死神──リーパー
「────」
暗闇の中で彼は待つ。
そこは文字通りの意味の暗闇。一寸先すら見えない黒に染まった空間。
夜目が利く者ならば足元位は見えるだろうが、それは間違い。
下手に歩き回ろうものなら仕掛けられた数々のトラップの餌食に。穴に落とされ、矢に射抜かれ、挙げ句には断崖へと放逐されてそこで終わる。
そう、動けば待つのは死。ただ待つ事だけが正しい選択なのだ。
まるで永遠とすら思える時間が流れていく。
感覚は既に麻痺しており、時間を数えるのも諦めた。
耳を澄ませど何の音もない。聞こえるのはただ己の呼吸、心音のみ。
だが、彼は耐えるしかない。何故ならこれは罰なのだから。受けた任務を失敗した死神に対する処罰なのだから。
「それでアレの様子はどうだ?」
「…………耐えとるわねぇ。新入りながらなかなかに強いわねぇ」
厳つい大男が水晶玉と睨めっこをしている老婆へ話しかける。ここもまた薄暗い。か細い蝋燭の光で辛うじて視界が確保されているらしいが、分かるのはシャツの上からでも把握出来る、まるで岩のような筋肉をまとった大男の姿形のみ。
老婆の方はと言えば、大男とは真逆。無数の燭台の光に照らされる事でその顔形まではっきりと伺える。
「いつまでも処罰など必要ない。そろそろ切り上げろ」
「何を言うんだわね? まだまだ足りんわねぇ」
「だが、こちらには数少ない手駒を遊ばせておく余裕はない。いいから切り上げろ。これは命令だ」
「むう、だがね」
老婆としてはあの死神にはもっと厳しい沙汰を与えるつもりだった。
何故ならここの掟は失敗した者には死を以て報いる、だから。本来であれば逃げ戻った段階で処刑しても構わないはず。実際、そうして多くの同胞が粛清を受けてきた。
だがそれも老婆がここの主だった頃までの話。今やここの支配者は背後にいる大男。
様々な掟を無視、或いは切り捨てた異端者。実際、老婆とて当初は激しく抵抗した人間の一人。
「掟が大事なのは知っている。お前達がそうやって自分達を鍛え上げたのもな。だが無駄に手駒を減らすのは承服出来ん。償いなら戦わせればいい。次の任務を与えればいい。違うか?」
「むう、」
大男の眼光に気圧され、老婆は押し黙った。彼女とて弱者ではない。むしろ強者、それもかなりの強さを今でも保持している存在。なのだが、それも大男の前では霞む。
他者を寄せ付けない絶対的な強さ、それが大男がここの主として君臨出来る唯一無二の理由。
「は、かしこまりました」
老婆には大男の言葉に従うしかなかった。
「く、──は?」
男が目を覚ますとそこはベッドの上。さっきまでとは違い、微かながらも光の眩しさに思わず目をつむる。
「目を覚ましたか」
「……あ、あなた様は【ルーラー】」
男はそこにいるのがよもや自分達の主だとは思いもしなかった。
ルーラー、それがこの大男の持つ称号。代々自分達の主に与えられる名称。
自分のような組織の末端が顔を合わせるなどまず有り得ない雲の上の存在である。
「う、ぐ」
「無理は禁物だ。相応の重傷を負っていたのだからな」
「しかし、私のような者が……」
「かまわぬ。それよりこちらこそすまなかったな。どうやら、俺はまだ組織を掌握仕切れてはおらぬらしい」
ルーラーの言葉に男は震えた。
自分のようなものにどうしてこうも気を遣うのかが分からなかった。
人の心の機微、については学んできた。自分達のような死神にとって感情がどういったモノであるのかを理解するのは重要な事。だから表面上にはどうとでも合わせられるように訓練は受けてきた。実際、ここに戻るまではそうして潜入してきたのだから。
その上で男は悟る。”人間は醜い”と。
どんな人間であろうとも表向きと裏の顔を持っている。そして表向きの顔が清廉であればあるだけ、その裏の素顔は歪んでおり、見るに堪えない。
だからこそ男は組織からの指示に従う。くだらない連中を一人、また一人と葬る事で少しでも組織の目指す世界へ。それが男や他の者達が生きる理由なのだから。
「ですがルーラー。私は失敗したのです。愚かにも騙され、危うく捕らえられる所でした。
掟は正しい。我らリーパーは囚われてはならぬのですから」
それは絶対の掟、死神に失敗は許されぬ。囚われて情報を吐かされるのなら自害する。仮に逃げおおせても死に匹敵する処罰を受け、生き残らねばならない。そうして秘密は守られてきた。故に長い間、組織はこうして影の中に潜んでこれた。
変わったのはルーラーが代替わりした頃から、らしい。先代のルーラーは死に、目の前の大男がその地位を引き継いだ。激しい反発があったそうだがそれも圧倒的な力の前に沈黙。
そうして徐々にではあるが掟は変化を遂げる。
任務自体は以前と同様。潜入による諜報活動及びに特定の要人の暗殺。
ただし任務失敗による処罰は以前よりも軽くなったのだそう。楽ではないが、死ぬような事態はめっきりと減ったと聞く。
(全てはこの方が来られてからだ。そしてその形が私のような者の前で、あろうことか……)
ルーラーは頭を下げていた。それはあってはならぬ事。組織の長たる存在が軽々としてはならない行動。だと言うのに、何故だろう?
男の目からは涙が流れ出し、止まらない。
「俺のような者の為にお前は働いた。報いる術など持たぬこの身だ。せめて詫びくらいはさせてもらうぞ。いいな?」
「は、……有り難き幸せ。望外の極みで、す」
その時、男は誓った。これからはこの方の為に生きよう、と。自分のような者にまで目をかけてくれるこの方の為に、非才の身なりに尽くそうと決めた。
◆◆◆
「……それで首尾はどうなったのだ?」
しわがれた声が男に訊ねる。
視線を声の方へ向けるとそこにいるのはその声同様にしわだらけの老婆。
声や姿で性別を判断するのは最早難しく、その漂わせる花の香水で自分が女である事を主張しているらしい。
(哀れなものだ)
男は心底そう思う。
目の前に座る老婆はかつては組織内でも有力者だった。実際、新米だった頃は様々な任務を彼女から伝えられ、出発した事だってある。
(それが今やこうなのか?)
彼女は現在組織を統べるルーラーに刃向かった者達の一人。彼女以外の反逆者の大半は粛清されるか、或いは獄中で責めを受け続けている。当時、まだ下っ端であった男は疑問だった。何故彼女だけが何の沙汰も受けずにいたのかを。恐らくは大半の構成員は同様であったはずだ。
老婆は立場も変わらないままに、相談役という立場に収まったのだが、数年は何も変化はなかった。
状況が変化したのはいつからだろう? 誰かが噂を始めたのがきっかけらしい。
”あのお人は仲間を裏切ったんだ”
”それもただ裏切ったんじゃない。わざと仲間をそそのかして、反逆者に仕立て上げた上でルーラーに密告。己の立場を守ったそうだ”
ある日を境に様々な噂が飛び交うようになった。
そうして老婆は徐々にその身の置き場を失っていく。それまで自身の味方、手下であった者達が離れていく。築き上げた立場が崩れていく。結果として今の立場になった。
相談役、と言えば聞こえはいいものの、何の権限も持たない存在。それが今、男の前にいる老婆の姿。
実の所、今では男の方が立場も上なのだが、彼にとってそうした事は気にもならない。
「答えよ。何故のうのうと生き戻ったのだ?」
老婆から叱責の言葉が飛ぶ。
「は、申し訳ありませんでした。醜態を見せ、あまつさえ訪問者まで失う始末。申し開きの余地などないのは存じております」
「ならば何故そこで死なぬ? 死神の掟を忘れたとでも言うか?」
老婆はあくまでも男がこうして戻った事が許せないらしい。そして男にすれば自分までもがあの場で死すれば、誰が状況を詳細に説明出来るのか、と思う。指導者が変わり、掟も変わりつつある。そうした変化に老婆はついてこれないのだろう。だからこその今の立場なのだろう。
「俺が生き延びろ、と指導したのが間違いだと申すのか?」
「!!」
「主よ」
場の空気が変わる。
気付けばそこにルーラーが佇んでいる。一体どういった方法を使ったのか、仮にも暗殺を生業とする男と老婆に気付かれずにこうして姿を見せる事が可能なのは間違いなく彼だけだろう。
「相談役、俺の指導は間違いなのか?」
「い、いいえ。場合によっては、の話をしていた、だけで、そのような畏れ多い……」
「だ、そうだ。事の顛末を聞きたい。後で俺の部屋まで来い」
「は、」
「ではな」
ものの数秒。それだけしか指導者はいなかった。だが老婆の表情には明確な怯えが浮かび、男は高揚している。圧倒的な存在感。それに見合うだけの強さ。男にとって崇拝すべき対象。
「そうか。全滅したのか。分かってはいたが残念ではある」
「はい。せめて王国騎士団はおびき寄せたかったのですが……」
「だがまぁいい。最低限の目的は達した。フリージアとしてもしばらくは再度の開発に着手は出来まい」
「その点は間違いないかと。あの一帯を開発されれば厄介でした」
「そうだ。あの肥沃な土地を完全に手に入れてしまえば、フリージアが他の国よりも抜きん出ていただろう。それは好ましくない」
「はい。生き残った者達が、喧伝してくれましょう。あの地で起きた出来事を」
「うん。では気になる話だ。向こうにいた訪問者の中に焔をまとった者がいたのだな?」
「は、小鬼の目を借りて見ました。あれは間違いなく焔をまとっておりました」
「ふむ。ではそいつがそうなのかも知れないな」
「可能性は大きいかと思われます」
「……分かった。なれば手を打とう。その者を捕らえよ。その上でここまでで連れて来い」
「は。承りました」
「期待しているぞセメット。では準備にかかれ。手段は選ぶな。必ずや成功させよ」
「…………は」
男は前とは大きく違う。かつての名もなき者ではない。それがセメット、という自己証明。
ルーラーは彼を始め、多くの同胞に名を与えた。影の中に潜む者に自我を与えた。
「お任せください。我が主よ」
セメットはその場にはいない主へ、そして自らに誓う。目的の達成を。