嵐の海にて
巨大な水の壁が倒れ込んで来た。圧倒的で有無を言わせぬ質量が目の前に深まってゆく影として姿を現し、私は目を閉じた。恐ろしい空白の一瞬があり、足の下からフッと地面が消え、突然胃が空っぽになった様な感じがして、同時にずんと重くなった。叩き付ける様な衝撃が、頭と云わず胸と云わず脚と云わず、そちらの方を向いていた私の身体全体に襲い掛かって来た。痛みすら感じている余裕はなかった。辛うじて私に判ったのは、凄まじいまでの圧力と重量、そして間髪入れずに私を四方八方から万力の様に締め付けて来た、みっちりと隙の無い水の密度だけだった。慌てて———と云うより、殆ど無意識的な反射によってウッと息を詰めた私の身体全体にぎりぎりと力が込められ、私の全身はぎゅっと内側に収縮して行き、胴体をロープできつく縛り付けた手摺りに、その身を食い込ませでもするかの勢いでしがみついた。感触の柔らかい、しかし情け容赦の無い冷たい小さな刃の大群が私の皮膚を圧し潰してはさっと裏側へ去って行き、どの部分からかは確と判別は出来ないものの、一際大きなごうと云う音を立てて水が私の身体の周りから急速に退いて行き、退き際の波の皮膚とでも云うべきやや固くなった表面が、私の身体の輪郭をいちいち確かめる様に次々と締め付けて動いて行った。飛沫と呼ぶには余りに重く、大きい、しかしこの化け物じみた法外な嵐の狂乱の直中にあっては、確かに一抹のちっぽけな水滴に過ぎないずっしりとした水の塊が、水の拘束具から解放されたばかりの私の両肩にどっとぶつかって来て弾け、更に小さな飛沫を私の顔と云わず胸と云わずどどっと叩き付けた。それから直ぐに足が急に重くなり、二本ともまるで銅の二本の柱の様に固くなった。身構えする間も無くグウンと地面が持ち上がり、私はアッと云う間にバランスを崩した。若し胴体をロープで手摺りに固定していなかったら、間違い無く床に叩き付けらていたことだろう。腹の辺りでまるで胴体を輪切りにされる様な激痛が走り、そこを折り目として身体全体がカクンと捩じ曲げられた。平衡感覚を失い、波に揉まれて既に上下すら判らなくなっていた目に、びしょびしょに濡れて泡立った残り水が素早く這い廻っている床がぐいっと近付いて来た。自分でももう何処に力を込めたものやら判らずぎゅうぎゅうに固まった儘数瞬が過ぎ、それからまたフッと全ての動きが停止した。そしてまた身体全体が上空にぐいっと持ち上げられる様な感覚があり、そこで私は尚もあちこちで激痛を訴える四肢に苦しめられ乍らも、冷たい水の滝の合間から覗く空気を求めて、陸に揚げられた魚よりも激しく大きく呼吸を繰り返そうとした。だが鼻や口の周りにはまだ大量の水がまるで粘菌か何かの様にしつこく絡み付いており、私は何度も噎せてしまった。第一、胴の部分をきつく縛り上げた儘なので深く息をしようと思っても思う様には肺が動いてくれず、瀕死の者の喘ぎの様な浅く短く途切れとぎれの呼吸が幾度か可能であるだけだった。まるで気管が喉の所でぶつんと断ち切られてしまったかの様だった。私が口をパクパクさせている間に、また地面が持ち上がって来た。今度は激しい衝撃があり、咄嗟に踏ん張った私の足には、足裏から腿の付け根まで、骨の髄までじいんと響きそうな痺れが広がった。それからまるで何か見えない手によって頭を押さえ付けられでもしたかの様に首がガクンと下向きになり、左の手の甲に何か飛んで来た固いものがぶつかった。全身に感じているのとはまた違った鋭い激痛がぶつかった箇所でガリガリッとのたうち回り、私は悲鳴を出すことも叶わない継、一瞬気が遠くなりそうになり乍らも、キッと歯を食い縛ってその苦痛に耐えた。何処からか大量の水が流れて来て、私の足元で激しく泡を立て乍ら去って行ったが、最早どちらから来てどちらへ行くのかさえ、私には判らなかった。この狂った、調子の外れた、 箍の外れた、不規則な荒れ方をして予測のつかない広大な海の直中で、私は独りだった。殆ど真闇に近い状態で、厚い雲の向こうからほんの僅かに下界まで滲み出て来る星の明かりが、何か動いているものがあるのだと云うことを教えてくれてはいたが、ものの輪郭までは判らず、海の様子や、船が今どう云った状態になっているのかどころか、自分の身体が果たして今この瞬間にどんな差し迫った危険に曝されているのかさえ、定かならぬ始末だった。夜半過ぎ、まるで百年間ずっと忘れてしまっていた復讐相手を突如目の前に見い出してすっかり思い出した者の様に急に荒れ狂い始めた空と海には、目的も無く、秩序も無く、調和も無く、全ての声は掻き消され、視界も塞がれ、唯々混沌として非常に強力な力達がまるで狂った子供達の様にはしゃぎ回り、ふざけ合い、歌を歌い、そこに在る全てのものに不穏な陽気さを漲らせていた。時計なぞに目を走らせている余裕なぞとてもではないがありはしなかったし、若しあったとしてもこの暗さでは見えっこないのは判り切っていた。また星の位置を確かめようにも空一面に重く暗い雲がずっしりと垂れ込めていて、一体今が何時なのか、この狂乱の宴が始まってから何時間位が経過したのか、私には測る術は無かった。時間も距離も方角も奪われた儘、私は必死に自分の生にしがみついていることに集中した。大慌てでマストを畳み、壊れそうなものや危険なもの、必需品の類いを手早く確かめ、固定した時には、嵐は既にその熱狂の度を高めてしまっていた。すがりつくものとしては些か心許ない手近にあった階段の手摺りに自分の身体を縛り付けたことを何度も何度も後悔はしたが、今のところまだ手摺りは充分持ち堪えていれくれる様だった。だが何時これが細い木の枝の様にぽきりと折れ、この何の救いも無い暗い海へ叩き込まれてしまうものやら、保障してくれるものなぞ全く何もありはしなかった。この無数の 巨人共の爪の無い手が踊り狂うこの魔宴の波の上にあっては、幾ら人知を尽くした最新鋭の船と云えども、はらりと落ちて浮かぶ一枚の葉と何等変わるところはなかったのだ。物狂おしい、私が私でなくなって、自己保存の為に自動的に動く一箇の身体と成ってからの時間、私は幾度も不規則な手加減の無い大波を被り、濁流に揉まれ、持ち上げられてはまた突き落とされ、水や飛んで来る何か固いものに身体のあちこちを鞭打たれ、方向や上下の感覚を乱され、気を失いかけ、激痛を堪え、全身に力を込めて踏ん張り、しがみつき、喘ぎ、呻き、合間を縫って苦しい呼吸を繰り返し、生と死の境界線がふっと薄くなる瞬間を通り過ぎた。恐怖をさえ、私は踏み越えていた。私は既に幾つもの生を生きてしまった者の様に、倦怠する段階をも超えて唯々倦み疲れぐったりとなって、目の前に現れて来る宿命に為す術も無く身を投げ出し、弄ばれていた。過去も未来も、全くその意味を失っていた。私が感じ、考え、愛し、苦しみ、恐怖して来たことどもも、私がこれから為そうとしていたことども、成ろうとしてきたものどもも、全てが、この矮小な「今」と云う単位の檻の中にあってはまるきり無駄なことで、目の前の数瞬数瞬こそが、私に与えられた世界の全てであってその限界となる境界を成していた。私はその「今」の中で萎縮し、固くなり、蹲って、襲い来る災厄が通り過ぎ、また次の災厄がやって来るのを首を竦めて唯見ていた。冷たさと圧力と痺れと疲労とによって、私は辛うじて自分の肉体がまだ活動を続けていることを知った。横殴りに遣って来る水の塊に顔を 打たれ乍ら、私は、ちっぽけな一箇の塵にしか過ぎなかった。
波の勢いが次第に弱まり、船の揺れが小さくなっていっていることに気が付いたのは、それこそ気の遠くなる様な無数の瞬間を生き延びた後だった。動きが不規則で、全く油断の出来ぬ状況にあることは変わらなかったが、先ず耳元で唸りを上げる重い轟音の耳朶を打つ力が若干弱まったことに気が付いた。最初は自分の聴覚の方を疑った。余りの刺激に鼓膜がおかしくなって、音をまともに聴き取れなくなってしまったのだろうと云うのが、切れぎれの意識の中で気が付いた私が想像したことだった。だが、周囲を知る為の手掛かりがまたひとつ減ったと思い込んだ私が半ば本能的に改めて身を固くすると、足の下に感じる圧力や、全身にぶつけられて来る水の勢いが以前程ではなくなっていると云うことが、混乱した私の頭の中でも確かな事実として、次第しだいにはっきりして来る様になった。前はぎゅうぎゅういっぱいに荷物を詰め込んでいた箱に少し余裕が出て来て、何か別のものを入れることが出来そうになった感じだった。力いっぱい引っ張られていた手綱が突如として緩められ、燃え盛っていた炎が沈静化に向かっていった。夜の絶叫は次第に遠く、小さなものとなり、やがては間遠にさえなっていった。それは不思議な感覚だった。今の今までずっと重い足枷を嵌められて厳しい苦役に駆り立てられ休む暇も眠る暇も食事をすることすら叶わなかったと云うのに、それが突然何処かの誰かによって枷が外され、いきなり独りぼっちでその場に取り残されたかの様な戸惑いが、それから解放の喜びと根深い疑惑と綯い交ぜになったものが、まだまだぼんやりとした形乍らどっといちどきに押し寄せて来て、私はその流れに揉みくちゃにされ乍ら、次第しだいに人心地を付ける様に、人間の精神を取り戻せる様になっていった。全身を殴り付けて来る波や、私の身体をあちらへこちらへと好き放題に投げ出そうとする気紛れな揺れが、それ程酷いものではなくなって来るにつれ、私はようやっと少し緊張を解き、落ち着いてゆっくりと空気が吸えることを何よりも有難いと思い乍ら、すっかりがちがちに強張ってしまった四肢や腹の筋肉から少しずつ力を抜き、まともな感覚を取り戻せるように動かしてみたりした———と云っても、ロープできつく縛られていたし、冷たさと衝撃とですっかり麻痺してしまっていた状態だったので、指一本動かすにも、まるで厚い氷の層をぶち割って動かしている様なものであった。何度もなんども苦しい深呼吸を繰り返している内に、少しは体内の温度が上がって来たのか、相変わらず何処も彼処もすっかり冷え切ってはいたが、やがてそれを無数の小さな針で刺されている様な鋭い、だが同時に奇妙にも鈍い痛みとして知覚することが出来る様になっていった。全身にそれこそ氷の様にびっしりへばりついている重量のある水滴が、まるで私の皮膚を抓る様に、ぴりぴりとした無数の痛点を生み出していた。特にたっぷり海水を吸ってすっかりぐっしょりと重くなってしまった服は、今はまるで氷の拘束衣の様に私の皮膚に悲鳴を上げさせていた。自分の身体が丸ごと冷たい鉛になってしまった様な感触に耐え乍ら、私は何度も目をしばたかせた。 土塊と化してしまった様な目の周りの筋肉に力を入れると、睫毛に付着していた重い水滴が目の前で砲弾の様に弾け、目の中に入って眼球を灼き焦がした。それでも暫くすると目が慣れて来て、今までぼんやりと激しい動きしか見えなかったものが、段々と色々な形が分かる様になっていった。前方にある壁、足元に広がる床、まだ激しく水の滴っている船橋の屋根、紙屑の様にしわくちゃになった私の胸の服、そうした船の上にあるもの全てが、何処も彼処も大量の水を被って、まるでたった今深い水の底から引き揚げられて来た難破船の様な呈相を示していた。微かな薄明かりの中で朧げ乍らに確認してみると、船の揺れは着実に収まって来ているのが分かった。見るみる内に、嵐は、始まった時よりも尚急速に静まってゆき、海と空は穏やかさを取り戻していった。
目の前の危難が一応差し迫ったものではなくなったことで、私は疲労困憊の状態にあり乍らも、ほっと心の底から安堵の溜め息を吐いた。恐らく嵐は完全に去ってしまった訳ではなく、只丁度この船が嵐の目の中に入っただけらしいと云うことは直ぐに見当が付いたが、取り敢えず一息吐ける間が出来たことだけでも私は充分に満足だった。いや、と言うよりも、その時それまでの私の全活動を支えて来た生き延びようと云う衝動が、僅かに出来たチャンスの増大に齧り付き、希望や意志や感情と呼び得るものよりももっと原始的な何かを呼び起こしたと言った方がいいだろう。ゆっくりと穏やかに、規則的になってゆく船の揺れをまるで揺り籠のそれの様に一時安らかな気持ちで感じ取りつつ、私は力を抜いてその動きに身を委ねていった。先程まで耳を聾せんばかりに唸りを上げていた滝の様な轟音も、今では優しい波の耳をくすぐる歌声に席を譲り、私を殴り付け、揉みくちゃにした大量の水の乱舞も、今では足元をゆっくりと浚う泡の群れと、時折顔に当たるのが感じられる微風の様な飛沫に変わっていた。緩やかな時の流れの中で、何時しか睡魔が襲って来た。嵐が去ってしまった後ならともかく、何時また激しい音と動きの狂乱が始まるか判らない、しかも身体がこんなに冷え切った状態で手足も碌に動かせない儘眠り込んでしまうのはその儘死を意味することだ。私は懸命に私の瞼を押し下げようとする重い眠気と戦おうと試みた。駄目だ、眠ってはいけない、眠ったらお終いだ、ここで眠ればもう二度と目を開けることは出来なくなるのだ、目を開けていろ、有っ丈の力を瞼に込めろ、とにかく目を開けてさえいれば助かる、目を開けてさえいれば助かる、死なずに済む………そう思いつつも、切実に休息を必要としていた肉体の声がやがては精神の警告の声をか細い囁きへと変えてしまい、全身から力が抜けて行く感覚が、薄れてゆく意識の中でぼんやりと知覚せられた。私は柔らかな忘却の毛布に包まれ、ゆっくりと死の眠りの縁へと沈んで行った………。
数瞬が、数分が、海と空はまだひっそりと静まり返った儘、そう時間は経っていなかったと思うのだが、気が付くと、ぼんやりと光の一団が見えた。星々だった。目の届く限り空一面を粘土で塗り固めた様なぼってりとした雲のうねりに隙間が空いて、それがずっとその後ろに隠していた輝き、私がこの暗闇の中でも何とか全くの盲目にならずに済む様にしてくれていた天上の光輝を、一時的の目に私に直接届く様にしていたのだ。空は奇妙なまでに澄み渡っていた。星々が発する光は普段の何倍も明るく輝かしく、私は暗くうねる海の上に展開されるその素晴らしい光景を、殆ど自失の状態でひたすら凝っと見入っていた。そこには何か酷くおかしな異和感が、どうにも捉え所の無い非現実感があった。まるで今この場に存在していると見えるもの全てが何か誰かの見ている壮大な夢の一部であって、私は偶々何かの拍子にうっかりそれを覗き見てしまった部外者か、或いはそうしたものとしてそもそもその夢に組み込まれている登場人物達の一人であるかの様な………。それは、私がその直前まで激しく長い死の恐怖に曝されて来た為であるとか、その夜空が余りにも荘厳過ぎたからと云う理由だけでは説明が付きそうになかった。そこには何か存在の全秩序が、宇宙を成り立たせている理法が、まるで誰かの巨大な手ががきんと歯車を入れ替えでもしてしまったかの様に、根底から逆転せられてしまって、物事の階層がすっかり引っ繰り返ってしまった、そんな感じがあった。私が見ているのは嵐の目の中にぽっかり浮いた澄んだ星空などではなくて、何かもっと根本的に別のもの、別の次元にある異世界への入り口が、そこに大きく口を開けて、何ものかを待ち受けているかの様だった。それはまるで、厚く暗い雲に隠されていたのは満天の星を湛えた美しい安らぎの風景などではなくて、何かそれまでそこに存在していた全てのものに関わる根源的な真実、驚愕と畏怖の念無しには到底人間の心には受け容れることは愚かその片鱗を理解することさえ出来ない圧倒的な力を秘めた、しかし何処までも静かに沈黙している存在の秘密であるかの様だった。それに比べれば、他の全ての存在物など、その意味に於いては無に等しかった。それまでに存在していた、いや、存在していたと思い込まれていた一切合財のものは、あの嵐も、波も、船も、私も、そしてそれまでに私が経験して来たと思い込んでいたあらゆる事象は、何か入念に仕組まれてはいるが下手な冗談、辻褄合わせすら碌にきちんとしていない一篇の作り話、一時の面白い気晴らしにはなるが、しかし全く重要ではないものの様に思われて来た。過去も、そして未来さえも、この永遠唯一の真実相の下ではどうでもよいものとなった。一切の形あるものは、この凝固した時の中でそのあらゆる意味を剥奪された。
私は今だに、水を吸って固くなったロープで階段の手摺りにぎゅうぎゅうに縛り付けられた一個のぼろぼろの肉体として、その天空にひたすら見入っていた。私の鼓膜にはあちらへゆらりこちらへゆらりと揺れる穏やかな波の立てる音は届いていた筈なのだが、大気の動きまで含めたそれら全てを圧して、絶対的な静寂が、その真意を窺い知ることの出来ぬ沈黙が君臨していた。私は皮膚に感じる水の冷たさや重さ、その内側で痙攣でも起こしたかの様な腕や腹の筋肉の震えも、鼻孔や喉に流れ込んでは、熱と共に一刻一刻と私の生命を持ち去って行く冷えびえとした夜の海の空気も、全てを知覚してはいたのだが、しかし私には全ての感情が麻痺していた。私はまるで、それまでの疲れで油断している所をぐいと横から手を突き出されて魂を持って行かれた抜け殻の様に、目以外から齎される全ての感覚を完全に忘れ去って、呆然とそこに唯存在していた。見える星の数は刻一刻と益々増加してゆき、雲は何処か目の届かない辺境に追い遣られた。やがて星空は目路の届く限り頭上一面を埋め尽くす様になり、暗い波はその光を淡く照り返して無気味な対照を見せていた。
その内に変化が現れた。今やぎらぎらとこちらの目を射抜かんばかりの勢いで輝きを放っている星々の背景には、無論のこと墨を流した様な無窮の黯黒があった。果ての無い冷え切った孤空を背に真っ直ぐな光の束が闇を貫き、重なり合い、互いに交叉し合い、無言の一大交響曲を奏でていた。だが黙ってその光に好きな様にさせていた暗がりが、蠢き始めたのだ。いや正確には、滲み出し始めたのだ。それはまるでその黯黒が何も無い空っぽの広大無辺の空間なのではなくて、ぎりぎりと隅まで目には見えない密度の高い物質を充満させた空間、ぎちぎちに荷を詰め込んだ船倉の様なもので、その中身が今じわりじわりと、星々の妨害を圧して溢れ始めたかの様だった。まるで天蓋全体が途方もなく大きな書き割りで出来ていて、星々はそこに貼り付けられた安っぽい飾り、そこへ背景に塗りたくられた重苦しい真っ黒な塗料が乾き切らずに垂れ出して来た様なものだった。どろりとした濃密な闇が、星々から発せられる光の筋を一つ、またひとつと消して行った。それはまるで、コールタールの泥海の中に落とした幾つもの金剛石の粒が、次第にずぶずぶとその海の中へと埋もれて行くのに似て、その輝きは単に見えなくなるのではなく、闇に喰らい尽くされてゆくかの様に見えた。そう、広大な黯黒は侵略を開始していたのだ。それは貪欲に飢え、がつがつと浅ましく喰い漁る為に今まで引っ込んでいた所から前面に押し出て来て、星々とその光がまるでちっぽけで薄っぺらい障害物ででもあるかの様に押し退け、迫り出し、火と燃えるもの一つひとつの輝きを次々に呑み込んで行った。濃厚な欲望が、喰らい尽くしたいと云う巨大な欲望が全天に広がり、そのあらゆる方位から、私の居るこの地表目駆けて垂れ落ちて来ようとしていた。頭上どちらを向いても闇、闇、闇、その全てが、餌を求めて下界へ降りて来る。 空が、私を喰おうと襲い掛かって来る!
気が付くと体の芯からじわじわと沸き出して来ていた恐怖が一気に爆発しかけていた。私の身体の隅々まで再び、いやより一層強い緊張が駆け巡り、腹の底が砂の袋でも詰めた様にずうんと重くなった。冷気によるものとはまた違う鳥肌が立つ感覚がして、全身の血流がまるでブレーキの壊れた列車の様に逆流する思いがした。目の前がかあっと赤くなったが、それはそこに存在しているもの全てを薄暗い陰気な赤色に染め上げた。いや事実、世界は赤くなっていたのかも知れない、滴り落ちて来る闇の輪郭に瞳を凝らしてみると、何やら赤っぽい閃きが見えた様な気がした。それはまるで、その闇全体が生きて脈打っていて、真っ赤な血がその体内を流れているかの様な印象を、電撃の如き衝撃で以て私に与えた。生きて貪り、増大し、増殖する闇! 私は怖気立った。その悍ましい想像が、私の正気に手を掛け、根本からぐらぐらと揺さぶりを掛けて来た。何と云うことか! 私は狂い始めているのだろうか? 混乱した素早い思考が頭の中を入り乱れて走り回ったが、その騒動の中を時折、不可解な稲妻が幾筋か閃いた。私は文字通り身動きひとつ出来なかった。ロープできつく縛られていたからではない、私の体の内側では血流が熱湯の奔流の様に沸騰し荒れ狂ってはいたが、その外側はまるで石膏で固めでもしたかの様に、ぴくりとも動きはしなかったのだ。永劫とも思える数瞬の後、盲滅法で強烈な恐怖が、があんと私を打ちのめした。それに少し遅れて、この儘では助からない、間も無くあの巨大な闇が、私の上にも降りて来て私を捕えてしまうだろう、そして私を真っ黒の溶岩の中でどろどろに溶かしてしまうだろうと云う認識が、私を絶望の奈落の底へと突き落とした。私には何の用意も出来ていなかった。身構えることも、気をしっかり保とうと理性を励起することも出来なかった。私は食べられる、嫌だ、嫌だ、嫌だ………! その時の私の全存在は、その叫びが全てであった、他には何も私に出来ることは無かった。私は迫り来る天を見上げ乍ら、唯々怯え、戦いていた。………闇は、この目でしっかり同定しようとする度にちらちらと瞬いて確実な認識をするりと逃れ出た。全てが単なる光の錯覚で出来た法外な幻影であるかの様だった。だが、闇は厳然としてそこに在る。既に闇に飲まれていた星々が、再び、今度は翡翠の様な赤い輝きを発し始め、絶望する下界を冷やかに見下ろしていた………。
その星々がまた消え始めたことに私が気が付くまでには、暫しの時間を要した。いや、視覚はその現象を視野の隅に捉えてはいたのだが、それが今までのとは違う何か別の動きだと云うことには思い至らず、その意味を把握出来ていなかった。星々の輝きをまた隠そうとしている動く闇が、それまでの夜空から溢れ出して来ていた闇とは別の種類の色だと云うことに気が付き始めたのは、自分の体が揺さぶりを掛けられ、それが船全体が、大きくゆっくりとだが、また不穏に揺れ始めている所為だと察し始めてからのことだった。そう、嵐は再び狂い始めようとしていた。びちゃびちゃと降り掛かって来る水滴が次第に大きく、重いものとなってゆき、不規則に息づいていた船の安息は、また間隔も方向も予想のつかぬ動きが活発化して来ることによって脆くも崩れ去ろうとしていた。絶対の静寂からやがて地を唸らせ膚にびりびりと伝わって来る位大きなとどろきが立ち昇って来て大気を満たし、ぶつかり合う波同士が立てるくぐもった破裂音が、あちこちから響いて来る様になった。船が嵐の目から外れてしまい、再びその凶暴な 顎の中へ落ちて行ったのだ。
一揺れ毎に、そこに漲っているぴんと張り詰めた力が勢力を増し、勢いを付けて行く様だった。私は嵐への恐怖が新たに沸き起こって来たことによってふたつの強力な感情が 鬩ぎ合う場と化してしまった自分の心に極力呑み込まれないように精一杯の精神的な努力を続け乍ら、空の様子を、その時の私に可能な限り注意深く見守った。暗雲は赤く禍々しい光を放つ星々と、それらに覆い被さっている黯黒とをその向こうに隠しつつつあった。彼方より進攻して来ていた悍ましい色彩は、その目に見える勢力範囲を着実に減じつつあった。だがそれは、目に見える脅威が見えなくなったと云うことは、その脅威が去ってしまったことを意味するものだろうか? 雲がそれらを隠してしまったからと云って、その雲は恐るべきものどもの降下をそこで食い止めてくれるとでも云うのだろうか? そうではない、と云う強い確信が、突然私の中に生まれて来た。そうではない、闇は決して去ったりなぞしていない、この嵐は単なる通りすがりの傍観者に過ぎない、いや、寧ろ闇がこの嵐と云う装いを新たに獲得したに過ぎない、闇の進攻は止まることがない、獲物をその手で捕え、牙にかけ、呑み込み、喰らい尽くすまでは、決して降りて来るのを止めることはないだろう、そんな強い確信が、突如、何の理由も根拠も無く、私の中に生まれて来たのだ。その時の私は平静の懐疑心など何処へ置き忘れたものやら、ひたすら一心にその確信が真実に基づいたものであると思い込み、そして恐怖した。揺れと音と衝撃は益々その激しさを増してゆき、掛かって来る大波は再び私の呼吸を困難なものにし、がばと水の中に突っ込む度に酷い頭痛と全身がひび割れてゆく様な痛みが襲って来たが、私が恐れていたのはそれらではなかった。それらは今や単に肉体に加えられる暴威に過ぎなかった。既に私ははっきりと自覚していたのだ、現時点でのっぴきならない事態に陥ってしまっているのは何よりも私の魂であり、私と云うものの存在の根幹を成している、万有との繋がりであると云うことを。
死にもの狂いとなって私は抵抗を試みた。具体的に何が出来るのか解っていた訳では全くなかった。私はとにかく出来る限り自らの精神の周囲に鎧を張り巡らせ、パニックの中でぐらつき倒れそうになる散りぢりの意気を何とかしゃんとさせようとした。正気を保っていること、それが何より重要だ、恐るべき脅威を前にして己を失ってしまっては、この場合、みすみす敵の前に自分を放り投げてやるのと同じことになるのだ、と云う分析を理解するだけの知力はまだ残っていた。私は被さって来る海水に挫けそうになり乍らも両目をしっかと見開き、気力を一点に集中させて、ぐらぐらと揺れて定まらない視界の中で、キッと天空を睨み付けてやろうと顔を上げた。
長い、苦痛に満ちた時間が過ぎた。私を苦しめたのは専ら、今にもあの分厚く垂れ込める暗い雲の層にぶわっと大きな隙間が出来て、そこからじわじわと黒く汚わらしいものが眼下の海目駆けて降りて来るのではないか、と云う予想だった。私は来るべき災厄の瞬間の訪れを今かいまかと警戒を続け、緊張の糸がぎりぎりに引き伸ばされて、今にもぴきんと切れてしまいそうになっても、そんなことは絶対に許されることではないのだと云う自覚と、そんなことはどうでもいい、もう一刻も早くこのどす黒い悪夢の様な状況から逃げ出して楽になりたいと云う欲求との間で、酷く取り乱し、そしてそれが長いこと回復に向かわない時もあった。それでも私はやがて訪れるであろう破滅を前にして、せめて毅然とした態度で己の捕食者に対峙してやろう、永遠の死を前にしても決して騒がず慌てず、自らの運命をしっかりと見極めようと云う気になっていった。いや、そうなってゆきたいと意欲した。大轟音はいよいよ凄まじく私の全身を包み込み、冷たい夜の波は私の肉体を本気で凍り付かせようと猛烈な攻撃の手を更に強くしていった。そんな中、私は喘ぎ、噎せ返り、最早痛みでしかない冷たさに歯を食い縛って耐え、屡々気が遠くなりそうになり乍らも、先程眠るまいとしたのとは全く逆の理由で、何としてもこの両の瞼だけは決して閉じまいと決めていた。
どれだけそうしていただろうか。気紛れな波に揉まれ、何度もなんども波の洗礼を受けて疲労の極みにあった私の脳裏に、時折、何か奇妙な幻影が、まるでカメラのフラッシュか何かの様に、だがこの上もなく静かに閃いて来始めた。それは混乱の直中で私が切れぎれに思い出していた私の生涯と、そしてこれから私の生涯となる筈だったところのものどもの様々な像の中に紛れて、一、二度何かの間違いの様にさっと閃いては消え、初めの内はそれこそ煮えたぎる意識の奔流に流されて全く気に留まったりすることはなかった。だが、何度も繰り返し現れる内に、そのイメージが余りにも馴染みのないものであったこともあって、漠とした異和感が私の中で膨れ上がって来た。それは私の中にはそもそも存在していない筈のイメージだった。私がそれまでに見たり聞いたりしたものどもの中でそれに似た様なものは何ひとつ無かったし、またふと気紛れに迸らせる奔放な夢想の中にも、そんなものはそれまで現れた 例は無かった。それは何処か私の知らない処から遣って来たのだ。
初めの内、それはぼんやりとした只の白い輪だった。何とかその幻影が現れ、ああ、さっきもこんなものを見たなと何度か繰り返し思い出している内、それは次第にはっきりとした輪郭を取り始め、その大きさやそれ以外の細部についても段々と判別出来る様になっていった。それは先程見た静かな星空と静かな海を背に浮かんでいる、巨大な白い輪だった。それは背景の星々と混じり合って水平線いっぱいに冷厳な輝きを放っており、最初の内は暗い部分のイメージがはっきり見えず判らなかったのだが、やがてそれが正確には完全な円ではなく、実は半円であることが明らかになって来た。円みを帯びた遠い水平線の向こうに、それまでに私が見たことのあるどんな虹よりも大きな白い半円が架かっていた。それが丁度上手い具合に海面に映ったその半円の像と重なり合って、恰もひとつの円を成しているかの様に見えていたのだ。海面に隠れてしまって見えない水平線の向こうの部分がどうなっているのかは判らなかった。やがて慣れて来ると、その色も純粋な白ではないらしいことが判った。背景が余りに暗かったものだからコントラストによってその様に見えただけで、はっきり区別して見てみると、それは薄い青色をしているのだった。背後の星々も、先程実際に見た時よりは更に輝きを増し、色とりどりにその途轍も無い青白い円の周囲を取り囲んでいた。
それは実際の記憶と出所不明の空想が混じり合った奇妙な幻影だった。あの非常時に何故その様な一見不可解な幻が私の脳裏に浮かんで来たのか、その理由は全く不明であった。余りの疲労の為に譫妄状態に陥っていた訳ではない、また私には幻覚を見る様な体質や遺伝は無かったし、何かに対して祈りを捧げたり呪ったりしていた訳でもない、それは唯、何の説明も無くそこに現れたのだ。それは全く合理的な出来事の範疇の外にあったが、不思議と有無を言わせぬ説得力に満ちていた。
体は嵐に揉みくちゃにされ乍らも、まるで頭の中のその幻影を見ている部分だけが、実はまだあの嵐の目の中に居て、今は遠く離れてしまった光景を見ているか、さもなくば、この騒々しい嵐を、まるで最初からそこで何も起こっていないかの様に、その向こうに広がっている筈の穏やかな光景を透かし見ているかの様だった。
不意に、今までに無い様な強烈な力が船体に掛かったかと思うと、まるで巨大な手が船をがっちりと捕えて持ち上げでもしたかの様に、船が———船首側だったか船尾側だったか、その時の私にはもう既に判断が付かなくなっていたのだが———ぐいと強引に傾き、海面高く浮き上がった形になった私は、眼下遙かに混沌と荒れ狂う波の饗宴を見下ろすことになった。それから身も凍る落下の瞬間があり、顎が砕けそうになる程の激しい衝撃、そして、うわっと立ち上がった分厚い冷水の壁が、頭上から一気に倒れ込んで来た。自分の身体が突如として、針金の束になってしまったかの様な物凄い圧迫感と、脳を 劈く様な強烈な冷たさ、そして更に容赦の無い次の揺れ! 横波と縦波が続け様に何度も船腹に襲い掛かり、重心の狂った駒の様にくるくると船全体を回転させた。永遠の恐怖と罪業とを溶かし込んだどろりとした黒い蜜に呑み込まれる以前に、船はバラバラに分解しそうだった。既にもう手の出し様の無い今となっては、私には、自分の身体を括り付けているこの階段の手摺りがぽっきりともげてしまったりしないよう、ひたすら願うことしか出来なかった。
波飛沫と水の大うねりの立てる間断無き轟音に混じって、ほんの微か乍ら、ぎりぎりと鋭い音が時折聞こえる様になった。間違い無い、船が壊れてゆこうとしているのだ! 最早まともに目を開けていることすら侭ならぬ状況の中で、私は唯々翻弄されるばかりだった。空の様子を確認しようにも、果たしてどちらが上でどちらが下かさえ判らぬと云う始末で、自分の身に一体今どんな危難が降り掛かって来ようとしているのかも、それが実際に降り掛かって来るまで全く判らないし、そもそもそんなことに神経を使っている余裕なぞこれっぽっちもありはしなかった。激しい大騒ぎの中で私は再びちっぽけな生にしがみつこうとするだけの只の点になり、私の全存在は今を何とか耐え忍ぶことのみに収斂していった。世界はぐしゃぐしゃに折り畳まれ、今にも私を押し潰そうと不安定にぐらついた。
不思議なことに、それだけ逼迫した混乱の中にあり乍らも、あの巨大な青白い輪の像だけは、まるでそれだけはしっかりと心の壁に丈夫な釘で打ち付けられてでもいるかの様に、それらの全てから超然として固定した儘、その神々しくも荘厳な輝きを失おうとはしなかった。世界は黯黒に向かって泣き喚き絶叫していると云うのに、その輝きは寧ろ一層その冷たさと強度を増してゆくかに思われた。いや、事実その光輝は次第に力強く周囲を照らし出し、真昼の青い太陽の如くになった。背景となっている夜空や星々とよく比べてみると、それは微かに動いているのが判った。回転しているのか、単に振動しているのかまでは判別出来ないが、とにかくそれはブルブルと動き、唸りを上げていた。実際に私の耳にそれらしい音が聞こえて来た訳ではない、私の鼓膜と全身の皮膚とに届いて来る音響はと云えば、砕ける波濤や、ごぽごぽ云う水流の動き、泡立つ海面や、ぎしぎしと悲鳴を上げる船体の音ばかりだった。しかし、にも関わらずそれは明確に音を発していた。それは大気の振動と云うよりも、何か私の知覚本性に直接響き亘って来る様な、四大の精霊の歌声の様な感じがした。幻の音であり乍ら、全世界に向けて発せられた勅命の鐘の音の様に、それは形而下の諸々の凶暴な騒音共に対して一歩も退けを取らずに 鬩ぎ合い、そして終にはそれら全てを圧して高らかに厳しく有無を言わせぬ唸りを流し始めた。その音が、私がその輪が動いていると視覚的に認識したことから来る知覚の錯誤、混乱した状況下ではよくある思い込みによる空耳の様なものだったとしても、それが確かに強力無比の〈力〉を持っていることには疑い様が無かった。恐るべき闇よりも更に恐ろしい神聖な〈力〉の顕現を自分は目の当たりにしているのだと云う認識が激しい衝撃となって、私の脳髄を直撃した。その光輝と振動は一瞬毎に着実に大きくなってゆき、嵐の海全体が、何れはその輝きに刺し貫かれ、駆逐され、毒気を抜かれ、凄まじい大音響と共に呑み込まれて行ってしまうのではないかと思われた。私は目を閉じることも声を上げることも叶わぬ儘、私の頭の中でしか広がっていない筈のその異様な光景に釘付けになり、嵐の痛みや苦しみは、全て正常に知覚されてはい乍らも、私には窺い知ることの出来ぬ何か深遠な理由からその光景の背後へと、彼方へと後退して行き、その圧倒的な光の放射の中に呑み込まれて行った。無窮の宇宙がその輪を中心に収縮を始め、且つ同時に、解放されて行った。船がまた壊れてゆく音がした。と同時に、清冽な恐るべき目映さが視界を覆い、唸りが一層高く鋭く大きくなって、一本の線になった………。
音と、揺れと、ぼんやりとした光………時間が前後し、世界の次元が幾つも入れ替わる………数瞬か、数分か、数時間か、数日か………私が朧げ乍ら意識を取り戻すまでには、恐らく長い時間が掛かった。気が付くと私は、がくりと首を胸に預けた儘、それでもまだ胴体を手摺りに結わえ付けた儘の状態で、静かな波の間に浮かんでいた。酷くゆっくりと時間をかけて周りを見渡すと、船が完全にバラバラになってしまい、それでも何とかまだ一塊に固まって、海の直中に浮いているのが判った。視界には全く問題は無かった。濃い靄の中に薄らと白い光が満ちていた。夜明けだった。嵐は去っていた。私の肉体は酷く痛め付けられ、あちこちに激痛を伴う傷を作り乍らもまだ無事だった。私の魂もまだ私の許にあった。私は自分が恐怖の一夜、或いは幾晩かを無事生き延びたことを知った。私は助かったのだ。海は再び穏やかに静まり返っていた。
finis