異変
ネジはドオオン、という轟音、そして直後に来た大きな揺れで目を覚ます。
「う、おうっっ」
起き上がった拍子で、勢い余ってベッドからずり落ち、「ぐう゛ゃっ」と勢い良く床に顔面ダイブ。
「い、っでぇ、はう゛ぁぶづげた」
鼻先を手で抑えつつ、そのまま床でゴロゴロと転がって悶絶。
「でも、一体何だったんだ?」
そんな事を考えていると、ドオオン、という再度の轟音。そして同じく再度の揺れを感じる。
天井からはパラパラ、と小さな埃や、レンガの欠片が降ってくる。
「これ…………普通じゃないぞ」
我に返ったネジは今度こそ起き上がると、顔を軽く桶に入れた水で洗うと、水入れからカップに水を注いで口をゆすぐ。
その上でハンガーにかけてあった服や鎧を手早く纏うと、部屋を飛び出す。
階段を降りていくと宿屋の女将が、「ああ、ネジちゃん。無事だったかい?」と心配そうに声をかけてくる。
ネジは、「はい。俺は何ともなかったです。おばちゃんこそ大丈夫?」と返事を返し、周囲を見回す。耳を澄ませば上の階からはドタバタとした足音が聞こえる事から、どうやら自分がいち早く降りて来たのだと理解、「俺、ちょっと様子を見てくるよ」と言うとそのまま外へと飛び出すのだった。
◆
「これは、ヤバそうだな」
走りながら、思わずそんな言葉が口をつく。
フリージアの街中が突然の事態を前に、混乱状態に陥ろうとしていた。
フリージアは人工的に作られた街だ。それは建物とかそういった建造物の話ではなく、環境をも含めての話。
そもそもここは巨大な洞窟に広がっていた広大な空間を、さらに掘り進めて拡大。当然ながら日の光など差し込まないので、天井に特殊な光り苔をビッシリと付けて、それを照明として活用。まさに人の手によって一から造られた街。
今の時間が何時なのかは分からないものの、天井からの光が全くない以上、まだ夜なのは間違いないだろう。
「…………」
夜道を照らすのは松明の光。
それが道なりにならんでいるので、道から逸れる事はまずない。
わーわー、という叫び声や何か物が崩れるような音があちこちから聞こえる。当然ながら、住民達も何が起きたのか分かってはいないらしい。
(なら今行くべきなのは……)
俺は目的地へと急ぐ事にした。
「ん、ロビンか」
「ちっ」
「何で舌打ち?」
ツンフトへと向かう道すがらで出会ったのは金髪エルフことロビン。
て言うか、会うなり舌打ちはないだろうよ、いくら何でも。まぁいい。俺は大人だからね。こんな事じゃ怒ったりはしない。
「一体何がどうなってるんだよ?」
「──知らん」
うん、ピシャリとした物言い。いやぁ清々しい位に本当に腹立つわぁ~。
こんな状況ではあるが、何だか一発くらい殴ったろうかと思っていたりすると、
「だがまぁ、恐らくは戦さだろう」
ロビンはそう言葉を紡いだ。
「…………」
俺はその言葉を受け、返事に窮する。
ロビンはハッキリこう言った。”戦さ”だと。こいつは冗談なんかを言うような奴じゃない。そしてそう言えるのは、こいつには三十三年前の記憶があるからだ。
その表情にはこれまで見た事のない、張り詰めたモノが漂っていて、それがまた、俺に戦争、という言葉の重みを感じさせる。
「────っ」
いつしか言葉など出なくなっていた。俺と金髪エルフ、ロビンはただただ目指す場所へと急ぎ向かった。
「おう、おまんらも来たがかよ」
「ああ、お前こそ来ていたのか」
ツンフトに着くと、そこには先に来ていたらしいキリセの姿がある。
あっちも最低限の身支度は整えていたらしく、いつもの大太刀はしっかり鞘に納められている。
「ネジ、見てみぃ」
キリセの指差す方角に視線を巡らせれば、火の手が上がっている。
それも一カ所や二カ所ではない、それこそ数え切れない程の無数に。
「こりゃただ事じゃないぜよ。まっことまずい事態に違いない」
「ああ、そうだな」
俺は気を引き締めて、ツンフトへと入る。
ギギギ、という重々しいはずの扉が、妙に軽く聞こえた。
◆
そこはいつものツンフトじゃなかった。
何て言うかとても、…………静まり返っている。
当たり前の事だ、だって今はまだ夜中。職員さんだって大半は眠っている時分だ。
でもそれでもいつもとは違う。
受付けに誰もいない。ツンフトは場合によっては王家からの密命を受ける事もあるし、緊急の依頼だって来る場合もあるからって、常に数人の職員が常駐しているはずなのに。
そもそも、扉の前に警護がいなかった。俺は何度かここを夜中に出入りしているから良く知ってる。こんな事、今まで一度もなかった。
「…………」
横を歩くキリセにせよ、ロビンも表情が固い。ただ事じゃないのを肌で感じているんだろう。
「すいません」
嫌な予感がする。
「あのー、」
とても嫌な予感がする。
「どなたかいません、か?」
ああ、もう駄目だ。嫌な予感しかしない。だって…………受付口に近寄っていく内に分かってしまったから。
奥の方からでも分かる。この嫌な、生理的に受け付けたくない臭いが漂ってきたから。
「う、っ」
思わず胃の中のモノが逆流してきそうになるのを、手で口を押さえて何とかこらえる。
受付口から覗き見えた光景はこの世界に来てからこれで何度目かの、血に塗り潰されたモノだった。
「こいつぁひでぇもんぜよ」
キリセが怒りに身を打ち震わせるのが横からでも分かる。
そうだな、そうだよな。キリセの奴は俺とは違う意味合いでこの光景を見ているのだろう。
「あまり高ぶるな、冷静になれ」
ロビンの奴はあくまで淡々とした面持ちでたしなめる。
ゆっくりと、無造作にそこにある無惨な遺体へと近寄っていき、その死因を確認。
「喉を一掻き、……恐らくは彼が最初に殺されたのだろう。それから──」
冷静に、まるで感情の揺らぎなど感じさせないまま、事実を確認している。
悔しいが、こうした時のこいつの冷静さが俺は羨ましい。
普段は何だこいつ? って文句を言ってやりたい位に、辛辣極まりない物言いに腹が立ってばかりだ。だが、こいつは誰よりも物事を客観的に見ている。
「彼女は、散々苦しんだ末に…………」
ギリ、と爪が手に食い込んでいる。そうか、ロビンの奴もまた、怒りを覚えている。俺やキリセ以上にこのツンフトには知り合いもいた。いくら平静さを装ったって、怒りを覚えないはずがなかったんだ。
「行くぞ、彼女達が死んでまだそんなに時間が経っていない」
「…………ああ、そうだな」
そうだ。ここに来たのはリーベに会う為だ。あのおかっぱ頭の童女吸血鬼がやられるとは思えないが、敵がここにいるのは間違いない。
「ぐうっっ、は」
呻き声が聞こえ、俺達は階段へと急ぐ。
そしてゴロゴロと階段を転げ落ちる誰かの姿を目の当たりにする。
「こいつは、……確かここの職員?」
転げ落ちて来たのは、このツンフトの職員の一人。話をした事はなかったが、見覚えならある。
「よく見るぜよ。この男の持ったナイフ……」
キリセの指摘で、持っていたナイフに視線を向けると、その刃はドロリと真っ赤に染まっている。まるでついぞさっき誰かを切ったかのように。
「そういう事だろうな。この惨状は外からではなく、内部かららしい」
恐らくロビンは分かっていたんだろう。犯人がどういった連中なのかを。
「思うたよりも早う来はりましたなぁ」
そう言いながら姿を見せたのはまさしく俺達が会おうとしていた当人。
扇子を仰ぎながら、ゆっくりとした足取りで階段を、飛び降りた。
「う、をっ?」
思わず尻餅をつく。階段を降りるんじゃなくて、一気に飛び降りるのかよ。しかも俺の目の前に着地とか心臓に悪いから、頼むからやめてくれ。
「これはすみまへんなぁ。ついつい勢い良く行き過ぎましたわぁ」
「…………」
何て言うか、こんな状況なのに、何とも言えない空気が漂う。緊急事態なのに、緊張感が。
「リーベ、どこからの仕掛けだ?」
ロビンは流石だ。こんな変な空気でも狼狽えずに、リーベに話を切り出してる。
「あんさんは何処からやと思いますかぇ?」
「…………魔族、だ」
ロビンは言いにくそうに少し逡巡した後、答える。
魔族って事はまさか海を渡って来たのか?
「そうですなぁ、ウチが知ってる限りだと──」
そこで童女吸血鬼は持っていた扇子を一振り、するとカキン、と甲高い音と共に転がったのは、一本のダガー。これには見覚えがある。
「ほれ、お返ししますぇ」
リーベが扇子をまた仰ぐと、落ちていたダガーが浮き上がり、勢いよく飛んでいく。
『グギャ』
小さな、息を殺したような悲鳴をあげ、誰かが闇の向こうで倒れる音がした。
そして、
『オノレバケモノめ』
白い髑髏を模した仮面を付け、黒い外套を纏いし、闇の化身。死神が姿を見せる。
しかもその数は数十人。
「ここにおるんはあの無粋なお方々です。ロビンはん、キリセはん、ネジはん。ちぃ、とばかしお力借りてもよろしゅうおますかぇ?」
にっこりとした柔和な笑みとは裏腹の、目には静かな怒りを浮かばせ、童女吸血鬼はゆっくりとした足取りで前へと進み出した。