どうしても生きなきゃ駄目ですか? 別離
筆者である僕は東北地方のとある小さくとも大きくともない市で生まれた。父親と母親、そして僕。兄弟はいない三人家族だ。僕が中学生の当時父親は四十代の会社員、母親は四十代の美容師だ。
幼少時の記憶ははっきり言って思い出すものはない。良いも悪いも頭に残っていないのだ。
しいて言えば三歳の時。おたふくに罹り、高熱にうなされ入院をした事。その際の病院食を母親と一緒に食べた事。本当にその程度にしかない。
三つ子の魂百まで。こんな言葉があるが僕の性格や人格の形成というのは中学で出来上がったと思っている。先にも書いたKやY、もちろん他の友人達にも支えられて成長してきたと思っている。
ここまではまがりなりにも「普通の思春期」だろう。
どこにでもある普通のお話である。
中学を卒業した僕が進んだのは県内のとある高校。住んでいる地元から町一つ離れた高校だ。
はっきりと書こう。僕は頭が悪い。自分で自分を擁護するのであれば「勉強が出来ない」
特に数学がまるっきりだめだった。
田舎らしく、公立>私立の図式が成り立っていた。当然、僕は所謂「馬鹿校」への進学が濃厚だった。もちろん、中学校の先生方もそう考えていたのだろう。
しかし当時の僕はただ漠然とした考えで「サッカーがしたい」という考えだけで県内有数のサッカーの強豪公立校への進学を目指すことにした。
幸いにもその高校は敷居が低く設定されており、学力よりもスポーツの名門校として成り立っているようなもので僕のような考えの生徒の為の高校。
人並みに受験勉強をし、母親からは「私立に行かせられる程うちに余裕はない。公立が駄目なら働け」と言われ、大嫌いな勉強に励む日々。
受験した公立校の学科はその高校でも唯一進学を視野に入れてる学科だったので多少倍率は他の学科より高かったがなんとか合格できた。
おそらく面接の時に「サッカーを全力で頑張りたいです」の一言があったからこそだと今でも思っているが。
進学した高校は僕と同じ中学校の出身はは誰もいなく。それでも小学校からサッカーをしていて、まぐれだろうが選抜も経験した事で見知った顔は何人かいた。
そして滞りなく入学し、口約通りサッカー部に入部。
強豪校らしく練習は辛く、見知った先輩も一人もいない。中学時代、きつい練習は一つもない。ぬるま湯に漬かった僕にはとても厳しいもの。
それでも日々上手くなっている事、仲間達との絆を深め、一緒に汗を掻いた日々を過ごしていく内に「厳しい」ものが「楽しい」ものに変わっていく実感が確かにあった。
そして高校生活最初の冬を迎えようとしていた時期。
部活を終え、いつも通り駅から自転車で家に帰った日のこと。
「ただいま」と僕が普段と変わらない声のトーン発する。
いつもは「おかえり」と両親が迎え、夕飯の準備をしていたはず。
だがその日は違った。昔から僕は危険察知というのがあるらしく、場の空気や危険信号を感知しやすい。その僕の危険察知能力が悟った。
「何かがおかしい」
今までもこのような状態は何度もあった。
僕は中学から携帯電話を持たせてもらい、その料金の事で怒っている時。
しかし殆どは父親と母親の喧嘩だった。
僕の両親の夫婦仲はお世辞にも良いとは言えない。かなりの頻度で言い争い、時には掴み合いをしていた。
それでも母親はとても優しく、父親も普段は短気だが優しい場面もある。
僕が小学生の頃、父親が仕事で膝を壊して会社を辞めて失業中だった頃、学校が休みの日は僕と二人で色々な場所に連れて行ってもらった記憶がある。母親は仕事柄、土日の休みが取れなかった為に父親と出掛けていた。
端から見れば厳しく、時には優しい父親。
話を戻そう。
部活が終わって家に帰る時間は大体二十時頃。その日もいつもと変わらない一日の流れ。
違うのは家の空気。父親は普段と変わらず定位置に座りテレビを見ている。母親は台所にいるが何もせず唯立っている。
「飯は?」
特に気付いたそぶりを見せずに僕が言った。
正直、予想はつく。
「父さん達、離婚する事になったから」
父親が口を開いた。
「おまえは母さんと暮らしなさい」
続けて父親が放った一言が少し冷たく感じて、そして心の中ではやはりと思っている自分。
「ふーん。わかった。」
僕は理由も聞かず、とりあえず夕食をテーブルに運んだ。
いつも通りに、変わらぬ一日を終えるように。
食卓に明るさはない。当然のように夕食も上手く喉を通らない。それは両親もそうかもしれない。そしてこれが家族三人、最後の夕食になるという事が当時はよくわからなかった。
そして夕食を終え、風呂に入って逃げるように二階の自室に篭った。
頭を整理していたのだろう。両親はお互い話し合って決めた事。子供の僕が今更どうこう言ってもしょうがない。今朝までは父親も母親も普通だった。それが悔しくて。苦しくて堪らなかった。
もう家族で笑い合えない。それを考えると今回の件は本当にショックだった。
そしてこの件は僕に重大な事実を突きつけるのだが、それはもう少し先の話。
時間というのは当たり前だが止まってくれない。一体いつ寝たのだろうか、いつも通り携帯のアラームで目が覚める。
「おはよう」
変わらぬ朝。一階のリビングでは父親は仕事の準備をして、母親は僕の朝食を作っている。
いつも通りだ。何も変わっていない。生活の習慣はそう簡単に崩れない。
父親が車のエンジンスターターのボタンを押す。いつもの時間。流れ作業のような我が家の一日の始まり。
それでも今日は、会話はない。
朝食を終えた父親が先に出発をする。一つ離れた町の会社に向かうため、一番最初に家を出る。
「行って来る」
「いってらっしゃい」
毎日の当たり前のやり取りを僕は父親とした。
違うのは母親からの「いってらっしゃい」がなかったこと。
母親はたまに言わない事もあったが、この日は違う。意図的な無視。
その瞬間、僕は父親と母親が「他人」なった事をようやく理解した。
この日から、僕の日常は変わってしまった。単純に父親がいない母子家庭になっただけでなく、心の底から寂しく感じてきたのだ。
時間が解決してくれる訳でもなく、離婚の直接的な原因を聞かされず一週間が過ぎた頃、母親が僕にこう言った。
「この家を出て、しばらくお婆ちゃんの家に住むから、荷物まとめておいてね」
わかったと小さく頷いた。父親がいなくなる理由を僕はまだ聞かされていない。僕は聞くのが怖かったのだ。
「この家は父さんだけが住むの?」
ふとした疑問を母親に問いかけた。
「父さんも出て行くわよ」
「そっか」と頷いた。
高校生になり、十六歳になった僕の心は僅かながらに大人に近づいていたのかもしれない。
「俺、学校やめて働くよ」
当然、母親の猛反対。当たり前の反応があった。
「何言ってるの?」
母親の父親、僕の祖父は「高校だけは絶対に出させろ」が口癖だったらしく、母方の親戚一同、中卒はいない。
そんな中で僕が高校をやめるというのはありえない事だろう。
その時は、母親を楽させたい。その言葉を一心に投げかけた。
一日で説得できる訳はない。根気よく言い続けた。
僕は正直、チャンスだと思っていた。