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戦雲の中へ  作者: 播磨守
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二の章(自分を知る)

新たな世界で目覚めてから数日、俺の中に本来の人物の記憶が甦ってきた。


木曽義昌。

それが今の俺の名前らしい。

信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。左馬頭・伊予守

正室は武田信玄の娘真理姫(眞龍院)。


木曽家は、1555年(弘治元年)武田家に攻められ降伏。

源義仲の嫡流と伝わる名族であり、美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、信玄は義昌に真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。

実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、甲斐への属国化を余儀なくされた。

木曽は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化された。


というのが歴史オタであった俺の木曽家と義昌に関する知識。

ま、この木曽家のプロフィールは創作したもので元々は藤原家の一族と称していたようだ。

それが領地を拡大し、木曾谷一体を領有するにあたりその地で有名であった源義仲(木曽義仲)の子孫を自称するようになったと言われている。


また現在は1574年(天正2)である事も判明した。

今後、木曽家にとっては激動の時代となる直前だ。

簡単に流れを書くと

1573年(天正1)武田信玄没。後を勝頼が次ぐ。

1575年(天正3)長篠の戦い。織田&徳川連合軍に敗れ,以後武田家は衰退。

1582年(天正10)木曽家が織田家に寝返る⇒甲州征伐で武田家滅亡。

となってゆく。


史実どおりに動くか、別の道をゆくか・・・・考えねばならない。

史実どおりだと武田家を裏切った際に、義昌の母、嫡男、長女は処刑されている。

現代人の俺としては家族は守りたい。それが仮初のものであったとしてもだ。

それに史実どおりだと木曽家の未来は明るくない。

木曾谷を取り上げられて下総阿知戸へ領地替え。しかもたったの1万石。

義昌はそこで死に、子の義利が継ぐがお家騒動で1600年(慶長5)に改易される。

その後、木曽家は消滅。子孫も伝わっていない。

裏切ったわりに最悪の結末なのだ こんな未来は認めんよ、俺は。


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