リーベその2
「う、っぷ」
胃の中のモノが逆流するような感覚。
気分が悪くて吐き気を催す。
そして唐突に目の前がくらくらと回るような感覚を覚えて、俺はその場に倒れる。
「う、……げうううっっ」
ズキンズキンとしたまるでハンマーか何か鈍器でぶん殴られたような鈍痛が襲いかかり、悶えながら呻く。
だけど俺の頭にあったのはこの原因不明の痛みじゃなく、
「な、にが?」
それはこことは違う何処か、たくさんの人の記憶、? なのか?
見た事のない風景、だけども何故か懐かしい場所。
「あんれまぁ。やっぱりいきなりはキツかったですなぁ」
そんな俺を気遣ってか、おかっぱ頭の童女はこちらへ湯呑みを渡す。
中にそそがれていたのはやはり緑茶。
「まぁ何にしてもまずは気持ちを落ち着かせなあきまへん。ゆっくりでいいから飲んでおくれやす」
「ああ、助かるよ」
勧められるままに椅子に座らされ、言われるまま差し出された緑茶を口にする。
ほのかな苦み、そして飲み終わった後はサッパリ。今更ながらだけど確かにこれはお茶だ。
さっきまでの最悪な気分は少しずつだけど収まっていく。
「はぁ、さっきのは一体……?」
冷静さを取り戻した俺がまず思い至ったのは、あの一連の光景。ではなく、それを観る事になった経緯だ。まるでVRギアでも装着してたみたいなあれだが、勿論ゲームだとかじゃないだろう。そして仮にゲームだとしても、だ。そんな技術が中世風味の世界に存在してるはずがない。そんなのあったらオーパーツもいいとこだ。
だけど俺が一番気になっているのは、その事じゃあない。その状況に入る前に目にしたアレ。
「何どすか?」
おかっぱ頭の童女がこっちに振り返る。
あどけなさを感じさせるその面影。だけど俺はロビンから聞いている。彼女はああ見えてかなりの年数を生きる存在である、と。
見た目にはそぐわない強力な固有魔法なるトンデモ能力を持ったこのフリージア、或いは世界でも屈指のレベルに達した魔導士なのだと。
──いいか。リーベとは間違っても戦おうなどとは思わない事だ。彼女はそれ程に強い。
あの金髪エルフをしてそう言わしめる存在なのだ。だからこそ、だ。さっきのは一体何だったのかが気になってしまう。あれも、そう。
「さっき俺に噛み付いた際のアレは何なんだ?」
経験なんかないから、噛みつかれた事にも驚いたのは当然だけど、俺が訊ねているのはそこじゃない。噛みつかれた時に感触で分かった。ただ噛まれたのではなく、何か鋭利なモノで刺されたのだと。一瞬かそこらで意識が遠退いたから明確に目にした訳じゃない。だけど手首に付いた傷。そこそこ目立つ二つの左右対称の穴。傷そのものは塞がってはいたが、これはまるで──。
「ああ、それどすかぁ。素早くやったつもりでしたが思ってたよりもネジはん、鋭いですなぁ」
下を俯いたリーベがふふ、と肩を震わせるように笑う。
何だろう、ゾクリとした悪寒を感じる。微かに身体が震えているの、か?
それはまるで蛇に睨まれた蛙、の気分だと言えば伝わるのだろうか?
一つだけ確信出来るのは、目の前にいる童女は俺よりずっと強いナニカなんだって事。
今、仮に相手にその気があったのなら、俺はまず間違いなく死ぬって事だ。
「ネジはん、あんさんは勘が良すぎですなぁ……」
思わずゴクリと唾を飲み込む。ゆらりゆらりと顔を俯かせたまま、童女は無言でこちらへと迫る。
マズイマズイ。どうしたらいい、逃げればいいのか? 何処に?
そんな事を考えてる間にもおかっぱ頭の童女はにじり寄ると、俺へと手を差し出し──。
「オイ、リーベ。あんましネジをおちょくるのやめとけよな」
「……………………え?」
レンの声が聞こえたかと思った瞬間、薄暗い部屋に火が灯る。
「ったく、ネジもいちいちビビってんじゃねぇよ。リーベが悪のりしちゃうだろが」
ペタペタとした足音と共に姿を見せたのは、寝間着姿の…………赤髪の少女。
「何だよ?」
訝しそうな表情でこちらを見てきたが、それも仕方がない。
だって目の前にいるレンの格好は、女の子そのもの。
そもそもあいつは普段の言葉使いやらがさつな態度のせいで見落としがちなんだが、あいつは見た目は間違いなく美少女。別段おしゃれな装いじゃない。チュニックにスカート。上着のパーカーみたいなモノを羽織ってる。いつもは野ざらし、というか無造作な赤い髪はヘアゴムでも使ってるのかまとまっている。
たったそれだけであいつは女の子にしか見えない。
化粧っ気なんて全くないその肌は艶々としているように思える、見慣れてるはずだってのに。
「あっはっはネジはん。さっきまで怯えていたあんさんがレンに釘付けですなぁ」
「ん?」
「え?」
ああ、すっかり忘れてた。
そう言えば俺はおかっぱ頭の童女の異様な雰囲気に呑まれたのだったっけ。
「……………………」
何ていうか今更だ。あんなにも怖かったはずなのに、今や何も思わない。
思えないので何故か悪い事をしたような気分にすらなる。
よくよく考えたら理由はさっきまでとこの室内の雰囲気が違うのが一番の理由だろう。
さっきまでこの室内には数本のろうそくのか細い光が微かに照らしていただけ。
それがたった一つのランプでこうも部屋の光度が違うものなのか。
「ネジはん。何やリアクション欲しいですわなぁ」
「…………ごめん」
もう何が何だか、だよな本当。
(数分後)
それから気を取り直して、俺は改めてリーベと向き合う。
で、話を聞いたのだが。
「ウチは吸血鬼なんどす」
「はぁ、」
何ていうかガッカリだ。
何だろうかこのどうしようもない脱力感、やるせなさは。
いや、色々合点はいったさ。さっき俺の手首に噛みついたのはリーベが牙でやったわけだし。
「ふぉれ、どないどうすか?」
口を開いて牙を見せるおかっぱ頭の童女吸血鬼。いや、確かに吸血鬼だね。見事な牙が伸びている訳だしさ。
でもさ、何ていうか。
もうちょっと考えて欲しかった。もう少し、ほんの少しでいいから見せ方を考えて欲しかった。
こんな緊張感の欠片もないゆっるーい空気の中ではい、私吸血鬼です、って申告されてもなぁ。
吸血鬼、って言えばだ。ゲームのみならず小説や映画やアニメとかでも最強クラスのモンスターだ。
「アッハッハ。全然怖くないぞぉ」
そして、だ。レンうるさい。お前も空気を読んでくれ。
俺としてはもっと驚きたかった訳だ。吸血鬼なんて存在、もしかしたらこのフライハイトなら一度お目にかかれるかも、ってほのかに思ったさ。
でもさ、こんなゆっるーい雰囲気でバラされても何にも驚きがない。インパクトがない訳で。
「はぁ、それは分かったよ。じゃあ話を続けてくれるかな」
そんな事しか聞けなかった自分にもガッカリしてた。
「ではウチについての説明をしましょうかえ」
そう言ってリーベは話を再開した。
勿体ぶった話はなかった。
「ウチは吸血鬼、昔は別の名前もあったんどすけど、今はリーベ。そう名乗っておりやす」
何でも元々は魔族の住む別の大陸出身らしい。
魔族、とは云ってもそこには様々な種族が存在している。
それこそゴブリンやコボルトやスケルトンみたいなモノもあればオーガやリザートマンやサイクロプスみたいなモノまで。
そしてそれぞれがロードやキングといった高いランクを持つ個体によって統治されているのだそう。
「まぁ向こうではまとまっていないとよその種族から攻められる可能性がありますからなぁ」
つまりは強い集団を持たないモノはよその種族から見ればいいカモにしか見えないのだそう。
だからこそ、種族を群れを守る為に自然とロードやキングといったランクの高い個体を頂点にした一種の国が勃興したのだそう。
「ウチらみたいな吸血鬼もそれは同じです。ただ、」
吸血鬼は他の種族と比してその絶対数が少ないらしい。
理由は個々の強さが他よりも遥かに上位なのと、その生命力。
何よりの理由は彼らがアンデットじゃなくて、強い澱みから生まれるからだそう。
様々な感情、喜怒哀楽の入り混じった場所に様々な条件が加わって初めて生まれるのだそうで、自然繁殖しないのが最大の理由らしい。
「ただ吸血鬼は数こそ少なくともそもそも強いのであまり群れを作らずとも生きていけるんどす」
のだそう。つまりは吸血鬼はかなり好き勝手に生きていける存在らしい。
「じゃあさ、十字架に弱いとかないわけ? 日光を浴びると身体が燃えるってのも?」
これらは一般的に、俺の元いた世界での吸血鬼の弱点な訳だが。
「十字架は効き目がないどすな。日光に関しては個々で抵抗力に差異がありますから明言は出来まへんけど、ウチの場合なら短時間なら耐えられますなぁ」
という返答をもらった。
「ウチが三十三年前の【大戦】で人類に味方したんがフリージアに暮らすキッカケになったんどす」
そしてフリージアで暮らしていけるのは、大戦で魔族を敵に回して戦った、というのが一番の理由だそう。
「リーベは強いんだぞ。何たって世界に残ってる【英雄】の一人なんだからな」
「マジか」
こいつは驚いた。俺はこれで大戦の英雄のうち二人に会った訳だ。
案外、身近にいるもんなんだな。
「さて、そろそろウチの身の上話はええでしょ。さっき観てたモノについて話さんといけまへんなぁ」
コホン、と咳払いを入れておかっぱ頭の童女吸血鬼は話を切り替える。
「レンはん、よろしゅうおますか?」
「いいよ。ネジなら信用してる」
空気が変わったのが分かる。さっきまでみたいなゆるい空気はもうここにはない。
張り詰めた、とまではいわないがでも空気が重い。
「さっきの光景はウチの吸血鬼としての固有能力で観せたものです。血液を摂取した相手の記憶を共有、そしてそれをまた別の人に共有させる。それが【血液解析】。
そんであれは以前ウチがある人から受け継いだ記憶。そんお人はそこにいてはるレンはん、のお母上のモノなんどす」
「…………」
「あまり驚きまへんな」
「ああ、そうだな」
自分でも意外だった。血液を介しての記憶の共有。そしてあの記憶はレンの母親のものだと言う。にわかには信じられないような出来事だけど、俺は知っている。このフライハイトでは向こう側では不可能な事が出来るんだって。だから俺はリーベに頼んだ。
「教えてくれ。大事な事なんだろ?」
そしてリーベは横に座ってる赤い髪の少女へと視線を向け、彼女は一度だけかぶりをふる。
「ならさっきの続きいきますえ、手首を出してくだはれ」
その要請に俺は、無言で手首を差し出して────リーベの牙を受けて記憶の続きを観るのだった。