれて、ホールを動き回った。
しまいには珍しくケーキがひとつも残らなかったという。
特に、ケーキを大量に消費している四人組の司祭と思しき人たちには、何か、遊ばれている気がする。いや、完全におもちゃ扱いだ。
何かを暗誦したりギラギラした目をしているので、今度来た時には、逃げて回ろう。
さらに夕方頃からも続々と、いつもの食事と酒を楽しむ常連の人たちが現れ、ホールがにぎやかになってくる。
一様に冷やかされたり、荒っぽく頭をぐしゃぐしゃに撫でられた。
決まって二言目には、『ボーズ、今日はかわいい恰好してどうした?』と言われる。
食事の注文も半端でない人たちが揃っているだけあり、慎重にゆっくり運んできた料理も、いつも間にか走りっぱなしになっていた。
アレッタさんに、危ないからゆっくりでいいよと言われたが、お客が口々にすぐに、早くもってきてくれという注文の嵐。
それなら、やってやろうじゃないか、と思い始めた。
もう何がなんだかわからない状態が続く。
陽気な声といつものじゃれあいの喧嘩、そして、食事を通して人と人が楽しい会話を楽しむ。
そんなホールの手伝いが自分の仕事なんだろう。
そんなことを思いつつも、できないことが多すぎて、悔しい思いもある。
あわただしい嵐もいつかは収まる。
やがて、『最後のお客さん』を待つだけとなった。
何やら『最後のお客さん』というのは美人がやってきて同じものを注文するという常連のひとりらしいが、自分は遅くまでいないので見たことはない。
手も足も棒のようになり、歩こうとすると体がカクカクした妙な動きになってしまった。
体力的にも精神的にも、もう、へとへとだ。
こんなことは生まれて初めだ。
前に何度かやった皿洗いの比じゃない。
もう動けない……。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「よーし、晩飯ができたぞー」
マスターの声だ。
ギクシャクしながらも動かなかったはずの体が急に動き出した。
待ち構えていたのは『カツドン』。
『ドン』と名前につくものは、ほとんどドンブリという器にはいった料理のことをいっているようで、このカツドンもその一種だ。
今日もやってきた獅子の剣闘士として有名な戦士の大好物で、一度に三杯ずつ注文をして、二十回ほど繰り返す。
まとめて注文しないのは、熱々のものが途切れなく食べられるタイミングらしい、とマスターが言っていた。
おかげで店のドンブリが足りなくなって、何度も食べ終えたものを先に回収したので印象深い。
普段あまり食べることのないライスをつめたドンブリに、衣をつけて揚げた肉とオラニエをあわせて、甘しょっぱい茶色い汁と一緒に卵をかけた料理、メニューにそんなことが書かれていたような気がする。
見たことはあるが食べたことのないもののひとつだ。
おそるおそるフタをとると、ふわりとした湯気とともに、香りが鼻まで届く。
匂いが届くと、自然と舌から水分が出始めてくる。
マスターから、『ハシ』はまだ慣れないだろうからと、フォークとスプーンを渡されて食べはじめた。
黄色と白の卵の上に、鮮やかな緑の小さい草が一輪乗っていたのだが、何かの飾りなのか、まじないなのか分からない。
スプーンで、下のライスとカツと呼ばれる肉を大きくすくうと、一気に口の中に放り込む。
口がやけどしそうになって、焦っていると、笑われれていた。慌てているのではない。新しいものに挑戦的だと言ってほしい。
熱さを逃がすために、口をハフハフいわせながら噛むと、肉の衣から、甘しょっぱい汁が口いっぱいに広がる。
何より腹が減ったうえに疲れている体に濃い味がよくしみる。
一緒に口にしたオラニエをやわらかいが、、シャクシャクとして心地よい。
口がしょっぱくなったところで、追加のライスを放り込む。
甘しょっぱい汁と半熟の卵からこぼえおちた黄身がご飯と混ざっている部分が、白いライスとの対比でさらさらと口の中に落ちていく。
口の中がカラになると、口がもっと入れろと要求してきた。
甘くしょっぱい汁にしみた肉を食べ、下にあるライスを次にと交互に食べてみたり、一緒に重ねて食べたり、卵のある無しで食べ比べたりと、組み合わせを試すこと何度か。
汁にしみたオラニエだけを食べても、これだけでごちそうになる。
これは、飽きることがない。
勢いよくかき込んで食べたせいか、途中で胸につかえては、あわててスープを喉から腹に流し込む。
一息ついて、再び、カツドンと対峙する。
うまくて止まらない。
夢中になって食べていると、気が付いたら、ドンブリの底が見えてきた。
お祭りも、もうそろそろ終わる。
そんな物悲しい気分になってきた。
テーブルを囲んで、すでに一杯目を完食したジョナサンがにこやかに今日の成果を自慢していた。
今日のこの状態では自分に言えるようなことはあるんだろうか。
やらなきゃいけないことと、やりたいことと、やれることがバラバラで戸惑っている。
この世界でいろいろな知識をどんどん吸収して、自分の国へ経験を持ち帰えろうとしたのに、これでは飛び立つこともできないヒヨコのような状態だ。
そんなことを、ぼーっと考えごとをしていると、マスターが何か言い淀んでいるようにも見えた。
「みんな、食べたりないだろ? まだ材料が余っているから、おかわりいるか?」
アレッタさんとジョナサンが間髪入れずに「はいはい」と手を挙げて叫んでいた。
雰囲気に押されて自分も仲間に入って、おもわず「はい」と言って手を挙げていた。
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「おなか、いっぱいになっちゃいましたねー」
「ぼっちゃん、もうダメです。ぐるじい……」
「もうたくさん……動けない、死ぬ……」
自分も弱音を吐いた。
みんなで食べる食事はいつもよりもおいしいとは言うけども、いくらおいしくても食べ過ぎるものではない。
五杯目で沈没したジョナサン。
自分は三杯目を何とか食べ終えて降参した。
ドンブリが三つ重なっても箸を使っておいしそうにと食べてケロリとしているアレッタさん。
満足そうな皆の笑顔とともに、腹をおさえて、もう食べられないと言い合っていた。
マスターも周りに流されていてか、珍しく二杯目を平らげ、異国の祈り
「ごちそうさま」
と唱えたあとに、自分に話かけた。
「あー、そうだ。シリウスくんが着ている制服、それ、アレッタ用の女の子用のものだから、今度はロッカーの一番奥にある男の子用のを着てくれな。気に入っているなら、それでもいいけど」
ジョナサンは自分を指さしてゲラゲラ笑い始めた。
自分とアレッタさんは顔を見合わせて、同じ声をだしていた。
「「ええ?」」
更新できていると思ったら、GW最終日に見ると登録できていなかったことが判明。
ううううう。