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狐編

 おやおや、今日も寒い。

 年の瀬ですものねぇ。ほうら、掛け取りの声がここまで聞こえてくるようじゃござんせんか。

 宵越しの金は持たない粋な江戸っ子も、お正月には餅のひとつも食べたいものですからねぇ。


 師も走る、そんな季節になっちまいましたが、柳原土手の神社の様子はいかがなもんでしょう。

 正月になれば神社も華やぐのですけれどねぇ、年の瀬は皆大忙し。それもこんな寒い外でむしろ一枚を地べたに敷いて、女抱こうかって気になる連中もちょいとばかし少ないかもしれませんねぇ。

 そんな男たちを化かしていた狐狸たちはこの師走をどう乗り切るんでござんしょう?



     卍



 すこぅし、雪が降った。

 それほど広くもない境内に、うっすらと雪化粧が施された。雌狐の狐雨こさめは軒下からそんな情景を眺めていた。それは美しい、清らかな冬の始まりに思えて胸が踊る。狐は寒さには強いのだ。


 弾む心中を隠しながら、こさめは涼しい顔をして隣で丸くなる雌狸の真由狸(まゆり)に声をかける。二匹は幼なじみであった。


「雪だねぇ」

「ううう、寒い。なんて寒いの。あたし、もう駄目かも――」


 もともと丸っこいというのに、まゆりは鞠にでもなりたいのかと思うほど、さらに体を丸くした。焦げ茶色の毛玉がぷるぷると震えている。


「アンタ、毎年それだね。まったく、狸ってヤツはだらしないねぇ」

「なななな――」


 段々と歯の根が噛み合わなくなってきたらしい。それでも、まゆりの言いたいことくらいわかる。無駄につき合いが長いのだ。

 ぐすぐすと鼻を鳴らすまゆりに、こさめは呆れて言った。


「そんなに寒いなら、亭主のところに行きゃあいいじゃないさ」


 そう、まゆりは少し前につがいになった。相手は狸一郎りいちろうという狸なのだが、これがまた厄介な妖狸で油断ならない。顔ではにこにこと朗らかにしているのだが、怒らせるとかなり恐ろしいと思われる。高い通力を持ち、そのうちこの界隈の狸の頂点に立つだろう器である。

 そんな相手を射止めたのは、この間抜けでどん臭いまゆりにしては上出来と言えた。


「り、狸一郎ささ様はおいおいお忙しくててて」


 イラッとしたこさめだったけれど、放っておいたら本当に凍死するのではないかと思って、脇腹をまゆりに寄せた。こさめにしてみれば、まゆりは十分すぎるほどの熱を持っている。腹がぬくかった。


 二匹、軒下でぼんやりとしていた。雪は止むどころか大粒のぼたん雪となった。確かに、寒い。

 ほう、とこさめが息を吐くと、境内の雪を踏み締めて狸一郎がまゆりを探しに来た。


「まゆり、遅くなってすまない。帰るよ」


 涼やかな声に、まゆりは息を吹き返した。先ほどまでのだらしなさはどこへやら、しゃんと体を起こす。


「狸一郎様、もうよろしいのですか」

「ああ。寒かっただろう?」


 そう言って、狸一郎はこさめに目を向けた。にこり、と黒いまなこが微笑む。


「おや、こさめ。うちのまゆりがいつも世話になっているね。ありがとう」


 こさめは内心でケッと吐き捨てた。狸一郎のこういうスカしたところが大っ嫌いなのである。

 けれど、敵う相手でないことくらい承知している。フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 まゆりは幸せいっぱいにうふふと笑っていた。


「じゃあね、こさめ。またね」


 と、二匹は仲睦まじく身を寄せ合って雪の中を去った。狸一郎のことだから、どこかあたたかいねぐらを用意してくれているのだろう。雪の上を歩く冷たさも、二匹でいれば平気だというのか。


 二匹が去って、こさめは軒下にぽつりと取り残された。

 別に、寒くなんてない。寒いのは平気だ。

 こさめは体を丸めて音のない白い世界に浸った。


 狸はああして群れる。けれど、狐はそうではない。

 行き逢って、また離れて、孤独が常である。

 小さな頃からそうして生きて来た。通力も上がり、一匹で生きて行けるだけの力をつけた。

 寂しいという感情は、狐らしくはない。


 この境内にいると、なんだかんだとまゆりが突っかかってきた。からかうのは、まあまあ楽しかった。

 だから、まゆりがつがいになってみて初めて、独りということを考えた。

 寂しくはない。寂しくはないけれど――。


 まゆりはそのうちに狸一郎の子を宿し、産み育てるのだろう。そう思うと、自分もまた子を産み育てたくなるかもしれない。そんな気がした。

 いつだって、まゆりはこさめほどに要領よく何もできなかったけれど、ああして守ってくれる相手がいて、愛される存在である。それは、こさめにはない力だった。


 そんなこと、死んだってまゆりには言わないけれど。



     卍



 そうして、年が明けた。雪は固く締まり、そして溶け出してゆく。


 正月ともなればヒトが騒ぎ立てた。境内はいつもとは比べるべくもない参拝客で溢れ返っている。

 ヒトの子供たちの駆け回る足音、甲高い笑い声。こさめはその声をふるい落とすかのように、何度も何度も耳を動かしていた。昼間のうちに眠ってしまいたいのに、うるさい。


 夜になったら少し土手へ行って稼ごう。晦日の夜は人通りも少なくてさっぱりだったのだ。

 まだ少し寒いけれど、酔狂な男の一人二人はいることだろう。ヒトの男の精気を吸っておかねば、この先何が起こるのかもわからないこの世を生きては行けない。蓄えは十分にほしいのだ。




 待ちわびた夜が来て、こさめは境内の軒下から出た。そうして、美しいヒトの女の姿を取る。

 外気の寒さがこさめの肌の白さを際立たせてくれるようであった。婀娜っぽく抜いた襟元からも風が入り込むけれど、こさめには堪えるほどではない。ほう、とひとつ息をついて髪を掻き上げた。ヒトの姿を取るのは久し振りだ。


 ううん、とひとつ伸びをすると、境内に一人の男がいた。

 真っ白な狩衣姿の男である。黒い烏帽子を被ったその男は、じっとこさめを見ていた。

 若く美しい男だった。月代は剃らず、髪は烏帽子の中に収まっている。少し変わった雰囲気を持つ男だけれど、こさめにとってヒトの男は糧である。精気をもらった上に金まで寄越す、大切な獲物だ。

 こさめはその男に嫣然と微笑みかけた。


「おや、兄さん。参拝にはいささか遅すぎる時間じゃありゃしませんか」


 すると、男も清々しい笑みを見せた。


「参拝に参ったわけではない。私はお前に会いに来たのだ」


 そのひと言に、こさめの方がぽかんとしてしまった。けれど、すぐに思い直す。

 きっと以前喰った男のうちの一人が、この界隈に安くて麗しい夜鷹がいるとでも吹聴したのだろう。精気を奪ったとはいえ、命までは取っていない。しばらく大人しくしていれば回復したはずだ。

 こさめはクスリと笑った。


「そうでござんしたか。二十四文でいかがざんしょ?」

「私は金など持っておらぬよ」


 男は堂々とそんなことを言った。たった二十四文も持ち合わせていないという。それほどに貧乏だというのに、一見して身なりは整っている。白い狩衣は艶やかだった。

 実際、こさめの目当ては男の精気である。金はついでだ。目の前のこの男、なかなかによい気を発している。それは上質の気で、こさめはそれがほしくなった。みなぎるような力が手に入りそうに思えたのだ。


「それはそれは。まあ、ようござんす。アタシもね、この寒さの中の一人寝は身に堪えるんですよ。旦那だけ特別でござんすよ――」


 と、こさめは男の手を引いた。男は驚くでもなく易々とこさめに従った。

 どうせまゆりも戻ってこないだろうし、土手まで出たところで雪もある。男が寒さに負けて帰ってしまっては元も子もない。

 こさめは男を社の中へ導いた。男は罰当たりなことだとは言わなかった。平然と中へ踏み入る。


 戸を閉めると、こさめは男の首に腕を回して口を吸った。冷えた唇が擦り切れるほどに口づけを交わしたけれど、何かがおかしい。この男からは他の男のような熱が感じられなかった。

 男の美しい顔はこの状況でも淡々としており、まるでこさめのことを求めていなかった。それがこさめには屈辱であった。キッと男を睨むと、こさめは帯を解いた。社の床板の上にこさめの黒い着物が広がり落ちる。滑らかな肌をさらしても、男は劣情など抱きもしない聖人のような目で、裸身のこさめに柔らかな声をかけるのだった。


「お前、名をなんと申すのだ」

「――こさめ、と」

「そうか。私はトシとでも名乗っておこう」


 この男、公家か何かか。本名は長くて覚えづらいものであるのだろう。

 そう考えると、身なりがよいのに無一文であることにも納得が行った。きっと、従者が金を持っている。その従者は主が急にいなくなったことにおののきながらこの寒空の下を探し回っているのではないだろうか。


「トシ様は、アタシのような女子は嫌いでござんすか?」


 男なら、こさめの裸体に食指が動かぬはずはない。こさめはトシに膝を寄せ、その頬に指を這わせた。

 すると、トシは言った。


「こさめ、お前は少々ヒトの男を喰いすぎだ。このままで行くとお前は身を滅ぼしてしまうだろう」


 その言葉に、こさめはぎょっとした。

 この男は一体何者だと言うのか。

 公家ではないのかもしれない。ならば――。

 あまりのことに、こさめはとっさに反応できなかった。カッと見開いたこさめの目がトシの苦笑を映す。


「とある者がお前の行いに困り果て、私に相談してきたのだよ」


 トシはこさめの通力を押さえ込むことができる者。あやかしの天敵。

 ヒトには稀にそうした者が存在する。坊主や陰陽師、祓う力を持つ者。

 トシはそうしたことを生業とするヒトなのかもしれない。だとするなら、女犯の誓いも立てていることだろう。


 こさめは床に散らばった衣類をかき集め、軽く体に羽織った。色仕掛けが通用しない相手ならば仕方がない。

 トシはそんなこさめに札や数珠を投げつけるのではなく、優しい言葉で諭した。


「お前なりに生きてゆくために必死であったのだろう。その心を否定するわけではない。ただ、程度を弁えることだ。それがお前の命を長らえることにもなる」

「――トシ様は、アタシを狩りに来たんでござんしょ。程度を弁えるのなら逃がしてやるとでも仰るんですか?」


 戦って、勝てない。そんな相手が近くにいる。それだけでこさめは不安で仕方がなかった。

 逃がしてくれるはずはない。今までどれだけの同胞がヒトに狩られたことか。

 ヒトは愚かだ。けれど、甘く見ては時折牙を剥く。その牙がこの男だ。

 けれど、トシはふわりと微笑む。


「お前は必死だ。必死で生きる姿を美しいと思う。だからこそ、こうして苦言に来たのだ」


 ギシ、と音を立ててトシは立ち上がった。そうして、身構えたこさめの頭をそうっと撫でた。それは優しい手つきであった。今まで触れて来たヒトの男の手がこれほどに優しかったことなどない。


「ではな。いい子にしているのだよ」


 そう言って、トシは去った。こさめは社の戸を閉めることも忘れ、吹きすさぶ冬風に身をさらしながら、しばらく呆然としていた。

 いつまで経っても、あの優しい手を忘れることができなかった。



     卍



 こさめはそれから数日しても、ヒトの女に化けて土手へ行く気にはなれなかった。境内の軒下で、気づけばトシの姿を捜していた。ここを動いた隙にトシが訪れるかもしれないと思うと、どこへも行きたくなかった。

 また会いたい、そんなふうに思う自分にこさめ自身が一番驚いていた。


「こさめ」


 雪が止んで陽が差して来た途端、まゆりがやってきた。丸くなっているこさめの隣にちょこんと座る。


「あんたさ、ちょっと痩せたんじゃないの」


 そんなことを言いながら、咥えてきた饅頭をずい、とこさめの方に押しやる。正月でばら撒かれたものを運よく手にすることができたのだろう。けれど、饅頭なんて美味なものを持ってくるなんて、まゆりは変だ。狸一郎と仲良く割って食べればいいのに。


 ――わかっている。

 まゆりなりにこさめの様子がおかしいことに気づいて、饅頭を土産に様子を見に来たのだ。けれど、こさめは素直ではない。


「要らないよ。アンタが食べてますます太ればいいじゃないさ」


 まゆりの施しなんて要らない。

 ツン、と顔を背けると、まゆりはぷぅ、と頬を膨らませた。


「何よ何よ、せっかく心配してるのに」

「うるさいよ」


 さらに背中を向ける。まゆりは諦めて帰るかと思ったら、その背中にポツリと言った。


「最近、ヒトの精気も奪ってないじゃない。それで食べなかったら、すっかり弱ってしまうでしょ」


 まゆりはそっとこさめに身を寄せた。背中からまゆりのあたたかさが伝わる。

 そうしてじっと時を過ごした。何も訊ねてこないまゆりに、その熱でほだされてしまったのか、こさめはつぶやいていた。


「会いたいおヒトがいるんだよ」

「え――?」

「ニンゲンなんだけどね、とっても優しい手をしていたんだ」


 坊主だか陰陽師だか、あやかしを祓う力を持っているとは言わなかった。それでもまゆりは唸っていた。


「こさめ、ニンゲンに恋したの?」

「恋、なのかねぇ」


 わからない。でも会いたい。

 すると、まゆりは悲しそうに言った。


「ヒトはすぐに死んじまうから、こさめ、悲しい思いをするかもしれないよ。それでもいいの?」


 こさめは妖狐だ。ヒトの精気を奪えば永い時を生きられる。確実に、ただのヒトであるトシを見送らねばならないだろう。

 それでも、会いたい。もう一度、あの手に触れられたいと願ってしまう。


「よく、わからない」


 言葉を濁してしまったのは、まゆりに莫迦ばかだと言われたくないからかもしれない。

 いつだって、まゆりの前を歩いてきたつもりだった。

 まゆりはそう、と零した。それ以上、何も言わずにそこにいた。




 そうして、じっとしているのもつらくなってきた。

 こさめはどうすればトシに会えるのかを考えた。そうして、ひとつの結論に辿り着く。


 また以前のようにヒトの男の精気を奪い続ければ、そんなこさめを狩りにトシは再びやってくるのではないだろうか。

 その時がこさめの最期になるかもしれない。けれど、それでもトシは悲しそうにしながらも優しくこさめの命を奪うのだろう。

 トシにならばこの命をくれてやってもよいような気になった。


 こさめはその晩、のそりと境内の軒下から抜け出した。そうしてヒトの女の姿になる。まゆりがくれた饅頭は結局食べた。全部食ったら肥えるから半分はアンタが食べな、とまゆりに押しつけながら半分だけ食べた。それでも、饅頭はヒトの精気ほどに活力を与えてはくれない。少し化けただけで疲れもする。

 けれど、澄んだ空気の中でなんとなく星を見上げたこさめに優しい声がかかった。


「こさめ」


 ハッとして振り返ると、そこにはトシがいた。以前と変わらぬ白い狩衣姿である。


「トシ、様」


 声が震えた。そんなこさめにトシはふと微笑む。


「あれから私の言葉を守り、ヒトの精気を奪わずにいたようだな。けれど、そんなにも弱ってしまって――何も絶てと言うたのではない。控えろと言うたのだ」


 こさめはくしゃりと顔を歪めた。

 本当は、トシに触れられてからヒトの手があんなにも心地よいものなのだと驚いた。そうしたら、他の男の手などに触れられたくもなかった。トシの手だけを覚えていたいと思ってしまったのだ。


 ぽろりと涙を流すこさめは、自分の涙に驚いた。涙など、これではまるでヒトのようだ。

 トシは流れるような足取りでこさめのそばに行くと、その涙を拭い取った。そうして、ささやく。


「今日は別れを告げに来たのだ」

「え――」


 行かないでほしいと、そばにいたいとのどまで声が出かかっていた。それでも、そのひと言が言えぬのだ。誰かにすがることに慣れていないこさめは、それをする自分をどうしても受け入れられない。

 けれど、今日はトシの方がこさめの手を引いた。


「おいで」


 と、社の階段をこさめと上る。こさめは繋がる手に至福を感じながら、震える足で続いた。

 トシは堂々と社の戸を開くと、中に落ち着いた。そうして、胡坐をかいて座り込み、こさめの手を強く引いた。よろけたこさめを膝の上で受け止める。そうして、トシはこさめの唇に息を吹き込むようにして口づけた。こさめは、頭がくらりとするほどの強い力を感じた。

 唇を離したトシは、暗がりの中でこさめに顔を近づけたままで微笑む。


「どうだ、少しは楽になっただろう」

「あ――」


 言われる通り、本当に体が軽くなった気がした。トシが精気をこさめに送り込んだというのだろうか。


「トシ様、あなた様は一体何者なのでござんすか?」


 そう、こさめは思わず訊ねてしまった。けれど、すぐに自分の愚かしさに気づいた。

 だからこそ、ギュッとその狩衣の胸元にすがりついて、顔を見ることはできなかった。けれど、勇気を振り絞って想いを伝える。


「いえ、何者であろうとも構やしません。アタシはあなた様にお会いしたかった。お慕いしていると、アタシのような化け狐が申しましたら、おぞましいばかりでしょうか?」


 すると、トシはさすがに驚いたふうだった。


「私をか。面白いヤツだなぁ」


 この反応は少しずれてやしないかと思わなくはない。トシはいつも浮世離れしている。

 けれど、汚らわしい狐がと罵られなかっただけでもこさめは嬉しかった。

 トシの手は、子供をあやすようにこさめの頭を撫でる。


「だから私の言いつけを守っておったのか。よい子だ」


 優しい手。こさめは仕合しあわせだった。この瞬間に、どんな時よりも強い仕合せを感じた。

 けれど――。


「しかし、私はどうしても去らねばならぬのだよ。すまないね」


 ズキリ、と胸が疼く。その痛みに、夢からうつつに引き戻される。

 衣を強くつかんだこさめの手に、トシの大きな手が被さる。こさめは潤んだ目でトシを見上げた。


「可愛いこさめ。またお前に会いに来るよ」


 そう言って、トシはこさめを包み込むように抱き締めた。


「せめて一年ひととせ、お前がヒトを喰わずとも済むようにもう少し私の力を与えておこう」


 するり、と優しい手が着物を越えてこさめの肌に馴染むように這う。その手は、まるでこさめの体を知り尽くしているかのようにさえ感じられた。ヒトの男とどれだけ体を重ねても、こさめはいつも我を忘れることはなかった。ヒトの男の欲情を冷めた心で受け止めていた。

 それが、相手が愛しいヒトであるだけでこうも違うものなのかと――。


 このひと時に、今までの愚行も穢れも清められたかのように神聖な気持ちになった。トシの肌はあまり熱を持っていなかったというのに、こさめには溢れんばかりの力が注がれたようだった。

 急速な力は受け入れるこさめの体にも少々の負荷がかかった。ぐったりと床に倒れ込んでいると、いつの間にやら乱れなく狩衣を着込んでいるトシがこさめのそばにひざをついてこさめの髪を撫でた。


「ではな、達者で過ごせよ。またな」


 そうして、トシは社を後にした。

 充実と寂寥。相反する二つのものを胸に、こさめは涙を流した。




 その翌朝。


「あら、今日はやけに元気そうねぇ」


 と、まゆりが神社にやってきた。よく見ると、狸一郎までいる。

 こさめはフフンと鼻を鳴らした。


「調子がいいのは事実だけれどね。アタシ、これからはニンゲンなんて化かさないよ」


 え、とまゆりは意外そうにつぶやいた。


「そうなの? まあいいんだけど、それって前に言っていた愛しいヒトのせいなの?」


 狸一郎は耳をぴくぴくと動かした。口の軽いまゆりをこさめはキッと睨みつける。けれど、胸には確かなものがある。こさめは誇らしげに言うのだった。


「まあね。想いは遂げたよ。別れは来たけれど、またお会いできるから――」


 まゆりは小首をかしげていた。けれど、こさめが満足げにしているからいいのだと思ったようだ。

 狸一郎はというと、鼻をふんふんと動かし、そうして何かを覚った様子だった。


「ああ、なるほど。そうか、ではまたお会いできるはずだ。来年の年初めにな」


 さっぱりわけのわからないまゆりと、訊くに訊けないこさめに、狸一郎は笑うばかりであった。



     卍



 おや? これじゃあ謎が残っているって?

 そうですねぇ、語らずに終わらせますと怒られちまいそうなので、仕方ございませんねぇ。

 よござんす。皆様にはこっそりお教え致しましょう。


 誰がトシ様にこさめのことをお伝えしたのか。

 トシ様はどこのどなたなのか。


 その前に、トシ様の本当のお名前をお教えした方が手っ取り早いかもしれませんねぇ。

 お歳徳とんどさん、正月様、なんて呼ばれ方も致しますけれどね、大年神様と仰いましてね、お正月にお見えになる神様のことでございますよ。だから、お正月を過ぎたから去っちまったんです。

 けれどね、次のお正月にはまたおいでくださいますよ。それこそ、こさめの命が尽きるまで。


 そのトシ様にこさめのことをお願いされましたのはね、トシ様の妹神様であらせられるんですよ。

 なんですか、その妹神様とこさめの関係ですか?


 フフ、遠い昔のお話によりますとね、彼の有名な須佐之男すさのお様と神大市比売かむおおいちひめ様との間にお生まれになったのが大年神様で、もうおひと方が宇迦之御魂うかのみたまのかみ様というわけなんですよぅ。

 宇迦之御魂神様をお祀りするお社は、こんな名前で親しまれておりますよ。


 『お稲荷さん』と。

Special thanks my friends!

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