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白色の旋律

作者: 茶々

短編にしては少々長めですが、どうかお付き合いくださいますよう…。

僕の心の支えだった。

君はわかっていなかっただろうけど。


とても些細なこと。

でも

僕にとってはとてもあたたかいこと。



風に乗って届くのはピアノの調べ。

天板を開いて、窓を開けて、音の主は明らかに音を漏らすことを目的としている。

そしてその音にあわせて踊るかのように、桜の花が揺らめいている。


軽快なリズムで繰り出されるメロディーは、おなじみの『ねこふんじゃった』

子猫が飛んだり跳ねたりするように、音が弾けては流れる。


大きな家だった。

門から家屋までちょっとした散歩ほどの距離がある。

大きな犬が余裕を持って飼えるほどの庭。

夏に涼むのにもってこいの木陰を作る、多くの庭木。

そして、どっしりと構える大きな白い洋館。


一瞬日本であることを忘れてしまうような、そんな出で立ち。


立ち並ぶ窓のひとつから、時々休憩を挟みながら絶え間なく『ねこふんじゃった』が聞こえてくる。


「へったくそ!」


突然、笑い声とともにそんな声が掛けられた。

『ねこふんじゃった』が止まり、ピアノの前にいた人間が顔を上げる。


ほんの十くらいの少年。

さらさらと流れる栗色の髪の下で、少年はわずかに眉をひそめた。

視線の先には大きな窓。


その外にはバルコニー。

その上に一人の少女が立って、窓に両手をつけていた。

年の頃は少年とほとんど変わらないように思える。


くせの強い黒髪を高い位置で両サイドにくくり、歯を見せてにっこり笑っていた。


「…またか。」


少年は小さく呟いて、椅子から腰を上げた。

そのまま窓に近づいて鍵を開ける。


「ありがと、廉!」


少女が嬉々として部屋に入ってくる。

ちなみにそこは建物の二階。

隣り合うバルコニーからは2m弱離れている。

窓のそばには寄り添うように桜の木がそびえており、彼女はそれをよじ登ってきたのだ。


何度もやっていることのようで、少年も別段動じることもなくあきれた表情を浮かべた。


「あのな…沙奈…。何度も言ってるけど、中から普通に階段使って来いよ。落ちたら危ないだろ?」


けれど少女のほうはそんな言葉を気にすることなく、あっけらかんと切り返す。


「何度も落ちてるもん。」


その言葉通り、丈の短いズボンから伸びた足、そして腕には傷跡が残る。

中にはかなり新しいものもある。

おそらく今日のついたものなのだろう。


「…。」


完全にあきれたという表情で、少年は言葉を失った。


そんな少年を尻目に少女はすたすたとピアノのほうに歩いていく。

天板が開け放たれた白色のグランドピアノ。

普通の民家であれば大抵浮いてしまうであろうその存在が、この家においては何の違和感もなくぴったりと収まっている。


少女は先程まで少年が座っていた椅子に腰を下ろした。


「弾いて、いい?」


「いいも何も…。お前思いっ切り弾く気じゃねぇか…。」


わずかに眉を寄せながら少年が答える。

その返事を聞くなり少女はいたずらっぽく笑い、鍵盤の上に両手を置いた。


2・3回ランダムに鍵盤をたたいた後、なじみの旋律が流れ始める。


夜想曲ノクターン第2番』


教科書通りとは程遠い、拙すぎる腕前だ。

曲の難易度を差し引いても、先程の少年よりはやや下というほど。

それでも、その目は真剣そのもので必死な様子が伝わってくる。

何度も指をもつれさせながら、それでもかたくなに鍵盤をたたいていく。



「あはは…。やっぱ難しいねぇ…。」


弾き終わった少女は照れたような笑みを浮かべて、少年に向き直った。


「じゃあ弾くなよ…。」


「だってピアノ弾くのはすきだもん。」


心外だ、という表情で少女が平然と言ってのける。

そうだったな…と口の中だけで言って少年はピアノに近づいていった。


「…お前、半分弾けよ?」


「…難しいのは、無理だよ?」


おずおずと、先程とは打って変わった表情を浮かべ、少女が上目遣いで言う。


「分かってるよ。おれがさっき弾いてたヤツな?」


「『ねこふんじゃった』?」


「そう。」


小さな子供二人なら、ひとつの椅子に何とか座れる。

少女の横に、軽く押しのけるようにして少年が座る。


「おれが主旋律やるから…。」


「じゃあ私は楽な方だ!」


「…楽とか言うなよ…。」


少年がぼそりとつぶやいて鍵盤に手を置いた。

やはりメロディー自体は拙い。

それでも途絶えることなく続いていく。

先程の独奏に、同じピアノでのもう一人の演奏が加わった連弾。

選曲のレベルは低いものの、鍵盤を叩く二人の表情は明るく、楽しそうに見える。


まさに猫が踊りだしそうなアップテンポな旋律。

実際の歌詞は置いておいて…。


時々


「ちゃんとやってよ。」


とか


「お前がな!」


とかいう小さないざこざを含みつつ、何度も何度も繰り返していく。

秋の色に染まり始めた大きな庭に、『ねこふんじゃった』が軽快に響いていた。




「…つまんねぇ…。」


一人の青年が、書物が乱雑に詰まれた机にうつぶせに倒れた。

その勢いでかけていた眼鏡がずれて、視界がゆがむ。

はずすのも、かけなおすのも面倒くさく、彼はそのまま目を閉じた。


川橋廉。


それが彼の名前だった。

彼の住む家は、どう見ても小さいとはいいがたい。

日本離れしたその景観に、近所の人々は『川橋のお屋敷』と呼ぶ。

彼にしてみれば、単に祖父の趣味にほかならないのだが。

彼の祖父が一目で気に入り、全財産の半分をはたいて購入したのだ。

まあ要するに彼の家は金持ちなわけで。


その後、何度かの修理を経て現在に至る。


彼の年は18。

世間で言うところの受験生というやつだ。


成績は悪いほうではなかったが、体裁というものがある。

彼はつい今まで勉学に励んでいたのだ。


そして漏れた言葉が『つまんねぇ』


無理もないことだが。


「…。」


彼はおもむろに目を開け、体を起こした。

眼鏡をはずして、机の端に置く。

そのまま立ち上がって、部屋の隅に歩いていく。


「うわ、ホコリまみれ…。」


軽く眉を寄せて、目の前のものを見た。

白くて大きなグランドピアノ。

小さいときにはそれでも弾いたりはしていたが、最近ではめっきりお留守になっている。

ピアノ自体はホコリをかぶっているものの、椅子のほうは踏み台がわりに使われていたこともあってか、それほどひどくはない。

ゆっくりと椅子を引いて、そこに腰掛ける。


鍵盤のふたを開けてみた。

まるで変わらぬ、白と黒の板が並んでいる。


特に何を弾くというわけでもないが人差し指で、ひとつ鍵盤を押してみた。


長い間、弾くどころか調律もされていない。

音に違和感を持ちつつも、二つ三つ鍵盤を叩いてみる。


「弾かないんですか?」


窓の外からの声。


何だろう。

何故かひどく懐かしい…。


「…沙奈っ!」


懐かしさの正体に気づいた時には、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、バルコニーに続く窓へと突撃していた。


「お久しぶりです。」


そこには、髪の短い少女が微笑んで立っていた。

建物の二階であり、隣り合うバルコニーから2m弱離れているはずのその場所に。


「…沙奈、また登ってきたのか?」


「もちろんですよ。」


何をいまさら、と即答する。


「…ていうか、お前…何でここにいるんだよ?」


彼女の名は荒木沙奈。

彼女は住み込みの庭師の孫娘であり、5年前まではここに住んでいた。


だがその祖父が亡くなり、彼女は遠い親戚に引き取られていたはずだ。


それが何故…。


「私、ここで働くんですよ。庭師として。まだおじいちゃんのあと、誰もやってないみたいですし…。」


「…は?」


また、沙奈がここ来る?

庭師として働く。

それは分かったが、何となく彼女の態度に違和感を覚える。


「沙奈、何で敬語?」


「ああ、一応雇い主様ですからね…。けじめつけなさい…って奥様が。」


奥様。

その単語に廉は嫌悪感を覚えずにはいられない。


奥様とは廉の母である。

ただし、継母だが。


彼は5歳のときに母をなくした。

そして12歳の頃、継母が家にやってきた。


元はといえば、沙奈が川橋家を出て親戚に預けられることになったのは継母のせいだったのだ。

廉の父親は、沙奈の祖父をとてもよく扱っていたし、世話になったのだからと引き続き沙奈の面倒をみようとした。

しかし、そこで継母が口を出し、最終的には一方的に責められる廉の父親を見るに耐えなくなった沙奈が、自分で親戚の元へ行くと言い出したのだ。


「…そんな顔しないでください。いいじゃないですか…私はまた、ここにいられるんですから…。」


どうやら考えていることが顔に出ていたようだ。

沙奈が苦笑いを浮かべている。


「…そうだけど。」


いまいち煮え切らない表情の廉に、沙奈がもう一言付け加える。


「奥様が『働かない者はおけない』っておっしゃったから、手に職をつけたまでです。」


「…強いな、お前。」


目の前で強気に微笑む少女を、困ったような笑顔で見つめた。


「そうですか?…あ、ピアノ弾かないんですか?」


彼の体をひょいと避け、後ろにあるピアノに視線を飛ばす。


「あー…もうだいぶ弾いてないからな…。お前こそ弾かないのか?」


体を手前に引いて、部屋の中が見えるようにしてやった。


「…ちょっと無理ですねぇ…。」


そう言って、彼女は右手を体の前に持ってくる。

手の甲を上に、まるで『お手』をするかのような手の形だ。


「お前…これっ!」


その手は文字通り傷だらけだった。

明らかに刃物で切ったような跡もあれば、何か鋭いもので引っ掛けたような傷もある。

そのまま開いたり閉じたりしてみるも、その動きには滑らかさが足りないような気がする。


「ちょっとおじいちゃんの血が薄かったみたいで…修行中にいろいろと。仕事とか日常生活には支障ないんですけど…。ピアノはちょっと…。」


確かに…と思わざるを得ない。

あまりにぼろぼろのその手を見てしまったら…。


「…痛いか?」


そう訊ねる廉の表情のほうが、よほど痛そうだった。

けれど、そんなことは口に出さず、沙奈は静かに微笑んで首を横に振った。


「いいえ。もう治りましたから!それにもう怪我はしないと思いますから、大丈夫ですよ!」


「『思います』じゃなくて気をつけろよ…。」


「…はい。」


苦い表情の廉に、沙奈は困ったような顔で笑った。






「廉さま!!」


窓の外から聞こえた声に、廉が眉を寄せながら顔を上げる。

そしておもむろに立ち上がり、窓に向かった。


「沙奈っ!『さま』つけて呼ぶなって言ってるだろ!!」


バルコニーに出て下を見る。

今日は登ってくるという荒っぽい所業はせずに、おとなしく庭で仕事をしているようだ。


沙奈がこの家にやってきてから、一ヶ月が経とうとしていた。


「…だって、今奥様いるんですもん。」


心なしか声を小さくして、沙奈が言い返す。

薄手のパーカーの上に、彼女の祖父がいつも着ていたはっぴを羽織っていた。


顔には泥。

背中に輝く「荒木」という文字。


はまりすぎて笑ってしまう。


「…で?何か報告あるんじゃないのか?」


手すりの上で頬杖をついて訊いた。


「コスモスの花が咲いたので、時間があるときにでも見てもらえればと思いまして…。」


そういえばそんな時期かと、ぼんやりと考える。

風はだいぶ冷たくなったし、沙奈が世話をする庭木たちもほんのりと色づき始めている。


自分はたいてい家の中にいるからいいようなものの、沙奈はそこそこ寒いのではないか。


着ているパーカーは決して厚くはないし、その上のはっぴも申し訳程度。


「わかった。今から行くよ。」


「えっ?今じゃなくいいんですよ?!…ていうか、勉強…。」


窓の外であわてる沙奈を尻目に、廉はさっさと身を翻した。

部屋の隅に掛けてあった上着をつかみ、ドアを押し開ける。


「うげっ…。」


口の中だけでつぶやいた。

それが聞こえていないことを祈りながら、顔を伏せて歩みを進める。


「廉さん。」


細心の注意を払ったのにもかかわらず、あっさりと声を掛けられてしまった。


「何ですか?お継母さん…。」


努めて明るい表情で返事をする。

穏便に穏便に…。

下手な争いごとはあとあと面倒なことになる。


「お勉強のほうは進んでいるのですか?」


やっぱり来やがったかと、内心で悪態をついてから笑顔でうなずいた。


「ええ、まあ。それなりには…。」


「それはよかったわ。それはそうと…あの庭師の娘には近づかないようにしなさいな。」


それが本当に言いたいことか…。

頭の中で怒りが燃え上がっていくのを感じつつ、何とか声を抑える。


「…おっしゃっている意味が分かりませんが…。」


「庭師がいないのをいいことに、のこのこやって来て…忌々しい娘!」


この女は自分がどれだけ忌々しいか分かってはいないのだろうか。

このままでは不愉快な沙奈の悪口が続くと判断した廉は、話を強制的に終わらせてその場を後にした。


「お継母さん。僕、気分転換に散歩に行ってきます。」


継母の返事も聞かず、さくさくと歩いていく。

仮に声を掛けられたとしても、振り向く気など皆無だったが。


「…まあいいわ…どうせもう永くはないのだから…。」


彼が去ったあと、継母は唇の端をいやらしく持ち上げ声を殺して笑った。





「…?」


学校からの帰り道、鼓膜をたたいた小さな音に廉は足を止めた。

かすかに届くピアノの音。

少し外れた音程が風に運ばれてくる。

耳を済ませて音の源をたどってみると、それは自分の家。


ひとつの確信が廉の背中を押した。



「沙奈っ!」


いつもは言わない『ただいま』の言葉を玄関に残し、廉は階段を駆け上がってドアを開けた。

同時にピアノの音がぴたりと止む。


「廉…は、早かった…ですね…。」


焦りのせいなのかわざとなのか、沙奈は「さま」付けを忘れ、ぎこちない敬語で言った。


「ああ…。今日はたまたまな…。」


答えながら、廉はピアノに近づいていく。

天板も窓も締め切って、音を漏らさないようにいう工夫が見て取れる。

結果的には無駄だったのだが。


「お前、弾けないんじゃなかったのか?」


天板に手をかけながら、いたずらっぽく微笑む。

それに答える沙奈は、きまり悪そうに苦笑い。


「思うように手が動かないってだけです。弾くだけなら何とかなりますよ…。」


そう言う沙奈の顔を見ながら、廉はひとつの疑問を感じた。


「お前さ、何でわざわざ戻ってきたんだ?子供だったとはいえ、俺の継母に良く思われてないってことくらい分かってただろ?」


「…廉が、退屈してるんじゃないかと思って。」


不意に飛び出した沙奈の口調に、廉の反応が遅れる。


「…ぇえ?」


「今、奥様いないから特別ね?」


にっこり笑って、唇に人差し指をつける。


「私がここにいる理由なんてたいしたことないよ。一言で言えば…ここにいたいとおもったから。おじいちゃんの木があって、思い出いっぱいで…。それで廉がいる。」


「…沙奈っ…。」


「ん?」


名前を呼ばれて首をかしげた沙奈だったが、次の瞬間彼女の目は驚愕に見開かれることになる。


「な何っ…廉どうしたのっ?」


廉に抱きしめられたまま、沙奈が不安げな声をあげた。


「ごめん…。守ってやれなくて。」


呟くような掠れた声。

沙奈には訳が分からない。

廉が何に対して謝っているのか。

必死で頭を回転させ、その理由を探す。

そしてはたと思い至った。


「もしかして…前に私が出てった時のこと?」


廉は無言を返す。

それを肯定の意味と取り、沙奈はやさしく言葉を続けた。


「廉が謝ることじゃないよ。私が望んで出てったの…。それに戻ってきたんだからいいじゃない?」


慰めるかのようにその背中をぽんぽんと叩く。

そろそろと体を離して、廉がじっと沙奈の顔を見つめた。


「ね?」


屈託なく笑う沙奈に、ぎこちなく笑みを返す。


「ついでにもう一ついいか?」


その笑みを浮かべたまま、問いかける。


「…何?変なこと頼むんじゃないでしょうね?」


そんな沙奈に苦笑いを返しつつ、首を横に振る。


「もう一回抱きしめていい?」


「は?」


先程はそれなりに理由があったから落ち着いていられた。

けれど、今度は?

何を言い出すのかと、頬を染めながら彼を見返す。

相変わらず苦笑いを浮かべたままの廉。

…読めない。


「…いいよ。」


別に減るものでもないし。

そう思い、沙奈は首を縦に振った。


ふわりと暖かさが体を包む。

廉が何を思うのかは分からないが、何だか居心地がいい。

ゆっくりと背中に手を回して、目を閉じた。


「俺、沙奈がすきだ。」


確かに聞こえた声。

心なしか震えているような気がする。


ああ、なんだ。

そういうことか…。


「私も廉がすきだよ。今更なに言ってるの?さっき言わなかったけど、私が戻ってきた理由もう一つあるんだよ。」


「え…?」


「廉がすきだから…逢いたかったからに決まってるでしょ!」


廉の背中に回した腕に、少しだけ力を入れて抱きしめ返す。


「よかった…。」


心底ほっとしたような声が沙奈の耳に届く。

何だか力が抜けているような気さえする。


両手で押して、廉を引き離す。

情けないような、笑っているようなそんな表情が沙奈の目に映った。


「何その顔…。」


「…。」


気まずそうに顔をゆがめる廉。


「そんな顔してると…襲っちゃうよ!」


座っていた椅子からぴょこんと立ち上がり、ずいと廉に顔を近づける。


「ぅえっ?」


突然のことに動揺する廉を尻目に、沙奈はいたずらっぽく微笑んでその頬に軽く唇で触れた。


「ではここで失礼いたします!奥様が戻られたようなので!」


そのままの体勢のまま固まっている廉を放置し、沙奈はさくっと仕事モードに切り替える。

言われてみれば階下から人の気配がしている。

車の音もしていたような…。


「ごきげんよう。廉さま。」


最後にそういい残し、沙奈はさっさと出て行ってしまった。


「だから『さま』は嫌だって言ってるだろ…。」


一人呟く抗議の言葉は、むなしく部屋に響くのみ。

小さくため息をついて、彼はピアノの椅子に腰掛けた。





「…危なかった…。」


沙奈は屋敷を飛び出すなり、大きく茂った低い庭木の陰に座り込んだ。

左胸に手を当て、きつく握る。


奥歯をかみ締め、ゆがんだ顔には脂汗がにじんでいた。

息も尋常ではないほどにあがり、もう片方の手を地面について体を支えている状態だ。


這うように動いて木に背中を預け、自由になった右手をポケットに突っ込む。

そして、そこから取り出したのは小瓶に入った白い錠剤。


震える手でそれを口に運び、沙奈はほっとしたように頭を垂れた。


「はぁ…。情けない。」


息も落ち着き、脂汗も引き始めていた。

そう呟いて空を仰ぐ。


屋敷の中からピアノの音が聞こえ始めた。

弾いているのは廉。


たぶんクラシック。

聞いたことはあるけれど、曲目までは思い出せない。


決してずば抜けて上手ではないけれど、沙奈は廉の弾くピアノがすきだった。

あったかくて、安心する。

まるでさっきの抱擁のような、そんな音色。


沙奈は穏やかな表情で目を閉じた。


「ごめん…、じいちゃん。私、まだいけないよ…。」





「沙奈…?」


年の瀬も近い冬の日。

塾帰りの廉は庭のとある光景に足を止めた。


枯れたように葉を落とした一本の木。

その前に大きな脚立が立てられ、そのてっぺんに沙奈がぽつんと座っている。


どこかで買ってきたのだろう。

その手にはココアの缶が握られている。


彼女は何をするでもなく、ただ目の前に立つ木を眺めていた。


脚立の下に熊手が転がっているところを見ると、落ち葉を集めていたようだが。


「沙奈?なにやってんだ?」


そのまま足を向け、脚立を見上げながら問いかける。


「そうですね…お花見、ですかね…。」


それを聞いて廉は首をかしげるほかない。

見る限り、どこにも花など見えないし、この木が生きているのかも分からない。


「これ、桜の木なんですよ。」


その疑問を察して沙奈が教える。

言われてみれば、春にはこの場所に桜が咲く。

冬にはほとんど意識することがないけれど。


「へぇ…。」


素直に感心して、木肌に触れてみる。

微妙な弾力が彼の手を押し返してきた。


「ちゃんと生きてるんだな…。」


「なに言ってるんですか…。」


気がつけば、脚立から降りてきた沙奈があきれた表情で隣にいた。

空き缶を足元に置き、代わりに熊手を手に取る。

どうやら作業を再開するらしい。


「来年の春にはまた綺麗に咲きますよ。」


そう言いながら一本の枝に手を触れた。


「ほら芽が出来てる…。」


なるほど少し見ただけでは分からないが、確かに茶色くとがった芽が見て取れる。


「ホントだ…。」


自然に顔がほころぶ。

この寒い中でもちゃんと生きているのだと改めて実感する。


「沙奈!木ってすごいな!!」


上気した顔で隣の少女を振り返る。


しかし、次の瞬間廉の動きが凍りついた。


「…さ、な?」


先程まで普通に会話していたはずだ。

けれど今は。

芝生に両膝と右手を突き、左胸をきつく掴んで苦しみに顔を歪めている。


額からは汗が噴き出し、顔色は蒼白。

口から漏れる息は全力疾走した後のように荒い。


分かるのは沙奈の体に異変が起こっているということ。


「沙奈?!」


動きを取り戻すや否や、廉は沙奈のそばに膝をついた。

荒い息遣いがすぐそばで聞こえる。


「大…丈夫…。」


明らかに大丈夫ではない様子で、沙奈が言った。


「バカ言うな!どこが大丈夫なんだよ!!救急車っ!」


コートのポケットから携帯電話を取り出そうとした廉の手を、沙奈の手が力なく握って制止する。


「くすり…飲めば、おさまるから…。」





沙奈の言葉どおり、薬を飲み下してしばらく経つと彼女の容態は安定していった。

それでも顔色は優れず、あまり元気そうとはいえなかったが。


そして廉は初めて気がついた。

沙奈の体が痩せていて、とても軽いということに。


自力では立ち上がることすらままならない沙奈を、廉は抱き上げて家の中に運んだ。


力の抜けた人間というのはかなり重いものだ。

けれど、すんなりと沙奈の体は持ち上がった。

とても、軽かった。


「あーあ…ばれちゃった…。」


深刻そのものの表情を浮かべている廉を尻目に、沙奈はいたずらが見つかった子供のような調子で言った。


「どういう、ことだ?」


剣呑ささえ感じる廉の声色。

けれど沙奈は相変わらず、どこか余裕めいた表情だった。


「私心臓が悪いんだよ。今みたいに時々発作も起きる。だから薬が手放せない…。」


「いつから?」


「1年位前からかな…。実際に発作が起きるようになったのは…。」


淡々と語る沙奈。

同じように淡々と質問を投げかける表情のない廉。


どこか妙なやり取りが続く。


「継母さんはそのこと知ってるのか?」


「…うん。」


おかしいとは思っていた。

多少不平を言いつつも、沙奈とともにいる自分に口を出してこないということ。

自分で追い出しておいて、すんなりと川崎家の敷居を跨がせたということ。


こういうことか。


医学の知識がない廉にも、心臓の悪い人間が寒い屋外で作業することの危険性は分かる。

おそらく廉が知らないところでも、沙奈は発作の苦しみと戦っていたのだろう。


すべてを知っていて、あの女は沙奈に仕事を続けさせていたのか。


心の中につめたい怒りが湧き上がってくる。

とてつもなく腹が立っているはずなのに、体の芯は冷たいまま。

そんな不思議な感覚が体中を支配していく。


「廉。そんな顔しないで?」


ソファーに座った沙奈が微笑みながら、こちらを見ていた。

相当険しい表情だったのだろう。


「言っとくけど、私はそれでいいって言ったんだよ。」


どこか悟りきったような顔。


とても穏やかであるはずなのに、廉はそれに恐怖を覚えた。

畏怖とかそういう恐ろしさではなく、別の恐怖。


沙奈はそこにいるのに、自分の手が届かないどこかにいるのではないかというそんな感覚。

こうしてそばにいるのに、目の前に座っているのに、触れることが出来ないような孤独感。


「沙奈…治るんだよな?」


ほとんど聞こえないような掠れた声。

今にも泣き出しそうな震えた喉。


沙奈は何も言わなかった。


ただ黙って廉を見つめるだけ。


沈黙が痛かった。

出来ることなら泣き喚いて『嘘だ!』と叫びたかった。


でもそれは出来ないと、心の中のもう一人の自分が訴えていた。

沙奈が笑っているから。

一番苦しいはずの沙奈が苦しいと言わないから。


訊かなければ良かった。

彼女が病院でなく、ここにいるというだけでその答えは分かっていたのだから。


「…。」


廉はすべての言葉を呑み込んだ。

代わりに沙奈の隣に、腰を下ろした。

自分の情けない顔を見せたくなくて、相手の肩口に顔をうずめる。


「廉…ごめんね…。」


耳元でそう風が動いた。

やさしく背中をさする沙奈の手の感触。

何だかとてもあたたかくて切なくて、勝手に涙がこぼれた。





それからあと。

沙奈は俺がいくら言っても仕事を止めようとはしなかった。


気がつけば外に出て、庭木の世話を焼いている。

だから俺はいつも上着を掴んで、外に飛び出していかなければならなかった。


時には受験生なんだから勉強しろと、説教さえ食らうこともあった。

お前が外に出るからだと反論すると、しぶしぶピアノの前に座って大人しくしていた。


ごくたまにピアノも弾いてくれる。

はっきり言って俺よりかなり下手だが。

手の古傷のせいもあるのだろうが、元来不器用な性質らしい。


やたらと真剣に鍵盤に向かうその姿は、何だかとても可愛らしく自然に笑みがこみ上げてきた。


「…廉。何笑ってるの?」


どうやら視線に気づいてしまったようだ。

半眼でこちらに視線を送ってくる。


「勉強するって言うから大人しくしてるのに。」


「休憩だよ。休憩!」


一応ごまかしはしたものの、納得はしてくれていないようだ。

相変わらずの仏頂面。


「…じゃあちょっとこっち来て?」


座ったまま手招きをする。

まあいいか。

確かにそろそろ休憩が必要だ。

かけていた眼鏡を机の上に置き、ピアノの方へと移動した。


「半分弾いて。」


ほんの少し椅子を右側に寄せ、空いた左側を指差す。


「いいけど…。何を…?」


そう訊ねてから気がついた。

沙奈が弾こうとする曲に。


「「ねこふんじゃた」」


自然と声が合った。

顔を見合わせて笑い、鍵盤に指を置く。


幼い頃は同じ椅子に座って弾いていた。

けれどさすがにもう無理だった。

二人とも成長していたし、椅子には自然と沙奈が座る。


いくら鈍感な俺でも、沙奈の体力の低下は明らかだった。

それでも外に出るといって聞かないのだから、こちらとしては困ってしまう。

何だか小さい子供を持った父親のような気分だ。


「沙奈。」


曲が終わり、満足げな沙奈に静かに声をかける。


「ん?」


顔を向けた彼女に、完全な不意打ちで口付ける。


思わず笑ってしまいそうな間抜け面のあと、沙奈は顔を真っ赤にして言った。


「へったくそ!」




沙奈は、桜が花開く前にいってしまった。

寒い寒い、真っ白な雪が降る2月の朝だった。


とくにひどい発作を起こしたのだ。

薬を飲ませたけれどそれはおさまることはなかった。


運ばれた病院で、なくなった。



沙奈は俺の手を力なく握り、最期にこう呟いた。


「私、白い色ってすきだなぁ…。廉のピアノも、雪も、桜の花びらも…。」


何が言いたいのかよく分からない言葉だった。

桜にいたっては白というか、桃色だし。


けれど沙奈は笑っていた。

すきなものを思い出していたからだろうか。


「あいしてる。」


聞こえたかどうかは分からない。

俺が言うと同時に、沙奈は目を閉じてしまったから。


この思いは変わらない。

たとえこれから先、誰をすきになったとしても。

今この瞬間、俺は確実に沙奈を想ってる。




白いピアノに、桜の花びらが模様を描いている。

春になってからというもの、バルコニーへと続く窓は一度も閉めたことはない。

分かってはいたけれど。

もうそこから顔を覗かせる女の子はいないということは。


でも、そこにいたということは紛れもない事実。


だってこうして桜の花が咲いたのだから。

彼女曰く「白い」花が…。





終わり


実は自サイトでのお題小説なのです。

お題を頂いておきながら、このようなラストで良いのかとも思いましたが…。

やはり書いてしまうと、これ以外のラストはありえなくなってしまいますね…。

まだまだ拙い作品ですが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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