とある病室でのこと。
「久しぶり。来てくれたんだ?」
病室に入ると、ベッドに腰掛けている黒髪の綺麗な女が鳶色の瞳で目を向けて、俺に話しかける。
風が好きな彼女は相変わらず窓を開けているらしく、その髪は少したなびいていた。
「来るに決まってんだろアホ」
ぶっきら棒に返したが、
彼女は気にすることもなく小さく笑みをこぼした。
「ははっ、ごめんごめん。
でも、お仕事忙しそうだったからさ」
そう言われると思わず黙り込んだ。
俺が働いているのは、
目の前にいる女 風月夜夏の父が経営している大手企業。
彼女とは仕事で知り合った。
仕事が忙しいのはいつものこと。
それは俺が比較的上にいる人間だからであり、やることが色々とあったりするから。
そして彼女が拡張型心筋症という病にかかって入院が決まったときも、
俺は仕事場にいて、
電話でそれを耳にした。
「・・・悪い」
「ううん、気にしていないよ。
責めてるように聞こえたならごめんなさい」
こいつは昔からお人好しで、なにかと気がつきやすい性格をしている。
いまだに彼女のことは掴めないところが多くあるが、
それをなんとなく知っているのは、彼女が入院する前までは付き合っていたからだ。
入院が決まったと聞き病院に駆けつけたときも、彼女はへらりと笑い、
「大丈夫だよ。バカだなぁ…仕事はどうしたの?忙しいかったでしょ…無理して来なくてもよかったんだよ?」
と言った。
“仕事は仕事。恋愛は恋愛できちんと分けること”
付き合うときに言われた約束はそれだった。
“あたしは貴方が仕事をしている姿に惚れたんだ。
でも、あたしが入院したあと、
あたしのことばかり気にして、うちの会社で優秀な貴方が仕事に支障をきたしてしまったら、父にも申し訳ないし、貴方にも申し訳ない”
だから別れよう、と告げてきた。
もちろん俺だって嫌ではあったが、
彼女は人に迷惑をかけたり傷つけてしまうのが苦手でもあることを知っていたため、
承諾して頷くしかなかった。
「・・・体調は、どうだ」
「いまは落ち着いている。大丈夫」
「そうか・・・あぁ、いいものを持ってきたから後で確認するといい」
安堵して溜め息をつき、見舞いに持ってきた彼女の好物のクラシックショコラを冷蔵庫に入れてやる。
できるのは、そのくらい。
「エン」
「ん?」
ふいに名前を呼ばれて顔をそちらに向けると、彼女は隣に座るようにベッドを軽く叩いていた。
「・・・なんだ」
隣に腰掛けると、肩に寄りかかられた。
甘い香りがして思わず顔を逸らすと、彼女が控えめに手を重ねてきた。
「・・・あたし、ね。退院したら、付き合う人がいるの」
呟くように言われた言葉。
俺を傷つけると分かっていたが、後で知らせた方がきっともっと傷つけてしまうとでも考えたのだろう。
「・・・それで?」
胸が少し痛んだが、
なるべく優しく声を掛け、手をそっと握って聞いた。
「・・・そのあとだけど、結婚してくれる、って・・・言ってくれました・・・」
段々と声が小さくなっていく彼女。
“別れたあとは、他の人を好きになってもいい。お見舞いだって来れるときだけ来てくれれば嬉しいし、エンはあたしに縛られちゃだめだよ”
そうだ、
俺はあのときそう言われた。
彼女だって他の人を好きになったっていいに決まってる。
そもそも、
付き合っている間でも特別なにか沢山のことをしてやれたわけでもなかったし、
それでもこいつは俺をずっと好いてくれていたが、
元からこうなってもおかしくなかったはずだ。
そう自分に言い聞かせて、続けて訊ねる。
「相手は?」
「院内の先生。
あっ、担当の先生じゃないけどね」
「・・・そうか」
だろうな、と思っていると。
「えいっ」
「っ・・・おい、なんだよ」
彼女に頭をわしゃわしゃと撫でられた。
「淋しそうな顔してたから、つい」
「してねえよバカ」
「はいはい」
見透かされていつものようにくすくすと笑われる。
それが・・・否、それ以外もだが、なんとなく癪で、
彼女に視線を向けて。
「・・・夜夏」
「ん、なに?」
名前を呼び、彼女が笑顔で首を傾げると顔を近付け、
「ん・・・っ」
そっと唇に口付けた。
「・・・幸せになれよ」
口を離し、したり顔で言ってやると、
彼女はきょとんとしたあと段々と頬が赤くなっていき、
「ははっ、相変わらずエンは狡いなぁー・・・」
いつものように笑った。
あぁ、よかった。俺が好きな表情だ。
思わず口元が緩む。
「好きだったぜ」
真剣な眼差しでそう告げたが、
今度は頬が赤くなることはなく
「・・・ぷっ、く・・・っはは、あははっ!やだ、おなかいたい!!」
何故か腹を抱えて笑われた。
「・・・なにが可笑しいんだよ」
「ごめんって。
いまさらクサい台詞だなー。と、思ってさ」
・・・悔しいが、確かにその通りだと思った。
「悪かったな」
「そんな怖い顔しないでよ。男前が台無しだよ?」
「誰のせいだよ!」
「あたしだね」
「わかってんじゃねえかよ・・・」
「ははっ」
またくすくすと笑う彼女に呆れて腕時計に目をやると、いつの間にかそろそろ仕事に戻らなければいけない時間になっていた。
「あっ、お仕事?」
「・・・おう」
「そっか、行ってらっしゃい。
お仕事頑張ってね」
「ん・・・行ってくる」
彼女に手を振られたので、ベッドから立ち上がり、
背を向けて手を振り返す。
「あっ、エン」
「んだよ、まだなんかあるのか」
病室を出ようとしていると呼び止められたので振り返ると、
「あたしも好きだったよ」
綺麗な笑顔で、彼女がそう言った。
「・・・そうかよ。じゃあまたな」
思わず顔が赤くなっていくのを感じ、再び背を向けて逃げるように病室を出た。
「っ・・・はぁ・・・、相変わらず狡いのは、そっちだっつーの・・・」